潮境第二部『席ヲ空ケヨ3』
「東京って、あの東京ですよね」
汐里が言った。
「東京に、あのもこのもあります?」
「今できました」
宗介は端末を見直した。
受信文は短い。
当艦ハ日本国東京ヲ母港トス。所属ヲ明ラカニサレタシ。
「日本国」
宗介が呟いた。
「変な言い方ですね」
「外国向けの正式名称じゃないですか」
「うちは日本ですよ」
「だから変なんです」
車が止まった。
埠頭には海務院の連絡艇が待っていた。
*
基隆までは航空便で三時間あまり。
そこから《秋津》に乗り換えた。
出港は午後五時十二分。
夕食のあと、宗介は甲板へ出た。
風が強い。
上着の裾を押さえていると、後ろから声がした。
「それ、船用じゃないですよ」
汐里だった。
昼間の制服から濃紺の作業服に着替えている。
「一応、南海交易の海服ですよ」
「事務職用でしょう。袖が長い」
「格好は気に入ってるんです」
「そういう人が海で怪我するんです」
「水路局って、みんな説教好きなんですか」
「私は特別です」
汐里は笑って、手すりに寄った。
日が沈みかけている。
「きれいですね」
宗介が言った。
「今日はね」
「今日は?」
「海は毎日違いますから」
「またそれですか」
「大事なんですよ」
汐里は楽しそうだった。
「昨日と同じだと思った瞬間から、海図は古くなるんです」
宗介は水平線を見る。
「東京も二つあるらしいですよ」
「それは海図じゃ測れませんね」
「志賀さんなら測りそうですけど」
「測れるなら測りたい」
即答だった。
*
午後九時十八分。
船内放送で宗介が呼ばれた。
通信室へ入ると、艦長と通信士がいた。
「また来た」
艦長がヘッドフォンを渡す。
「直接?」
「音声だ。雑音がひどい」
宗介は耳に当てた。
ザーッという音。
その奥から声がする。
『――こちら――海上自衛隊――護衛艦――』
「海上……何です?」
「自衛隊、と聞こえる」
艦長が答えた。
知らない言葉だった。
再び声。
『――貴艦の所属を――』
宗介はマイクを見る。
「返事していいんですか」
「そのために君がいる」
「何て?」
「それも君が決めろと言われている」
「海務院って、責任を部外者に押しつける役所なんですか」
「伝統だ」
艦長が真顔で言った。
通信士が笑いをこらえた。
宗介はマイクを取った。
何を言えばいい。
こちらも日本です。
あなた方も日本ですか。
東京はどちらの東京ですか。
どれも馬鹿げて聞こえた。
結局、普通に話すことにした。
「こちら日本海務院巡視船《秋津》。小県宗介です。そちらの通信を受信しています」
雑音。
沈黙。
やがて、
『……日本?』
男の声だった。
「はい」
『日本の、何省ですか』
「省?」
艦長を見る。
艦長も首を横に振った。
「海務院です」
『海務院という官庁は、日本には存在しません』
宗介は思わず答えた。
「ありますよ」
通信士が下を向いた。
『……そちらの現在位置を確認したい』
座標を伝える。
しばらく沈黙した。
今度は違う声が入った。
『確認します。現在の西暦は何年ですか』
宗介の背筋に冷たいものが走った。
「二〇二六年」
返事はすぐには来なかった。
『こちらも、二〇二六年です』
宗介はマイクを握ったまま動かなかった。
過去でも未来でもない。
同じ年。
同じ日本。
同じ東京。
通信の向こうで、誰かが小さく何かを言った。
それだけは雑音の中でも、はっきり聞こえた。
『じゃあ、そっちは何なんだ』
宗介は答えられなかった。
自分でも初めて、その問いを考えていた。
