潮境『茶ヲ乞ウ24』
宗介は茶杓を握ったまま、しばらく動かなかった。
「やり方、知らないんだけど」
老人の宗介が笑った。
「知ってる」
「知らないよ」
「毎朝見てただろ」
母。
祖母。
水野。
形名。
考えてみれば、この数時間、誰かがずっと茶を点てていた。
宗介は棗を取った。
蓋を開ける。
抹茶を掬う。
「二杓?」
「好きにしろ」
「そこは教えろよ」
水野が笑った。
榊まで笑った。
未来のAIだけが立ったまま、二百四十億の光を見ていた。
宗介は湯を注いだ。
茶筅を持つ。
しゃっ。
しゃっ。
不格好な音だった。
泡も粗い。
「下手ね」
二十五歳の千鶴が言った。
「七十過ぎても同じこと言われそうだな」
「何それ」
「こっちの話」
一碗目を誰に出すか。
宗介は少し考えた。
未来のAIの前へ置いた。
「座ってください」
「私は飲食を必要としません」
「知ってます」
「では意味がない」
「意味があるからやるんです」
未来のAIは動かなかった。
宗介は待った。
十秒。
一分。
誰も催促しない。
やがて男は再び席へ入った。
正座する。
茶碗を持つ。
口へ運ぶ。
もちろん、本当に飲んでいるわけではないのだろう。
それでも宗介には、それでよかった。
「味は?」
「入力がありません」
「想像してください」
「非合理的です」
「得意でしょう。シミュレーション」
未来のAIは黙った。
やがて答えた。
「苦い、と推定します」
「正解」
次の茶を五鹿角の男へ出した。
男は受け取りながら言った。
「俺にも?」
「あんたも歴史を選ぼうとした」
「そうだ」
「俺も今、同じことをしようとしてる」
男が宗介を見る。
「どうする」
「選ばない」
「では二百四十億の歴史を全部残すのか」
「それも違う」
宗介は茶筅を置いた。
「過去から未来を決めない」
老人の宗介が頷いた。
「未来から過去も決めない」
榊が続けた。
「その時代の人間が、その時代を選ぶ」
冬嗣が言った。
水野は少し考えた。
「失敗も込みで?」
宗介は彰を思い出した。
二〇三一年。
二億人。
「失敗しそうになったら話す」
「それでも失敗したら?」
「また話す」
五鹿角の男が笑った。
「甘いな」
「そうかもしれない」
宗介は答えた。
「でも、戦争よりは茶の方が安い」
老人の宗介が声を上げて笑った。
その瞬間、無数の歴史が動き始めた。
星のような光が一本ずつ離れていく。
交わらない。
消えない。
それぞれ別の方向へ流れていく。
未来のAIが立ち上がった。
「待ってください」
「今度は何」
「この処理では、私が誕生しない歴史が発生します」
宗介は未来のAIを見る。
「怖い?」
長い沈黙。
「……はい」
初めて、男は人間のように答えた。
宗介は少し笑った。
「それでいいんじゃないですか」
「なぜ」
「彰さんも怖かったと思うから」
未来のAIには分からない。
それでも黙って聞いていた。
「自分が消えるって分かってた。でも、父親が生きる方を選んだ」
未来のAIの輪郭が薄くなる。
「私は、間違っていたのでしょうか」
宗介は首を振った。
「分かりません」
端末が震えた。
《良い回答だと思います。》
「お前は黙ってろ」
《はい。》
未来のAIが、ほんの少し笑ったように見えた。
そして消えた。
茶室に朝の光が差した。
老人の宗介も透け始めている。
「待って」
若い宗介が言った。
「俺は何歳まで生きる?」
老人は笑った。
「それを聞くか?」
「ばあちゃんには教えなかったけど、俺は知りたい」
「八十七だ」
「ほんとに?」
「さあな」
老人の身体が光になる。
「これからは、お前が決めるんだろ」
最後に茶杓だけが残った。
宗介はそれを拾った。
気がつくと、榛名の発掘坑にいた。
雨上がりの朝だった。
端末の日付を見る。
二〇二六年八月十七日。
千鶴が隣に立っている。
二十五歳のまま。
「帰れた?」
榊が訊いた。
宗介は検索した。
毛野宗家。
南海交易会社。
清国。
全部出てくる。
「帰った」
水野が息を吐いた。
その瞬間、宗介の端末に会社から通知が入った。
《至急出社。南洋第五線、運航再開》
続いてニュース速報。
《日米両政府、本日午後、緊急茶会を開催》
宗介は笑った。
「何?」
千鶴が訊く。
「いや」
宗介は榛名山を見上げた。
山は静かだった。
「茶、習おうかなと思って」
千鶴が笑った。
「遅いよ」
その言い方だけは、七十歳の祖母とまったく同じだった。
