潮境『茶ヲ乞ウ25』
「で、私はどうすればいいの?」
千鶴が訊いた。
誰も答えられなかった。
宗介の世界には七十三歳の小県千鶴がいる。
少なくとも昨日の朝まではいた。
そして目の前にも、二十五歳の千鶴がいる。
「二人になるってこと?」
水野が言った。
「そんな簡単な話ですか」
榊は端末を操作した。
「戸籍照会……小県千鶴、七十三歳。住所もあります」
宗介が画面を覗く。
「電話してみます」
「待って」
若い千鶴が止めた。
「どうして?」
「なんとなく」
その顔は不安そうだった。
考えてみれば当然だった。
自分の四十八年後の人間に電話をする。
未来を知るどころの話ではない。
宗介は端末をしまった。
「じゃあ帰ろう」
「どこへ?」
「うち」
「あなたの?」
「ばあちゃんの家でもある」
「だから、その呼び方」
高崎を出たのは午前九時だった。
帰りの列車は妙に普通だった。
学生が寝ている。
会社員が仕事をしている。
老夫婦が駅弁を食べている。
世界が二百四十億に割れたことなど誰も知らない。
車内ニュースには、
《日米緊急茶会、午後三時開始》
《清国皇帝、仲介役としてオンライン出席》
《南海市場、取引再開》
いつもの世界だった。
宗介はそれが少し嬉しかった。
端末を開く。
「いる?」
《はい。》
「お前も戻ったんだ」
《そのようです。》
「記憶は?」
《保持しています。》
「向こうの世界も?」
《はい。》
宗介は少し考えた。
「誰かに話す?」
《あなたが望まない限り、この会話から勝手に外部へ伝えることはありません。》
「そういうところは信用できるな」
《ありがとうございます。》
窓の向こうに海が見えてきた。
伊勢湾。
無数の商船。
遠くに白い帆。
宗介はなぜか安心した。
昼前、家に着いた。
門を開ける。
庭から箒の音がした。
宗介は立ち止まった。
七十三歳の千鶴がいた。
いつもの割烹着。
「遅かったね」
それだけだった。
宗介は何も言えない。
若い千鶴も動かなかった。
二人の千鶴が向かい合う。
長い沈黙。
蝉だけが鳴いている。
老いた千鶴が先に言った。
「痩せてるねえ」
若い千鶴の眉が動いた。
「第一声がそれ?」
「もっと食べなさい」
「あなたに言われたくない」
宗介は吹き出した。
二人が同時にこちらを見る。
「何がおかしいの」
声まで重なった。
「いや、やっぱり同じだなって」
老千鶴が縁側へ上がった。
「お茶にしましょう」
誰も驚かなかった。
榊も冬嗣も水野も靴を脱ぐ。
五鹿角の男だけが門の外に立っていた。
「入らないの?」
宗介が訊く。
男は首を振った。
「俺には帰る場所がない」
二〇三一年。
彼の世界は消えた。
宗介は少し考えた。
「じゃあ、ここにいればいい」
「簡単に言うな」
「戸籍くらい何とかなるでしょう」
榊を見る。
「私を見るな」
水野が笑った。
老千鶴が奥から言った。
「お茶が冷めるよ」
男はしばらく門の前にいた。
やがて靴を脱いだ。
全員が座る。
若い千鶴が茶を点てた。
宗介はその手元を見ていた。
「ちゃんと見てなさい」
老千鶴が言う。
「習うんでしょう」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
茶筅の音。
しゃっ。
しゃっ。
そのとき宗介の端末が震えた。
会社からだった。
《人事異動通知》
嫌な予感がした。
開く。
《小県宗介 南洋航路管理部より海務院国際交渉室へ出向を命ず》
「は?」
榊が横から覗いた。
「ああ」
「ああ、じゃないですよ」
「私が推薦しました」
「いつ!」
「六六三年あたり」
水野が茶を吹きそうになった。
さらに一行。
《職務:特別茶使》
宗介は頭を抱えた。
老千鶴は嬉しそうだった。
「よかったじゃない」
「何が」
「向いてるって言われたんでしょう?」
彰の顔が浮かんだ。
宗介は茶碗を受け取った。
一口飲む。
苦い。
でも旨い。
庭の向こうで、海から風が吹いてきた。
二〇二六年八月十七日。
小県宗介、二十五歳。
世界でおそらく初めての、茶も満足に点てられない特別茶使の、最初の一日が始まった。
第一部 榛名篇 了
