潮境 『茶ヲ乞ウ9』

「止めた?」

宗介は思わず聞き返した。

「噴火を?」

形名は首を振った。

「山は止められぬ。人を動かした」

炉の湯が低く鳴っている。

「榛名が火を噴く三日前、我々は麓の集落へ使いを出した。家畜が死んだ、井戸が濁った、山の神が怒っている、と。人々は信じた。毛野の主だった家々も赤城の東へ移した」

「だから毛野は生き残った……」

冬嗣が呟いた。

形名は彼を見た。

「そうだ。お前の家もな」

「でも」

宗介は頭の中を整理しようとした。

「我々って誰です」

形名は答えなかった。

代わりに千鶴が急須へ湯を足した。

「宗介。歴史を川だと思ってはいけません」

「何?」

「学校ではそう習うでしょう。上流から下流へ流れるものだと」

祖母は茶碗を形名へ返した。

「本当は海なの。潮が行って、戻る」

「ばあちゃんは何を知ってるんだよ」

初めて声が荒くなった。

千鶴は宗介を見た。

いつもの目だった。

幼い頃、嘘をついたときに見抜いた目。

「あなたが生まれる前から、この仕事をしています」

「何の仕事」

「約定を守る仕事」

榊が口を挟んだ。

「海の約定ですか」

「そう」

千鶴は頷いた。

「一六九五年、マラッカで日本船と英国船が遭遇した。歴史では海商戦争とされている。でも本当に遭遇したのは、二つの国ではありません」

「時間が違う船?」

榊が訊いた。

千鶴は微笑んだ。

「さすが海務院」

宗介は笑えなかった。

形名が黒い箱を開いた。

中には機械がなかった。

古い紙が一枚入っていた。

いや、紙ではない。獣皮のようなものだった。

形名が広げる。

文字が並んでいる。

漢字。

ラテン文字。

見たことのない文字。

そして一番下に、日本語があった。

《異なる時より来たる者、互いの時を侵すべからず》

「海の約定、第一条」

形名が言った。

「なぜ海なんです」

宗介は訊いた。

「陸では起きないからだ」

「何が」

「時の潮だ」

外から波の音がした。

六六三年の海。

「大きな海流、磁場、太陽活動。そして人間が作った通信網。条件が重なると、海の一部で時が接続する」

榊が黒箱を見た。

「量子航法器が引き金になった?」

「逆だ」

形名の表情が初めて険しくなった。

「お前たちが作ったから、向こうから見つけられた」

「向こう?」

その瞬間、外で鐘が鳴った。

一度。

二度。

形名が立ち上がった。

千鶴も茶碗を置いた。

三度目。

港から叫び声が聞こえた。

宗介は戸を開けた。

沖の水平線が黒くなっていた。

船ではない。

巨大な影が海面からゆっくり姿を現している。

榊が息を呑んだ。

それは軍艦だった。

ただし六六三年のものではない。

宗介たちの二〇二六年のものでもない。

船体に見たことのない文字が光っている。

その後方に、さらに一隻。

さらに一隻。

水平線いっぱいに艦隊が現れ始めた。

「どこの国です」

榊が訊いた。

形名は答えなかった。

代わりに千鶴が宗介の肩へ手を置いた。

「あなたが朝見たニュース、覚えてる?」

「どれ」

「日米半導体協議」

「それが何だよ」

祖母は沖の艦隊を見つめた。

「その交渉が決裂して、日米が戦争を始めた世界があるの」

宗介は祖母を見た。

「いつ?」

千鶴は静かに答えた。

「二〇三一年」

沖で白い閃光が走った。

形名が叫んだ。

「伏せろ!」

五年後の戦争が、千三百年前の海に始まった。

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