潮境第二部『席ヲ空ケヨ8』
「命令形ですね」
宗介が言った。
「そこですか」
汐里が双眼鏡を覗いたまま答えた。
「もう少し丁寧に頼めないのかな」
「千年前の人だったら敬語の感覚も違うんじゃないですか」
「千年前って決まったんですか」
「決まってません」
汐里は双眼鏡を下ろした。
「でも、あの人の服」
宗介も見る。
白っぽい上衣に、幅の広い袴のようなもの。頭には何も被っていない。髪は肩まで伸びている。
時代劇に似ている。
だが、宗介が知っているどの時代とも少し違った。
「上陸は許可しない」
艦長が言った。
「向こうが寄せろと言ってます」
「言われたから行く船乗りはいない」
「水路局も同意します」
汐里が海図を示した。
「浅すぎます。測深艇で先に道を探します」
「志賀君が乗れ」
「はい」
「小県君もだ」
宗介は艦長を見る。
「私も?」
「向こうが話す気なら、君の仕事だ」
「茶、持ってきてないんですけど」
「水ならある」
「茶使の存在意義が」
汐里が笑った。
*
測深艇はゆっくり島へ近づいた。
汐里は操船席の横で端末を見続けている。
「右、五度」
「了解」
「そのまま。深度九・八……八・六……」
宗介には数字が減るたびに寿命も縮むように思えた。
「これ、座ってていいんですか」
「立ってても浅瀬は避けてくれませんよ」
「安心させる気ないでしょう」
「ありますよ。私が乗ってます」
汐里は笑った。
「沈む道を案内するために水路局に入ったんじゃありません」
その声には妙な自信があった。
島が近づく。
浜に立つ男の顔まで見えるようになった。
四十代くらいだろうか。
男は白布を下ろした。
その後ろにもう二人いる。
武器らしいものは持っていない。
「深度三・二。ここまで」
艇が止まった。
浜までは百メートルほど。
宗介が拡声器を取る。
「こちらは日本海務院です」
男たちが顔を見合わせた。
「あなた方は何者ですか」
返事はない。
「言葉は通じますか」
浜の男が何か叫んだ。
聞き取れない。
もう一度。
汐里が首を傾げる。
「日本語……ですよね」
「たぶん」
三度目。
今度は宗介にも一語だけ分かった。
「……日の本?」
男が自分の胸を指し、次に海を指した。
そして、
「ケヌ」
とはっきり言った。
宗介と汐里は顔を見合わせた。
「毛野?」
宗介が大声で聞いた。
男の表情が変わった。
何かを早口で叫ぶ。
「待って、分からない」
宗介は両手を上げた。
「毛野は知っています!」
男が黙った。
宗介はどう説明すればいいか考えた。
「毛野は――」
言葉に詰まる。
まただ。
毛野とは何なのか。
宗介は仕方なく北を指した。
「上野!」
男は分からない顔をした。
「赤城!」
反応なし。
「榛名!」
男が動いた。
後ろの二人も同時に宗介を見る。
男は浜辺まで走ってきた。
そして膝をついた。
両手を砂につき、頭を下げる。
「何してるんです?」
汐里が呟いた。
男は顔を上げた。
ゆっくり、宗介にも分かる言葉を選ぶように言った。
「ハルナ……まだ、あるか」
宗介の喉が詰まった。
「あります」
男の目に涙が浮かんだ。
「山も?」
「あります」
「火は?」
宗介は答えられなかった。
男は海の向こうを見た。
それから、ひどく長い旅を終えた人間のように笑った。
「ならば」
古い発音だった。
それでも今度は、はっきり聞き取れた。
「我らは、帰れる」
