潮境 『茶ヲ乞ウ3』
本館十一階の海況室には、茶の匂いがしていた。
非常時ほど茶を切らすな、と会社では言われている。昔、南海の商館では交渉が決裂しかけると双方いったん席を立ち、茶を淹れ直したという。その名残で、海況室の中央には最新式の立体海図と不釣り合いな黒い鉄瓶が置かれていた。
だが、その朝は誰も飲んでいなかった。
「来たか」
水野が宗介を手招きした。
壁一面にルソン海峡が浮かんでいる。赤い点が十七。黄色が三。灰色が一つ。
灰色の横に、第八瑞穂丸とあった。
「最後の通信は六時十一分四十三秒」
水野が海図を拡大した。
「場所は巴士海峡東口。速力十八節。異常報告なし。その十九秒後に第五海底幹線が切れた」
「瑞穂丸がケーブルを?」
「水深四千だぞ」
横から女の声がした。
振り向くと、見慣れない制服の女性がいた。濃紺の襟に銀色の鹿角章。海軍だった。
「海務院情報局の榊です」
三十代半ばだろうか。榊は宗介に会釈した。
「今朝からこちらを借りています」
「軍がどうして民間会社に?」
宗介が言うと、水野が嫌な顔をした。
榊は気にしなかった。
「軍の通信も落ちたからです」
室内が静かになった。
「台湾東岸の海軍幹線、米国のグアム線、清国の厦門線。六時十二分を中心に七本。同時です」
「攻撃ですか」
「分かりません」
「でも米国はもう関与を否定した」
榊が初めて宗介を見た。
「よく気づきましたね」
褒められた感じはしなかった。
宗介は自分の端末を卓上に置いた。
「瑞穂丸の積荷は一般貨物です。工作機械、医薬品、茶、半導体材料。それと——」
指が止まった。
積荷目録の一番下に、見慣れない符号がある。
甲特二七。
「これ、何ですか」
水野が答えなかった。
代わりに榊が言った。
「政府貨物です」
「中身は?」
「あなたの権限では開示されません」
「私が航路承認したんですよ」
「だからといって荷物の中身まで知る必要はない」
宗介は腹が立った。
「必要がないかどうかは、船が消える前に言ってください」
水野が「宗介」と制した。
しかし榊は黙って彼を見ていた。
数秒後、意外にも小さく笑った。
「なるほど。尾張の会社ですね」
「どういう意味です」
「軍にそういう口を利く」
「毛野の軍人は報告を隠さない、と学校で習いました」
今度は水野が目を閉じた。
室内の何人かがこちらを見た。
言い過ぎた、と宗介も思った。
榊は怒らなかった。
「学校は時々、余計なことまで教えますね」
そう言って自分の端末を操作した。
宗介の画面に、新しい資料が開いた。
甲特二七。
中身を見て、宗介はしばらく意味が分からなかった。
「量子航法器?」
「試作品です」
「なぜ民間船に?」
「米国との共同試験のためマニラへ運んでいました」
宗介は榊を見た。
「共同?」
「ええ」
海図の向こうでは、米国艦隊を示す青い光点と日本海軍を示す白い光点が、ルソン海峡へ向かっていた。
敵同士のように。
しかし、消えた船には両国が共同開発した機械が積まれている。
「じゃあ、米国じゃない」
「そう考えるのは早い」
榊が言った。
そのとき海況室の照明が一瞬消えた。
非常灯がつく。
立体海図が暗転した。
そして誰かの端末から、聞いたことのない警報音が鳴った。
一回。
二回。
三回。
榊の顔色が変わった。
「全員、通信を切って」
「何が——」
「今すぐ!」
宗介が端末を伏せる直前、画面に一通の着信が現れた。
発信元は、第八瑞穂丸。
本文はなかった。
ただ、二百年以上前に廃止された古い南海商人符号で、三文字だけ記されていた。
茶ヲ乞ウ。
