潮境第二部『席ヲ空ケヨ6』
「もう一度お願いします」
宗介はマイクを握り直した。
『毛野、です』
佐伯の声が雑音に揺れた。
『ケノ、あるいはケヌ。そう聞こえました』
「録音は?」
『あります。送ります』
数秒後、通信士の端末に音声が届いた。
再生する。
低い雑音。
波の音。
その向こうから男の声が聞こえた。
『――ケヌ――フネ――』
あとは分からない。
日本語に似ている。
だが宗介が知っている日本語ではなかった。
『小県さん。毛野というのは何です?』
「何って……」
宗介は答えに詰まった。
説明したことなどない。
「毛野は毛野ですよ」
『すみません。分かりません』
通信士が横を向いた。
また笑っている。
「東国の……」
宗介は言葉を探した。
「古い家です」
『家?』
「いや、家というか……」
氏族。
そう言えばいいのだろうか。
しかし、それだけでもない。
宗家があり、祭祀があり、学校で習う歴史があり、今でも上野には毛野の名を冠した組織がいくつもある。
宗介自身、それを説明しろと言われたのは初めてだった。
「昔からあるんです」
情けない答えになった。
『有名なんですか』
「有名ですよ」
『こちらでは聞いたことがありません』
宗介は黙った。
「本当に?」
『少なくとも私は』
佐伯の声が少し遠ざかった。誰かと話している。
『今、艦内でも調べています』
宗介は妙な気分になった。
毛野を知らない日本人。
そんなものがいるのか。
*
食堂へ戻ると、汐里はまだいた。
「遅かったですね」
「毛野って知ってます?」
汐里が箸を止めた。
「馬鹿にしてます?」
「ですよね」
宗介は向かいに座った。
「向こうの人、知らないんです」
「日本人なのに?」
「日本人なのに」
汐里はしばらく考えていた。
「じゃあ、学校で何習うんでしょう」
「そこ?」
「だって習ったでしょう。毛野と大和の東西盟約とか、北海路争いとか」
「習いましたね」
「試験に出ましたよ」
「よく覚えてますね」
「歴史、好きだったので」
意外だった。
「海だけじゃないんだ」
「失礼ですね」
汐里は煮付けを食べ終えると、湯を注いだ。
「小県さんは毛野なんですか?」
「違いますよ」
「小県って上田でしょう」
「祖父はそう言ってましたけど」
「信濃なら近いじゃないですか」
「近いだけで毛野にされたら困ります」
宗介は湯を一口飲んだ。
「そもそも毛野って何なんでしょうね」
口にしてから、自分で妙なことを言ったと思った。
汐里も笑った。
「向こうの人に聞かれて困ったんでしょう」
「はい」
「分かります」
「志賀さんなら説明できます?」
「東国の古代氏族から始まった政治勢力」
「教科書みたいだな」
「じゃあ小県さんは?」
「上野にいる偉い人たち」
「ひどい」
二人で笑った。
汐里が湯呑みを置いた。
「でも、そういうものかもしれませんね」
「何が?」
「ずっとあるものって、説明しないでしょう」
宗介は返事をしなかった。
東京もそうだった。
日本もそうだった。
なぜ東京なのか。
なぜ日本なのか。
聞かれなければ考えもしない。
「向こうには、毛野がない」
汐里が言った。
「そうみたいです」
「じゃあ何があるんでしょうね」
宗介は窓の外を見た。
暗い海の先に、島の灯が見える。
そのとき扉が開いた。
通信士だった。
「小県さん」
「またですか」
「島からです」
「今度は何と?」
「音声じゃありません」
通信士が紙を差し出した。
画像だった。
島の海岸に立つ一本の柱。
そこに文字が刻まれている。
宗介には読めなかった。
だが汐里が画像を見た瞬間、立ち上がった。
「これ……」
「読めるんですか」
「読めません」
汐里は画像を指で拡大した。
「でも、この印」
柱の下部。
三本の線と、角のような形。
汐里の表情から笑みが消えていた。
「うちにあった海図にも、これがありました」
