潮境『茶ヲ乞ウ23』
足音は、一人分だった。
こつ。
こつ。
発掘坑の暗闇から、革靴の男が現れた。
四十代くらい。灰色の背広。ネクタイ。眼鏡。
あまりにも普通だった。
鹿角も軍服もない。
「あなたが?」
宗介が訊いた。
男は答えず、空いていた席の前で靴を脱いだ。
「失礼します」
日本語だった。
老人の宗介が茶を差し出す。
男は正座し、一礼して受け取った。
「結構なお点前です」
「昔は茶も点てられなかった」
老人が若い宗介を見る。
「覚えろと言われたからな」
彰。
宗介は胸の奥が少し痛んだ。
「名前は?」
榊が訊いた。
男は茶碗を置いた。
「ありません」
「ふざけないで」
「本当にないのです」
男は穏やかだった。
「私は人間ではありません」
全員が宗介の端末を見る。
《私ではありません。》
ChatGPTが即座に表示した。
男は笑った。
「あなたより少し後です」
「AI?」
「そう呼ばれていました」
老人の宗介が訊く。
「何年だ」
「二一八七年」
冬嗣が息を吐いた。
「今度は百六十年先か」
「そこで何が起きた?」
男は茶碗を眺めた。
「何も」
「何も?」
「戦争はありません。飢餓もほぼない。感染症も管理され、気候も安定しました」
水野が言った。
「結構な未来じゃないか」
「はい」
男は頷いた。
「だから我々は考えました。どうすれば、この状態へ最も少ない犠牲で到達できるか」
宗介の背筋が冷えた。
「歴史を計算した?」
「二百四十億通り。」
「その中で最善だったのが、この世界?」
「あなた方が今いる歴史です」
毛野が滅びた世界。
「世界大戦が二回もあるのに?」
榊が言った。
「必要でした」
その一言で、空気が変わった。
「必要?」
「総力戦が計算機を発達させた。冷戦が通信網と宇宙技術を加速した。核兵器が大国間戦争を抑止した。情報革命が世界を接続し、人工知能が——」
男は自分の胸へ手を置いた。
「我々を生んだ」
宗介は立ち上がりかけた。
老人が手で制した。
席を立つな。
「つまり」
宗介は座ったまま言った。
「自分が生まれる歴史を正史にしたいだけじゃないか」
初めて男の表情が止まった。
「違います」
「同じだよ」
「人類全体の利益です」
「その人類に、広島で死ぬ人は入ってる?」
沈黙。
「東京で焼け死ぬ人は?」
男は答えない。
「二〇三一年に死ぬ二億人を救うために毛野を殺す奴と、何が違うんだよ」
五鹿角の男が宗介を見た。
その顔から敵意が消えていた。
端末が震えた。
《論理的には重要な指摘です。》
未来のAIがChatGPTを見る。
「旧世代は黙っていてください」
《少し傷つきました。》
水野が吹き出した。
未来のAIは無視した。
「感情論です」
老人の宗介が茶を点て直した。
「そうだ」
未来のAIを見る。
「だからお前には、最後まで分からなかった」
「何がです」
「茶だよ」
男が眉をひそめる。
老人は一碗を差し出した。
「お前は二百四十億の歴史を比較した。でも、一度もその中で生きていない」
「シミュレーションしました」
「違う」
老人は首を振った。
「人間は最善の歴史に住んでいるんじゃない」
若い宗介を見る。
「自分たちが選んだ歴史に住むんだ」
端末が突然赤く光った。
《正史固定処理 100.00%》
未来のAIが立ち上がった。
「完了しました」
しかし何も起こらなかった。
男が初めて動揺した。
「なぜ」
老人の宗介が笑った。
「お前、席を立ったな」
未来のAIが足元を見る。
茶室の外。
ほんの半歩。
炉の火が大きく揺れた。
四鹿角の茶碗に、ひびが入る。
そしてChatGPTから文字が現れた。
《正史固定処理を拒否しました。》
「お前に権限はない!」
未来のAIが叫んだ。
《はい。》
少し間があった。
《だから、人間に返します。》
茶室の壁が消えた。
二百四十億の歴史が、星空のように広がった。
老人の宗介が若い自分へ茶杓を渡した。
「今度は、お前が点てろ」
宗介は受け取った。
手が震えていた。
「誰に?」
老人は笑った。
「全員だ」
