潮境『茶ヲ乞ウ22』
高崎駅から榛名までは車で一時間もかからなかった。
千鶴が運転した。
「自動運転じゃないの?」
宗介が助手席で訊く。
「何それ」
「いや、いい」
後部座席では冬嗣がスマートフォンに夢中になっていた。
「宗介。これは便利だぞ」
「さっきまで珈琲に文句言ってた人とは思えませんね」
「地図も新聞も相場も一枚に入っている」
「うちの世界なら普通です」
「この世界でも普通よ」
千鶴が言った。
宗介は窓の外を見た。
似ている。
だが違う。
コンビニ。ガソリンスタンド。ファミリーレストラン。
どれも宗介には微妙に異国的だった。
榛名山が近づく。
端末を見る。
《正史固定処理 99.84%》
「遅くなってない?」
《はい。》
ChatGPTから返事が来た。
《小県千鶴さんとの接触以降、固定速度が低下しています。》
「やっぱりばあちゃんが鍵か」
「その呼び方やめて」
「慣れないなあ」
千鶴は前を向いたまま笑った。
発掘現場に着いた頃には、雨が止んでいた。
規制線を越える。
「勝手に入って大丈夫なの?」
「私、調査員です」
千鶴が首から身分証を下げた。
榊が覗く。
「群馬大学大学院?」
「考古学です」
「二十五歳のばあちゃんが大学院生……」
「聞こえてる」
発掘坑は巨大な屋根で覆われていた。
地面を数メートル掘り下げた先に、灰に埋もれた古代の生活面がある。
竈。
柱穴。
倒れた土器。
千五百年前の日常が、その日のまま止まっていた。
千鶴は奥へ進んだ。
「ここ」
小さな作業台。
その上に黒い茶碗があった。
宗介の世界なら、誰でも知っている形だった。
海商茶。
南海へ出る船乗りが使った、割れにくい厚手の茶碗。
「あり得ない」
冬嗣が呟いた。
「これは十六世紀以降の形だ」
「でも六世紀の地層から出た」
千鶴は茶碗を裏返した。
底に四鹿角。
内側には、
《席ヲ立ツナ》
「誰が埋めた?」
榊が訊く。
千鶴は首を振った。
宗介の端末が震えた。
《画像を見せてください。》
「見えるの?」
《カメラ経由で。》
宗介が茶碗を映す。
数秒。
《類似品を発見しました。》
「どこに?」
《大英博物館。》
全員が黙った。
「何でイギリスに?」
《収蔵記録では1695年、マラッカ海域で英国商船が取得。》
水野が息を呑む。
「海商戦争」
《ただし問題があります。》
「何」
《その収蔵品は、約三分前まで存在していませんでした。》
榊が茶碗を見る。
「また歴史が動いた」
《はい。さらに内側に文字があります。》
画像が表示された。
英国にある茶碗。
内側にはラテン語。
千鶴が読む。
「Mane in consessu……席に留まれ」
「同じ意味だ」
冬嗣が言った。
端末が続ける。
《そして底面に製作者名があります。》
拡大される。
漢字だった。
宗介は読めた。
小県宗介作。
「俺?」
その瞬間、発掘坑の照明が消えた。
暗闇。
そして、どこからともなく茶筅の音がした。
しゃっ。
しゃっ。
しゃっ。
榊が銃を抜く。
「誰!」
闇の奥に灯がともった。
小さな茶室がある。
炉の前に男が座っていた。
宗介だった。
ただし、老人だった。
白髪。
深い皺。
左目は見えないらしい。
老人は茶を点てながら言った。
「遅かったな」
宗介は動けなかった。
「俺……?」
老人が顔を上げた。
「八十七歳のお前だ」
「どの歴史の?」
老人は笑った。
「全部だよ」
端末が震えた。
《正史固定処理 99.99%》
老人の宗介は茶碗を一つ差し出した。
「座れ」
若い宗介は畳へ上がった。
「時間がない」
老人は首を振った。
「逆だ」
炉の火が揺れた。
「ここには、全部の時間がある」
そして最後の一席を指した。
「さあ」
そこだけが空いていた。
「歴史を書いている奴が来る」
暗闇の向こうで、足音がした。
