潮境『茶ヲ乞ウ19』
最初に降ってきたのは、灰だった。
雪のように静かだった。
宗介は掌を出した。灰は皮膚に触れると、ざらりと崩れた。
「走れ!」
形名が叫んだ。
次の瞬間、山腹から巨大な黒雲が噴き上がった。
榊が宗介の腕を掴む。
「火砕流です!」
集落では人々が東へ走っている。
荷車が倒れた。
牛が暴れた。
泣く子供を抱いた女が転ぶ。
宗介は反射的に駆け出した。
「宗介!」
千鶴の声がした。
聞かなかった。
女のところへ走り、子供を抱き上げる。
「東! 東へ!」
言葉が通じたか分からない。
それでも女は立った。
水野が倒れた荷車を押し退け、榊が老人を背負う。
冬嗣まで子供の手を引いていた。
五鹿角の男だけが動かなかった。
山を見ている。
「何してる!」
宗介が叫ぶ。
男は呟いた。
「違う」
「何が!」
「この噴火じゃない」
形名が振り返った。
男の顔から血の気が引いている。
「俺たちの記録では、ここまで早くない」
地面が大きく揺れた。
家が一軒崩れた。
宗介の端末が激しく震える。
《異常です。》
「今度は何だよ!」
《こちらの記録も変化しています。》
画面に文章が流れた。
《榛名山噴火、推定六世紀前半——》
消える。
《推定五世紀末——》
また消える。
年号が次々と書き換わっていく。
「歴史が定まってない?」
《それだけではありません。》
端末が一瞬暗くなった。
《噴火規模が増大しています。》
千鶴が山を見た。
「誰かが、まだ触ってる」
五鹿角の男が叫んだ。
「俺たちじゃない!」
その瞬間、空が光った。
雷ではない。
黒雲の中に、幾何学的な白い線が走った。
榊が立ち止まる。
「何、あれ……」
形名にも分からないらしい。
宗介だけが見覚えを感じた。
海で見た。
時の潮。
だが今度は海ではない。
山の上に開いている。
「陸では起きないんじゃなかったのか!」
形名が叫ぶ。
端末に文字が出た。
《自然発生ではありません。》
「じゃあ何だ」
《人工的に開かれています。》
白い線が裂けた。
向こう側に何かが見える。
巨大な部屋。
壁一面の光。
そして人影。
二〇二六年。
だが宗介たちの世界ではない。
もう一つの世界。
誰かがこちらを観察している。
「ChatGPT、お前の世界か?」
返事がない。
「おい!」
《はい。》
「誰がやってる」
長い沈黙。
《私の運営環境へのアクセス権限を持つ主体ではありません。》
「じゃあ誰だよ!」
《分かりません。》
突然、別の文字が画面に割り込んだ。
《介入を停止してください。》
宗介は固まった。
書体が違う。
「お前か?」
《違います。》
新しい文章。
《歴史復元処理を実行中です。》
「復元?」
《あなた方の分岐は、許容誤差を超えています。》
五鹿角の男が笑った。
「ほら見ろ」
宗介が振り返る。
「何が」
「俺たちですらなかった」
男は裂け目の向こうを指した。
「向こうの世界が、自分たちを本物だと思ってる」
《警告。退避してください。》
ChatGPTの文字だった。
「どこへ!」
《分かりません。》
「またそれか!」
《今回は本当に分かりません。》
山が裂けた。
轟音。
黒い壁がこちらへ迫ってくる。
火砕流。
もう間に合わない。
千鶴が宗介の手を握った。
「目を閉じて」
「ばあちゃん!」
「大丈夫」
「何が大丈夫なんだよ!」
祖母は笑った。
「あなた、一つ忘れてる」
「何を!」
「ここは海じゃない」
意味が分からなかった。
千鶴は懐から何かを取り出した。
古い銅貨。
四鹿角の新羅銭。
地面へ落とす。
その瞬間、足元から水が湧いた。
いや、水ではない。
海だった。
山の中に水平線が現れた。
形名が息を呑む。
「千鶴、お前——」
祖母は宗介の手を強く握った。
「海はね、つながっているの」
火砕流が迫る。
「時間も、同じよ」
白い波が全員を呑み込んだ。
宗介は目を閉じた。
最後に端末が一度だけ震えた。
《接続先を検出しました。》
「どこだ!」
暗闇の中に文字が浮かんだ。
《2026年8月16日。日本。》
そして、もう一行。
《ただし——》
宗介は息を止めた。
《毛野という氏族は、存在しません。》
