潮境第二部『席ヲ空ケヨ2』

「海の形?」

 宗介は壁の海図を見た。

 台湾とルソンの間には、昨日までと同じ海があるようにしか見えない。

「島でも出たんですか」

「まだ分かりません」

 汐里は紙の海図を広げた。

「これが三日前の測深記録です」

「こっちは?」

「今朝四時」

 二枚を並べる。

 宗介には数字の羅列にしか見えなかった。

「違うでしょう?」

「すみません。全然」

 汐里は笑った。

「ですよね」

 鉛筆で一点を囲む。

「ここ。三日前は水深三千二百。今朝は測れなかった」

「機械の故障では?」

「最初は私もそう思いました。だから別の船にも測ってもらった。でも同じ」

 榊が言った。

「志賀を現地へ送る」

「行けるんですか?」

 宗介が聞くと、汐里の顔が明るくなった。

「そのために水路局に入ったんですから」

「こういうことのために?」

「知らない海を測るために」

 即答だった。

 その言い方が妙に嬉しそうなので、宗介は少し意外に思った。

「怖くないんです?」

「怖いですよ」

「ですよね」

「だから測るんです。分からないまま船を通す方が怖いでしょう?」

 汐里は海図を丸めながら続けた。

「海図って、海を知ってる人が作るものだと思ってません?」

「違うんですか」

「逆です」

 筒に収め、紐を締める。

「分からないから作るんです」

 宗介は少し考えた。

「好きなんですね。海」

「はい」

 また即答だった。

「ものすごく」

 榊が書類を宗介へ滑らせた。

「お前も行け」

「やっぱり」

「十三時、羽田発。基隆で巡視船《秋津》に乗る」

「私が行って何をするんです」

「先方との接触が必要になった場合、お前が出る」

「何を話せば?」

「それを考えるのがお前の仕事だ」

 宗介は天井を見た。

「水野部長より雑だな」

「聞こえているぞ」

「聞かせてます」

 隣で汐里が笑っていた。

     *

 羽田へ向かう車の中で、汐里はずっと海図を見ていた。

 宗介は窓の外を眺める。

「志賀さん」

「はい」

「船、長いんですか」

「仕事では五年です」

「その前は?」

「大学で水路測量を」

「じゃあ、ずっと海ですね」

「いえ」

 汐里が顔を上げた。

「子供の頃は海なんて、ほとんど行きませんでした」

「そうなんですか」

「父も母も船には乗らないし。うちはもう、そういう家じゃなかったので」

「そういう家?」

 汐里は一瞬考えたあと、笑った。

「昔の話です」

 そして海図に戻った。

 隠した、という感じではなかった。

 本当に今は話す必要がないと思っているようだった。

「小県さんは?」

「何がです?」

「どうして南海交易に?」

「就職活動です」

「夢がないなあ」

「会社員なんてそんなもんですよ」

「私は違います」

 汐里は得意そうに言った。

「海務院しか受けませんでした」

「落ちたら?」

「翌年もう一度」

「また落ちたら?」

「受かるまで」

 宗介は笑った。

「頑固ですね」

「よく言われます」

 車が湾岸道路へ入った。

 右手に東京湾が開ける。

 汐里は窓の外を見た。

 その表情が、ほんの少し変わった。

 宗介には、それが何なのか分からなかった。

「昔ね」

 汐里が言った。

「海を見ても、何とも思わなかったんです」

「今は?」

「帰ってきた感じがする」

 宗介は彼女を見た。

 汐里は自分で言ってから照れたらしい。

「変ですよね」

「ちょっと」

「そこは否定してくださいよ」

 二人とも笑った。

 羽田の埠頭が見えてきた。

 そのとき宗介の端末が震えた。

 榊からだった。

 短い文章が一行。

 先方より再度通信あり。

 続いて、受信した文面。

 宗介は二度読んだ。

 汐里が横から覗く。

「どうしました?」

「向こうも東京から来たそうです」

 汐里の笑顔が消えた。

 二人の向こうで、東京湾が夏の光を返していた。

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