刊行40年後書評/草野進編『プロ野球批評宣言』(冬樹社、1985年)
どうしても記憶に残しておきたい本がある。本書『プロ野球批評宣言』がそれだ。
1985年に刊行された書で、執筆陣がなにより豪華なのだ。
赤瀬川隼、糸井重里、柄谷行人、坂本龍一、立松和平、ねじめ正一、蓮實重彦、四方田犬彦、渡部直己・・・
評者が幼き日を過ごしていた頃だったゆえ、本書の内容どころかその存在に想いをはせることはできなかったが、40年を経た今なら、その内容はもちろん出版の実現性に驚かざるを得ない。
草野進という謎の編者が「旗を掲げたらしい」野球批評というカテゴリーは、主の言葉を引けば、以下のようになる。
「二流の文学を一流の文学たらしめようとすることは目指してはいない」。
「文学好きな男女にプロ野球を安売りすることは好まない」。
「プロ野球は、何よりもまず、ベースボールの退屈さに痺れうる感性の持主のために存在すべきだと思う」。
「プロ野球批評は、数字を軽蔑する」。そして、「『プロ野球批評宣言』の確立に向けて、その目標をベースボール的な権利の拡張におく」。
有識者らしい難解な物言いを凡人の評者なりにまとめると、この主の言いたいことは、長嶋茂雄の爽快な失策、その系譜である中畑や宇野。彼らは権利として失策をしている、というのだ。
多くの観客の視線にさらされる過酷な職業のプロ野球選手、その過酷な視線に耐え、そのことを通じて未知の自分を発見してゆく選手の姿を、権利として描いていこうということらしい。
具体例として、巨人の篠塚利夫(当時)は首位打者を狙うよりも、クリーンアップの顔を自分のものとすることのほうが先決だ、と言い切る。
三番を死守すべき彼が、その根拠をもっぱら数字に求め、権利としての顔を主張していないことが問題と喝破する。今の選手は、権利として負けること、失策することを知らない。そうした選手を「育てていくことが観客の権利」とする。
つまり本書が突きつけているのは、プロ野球という巨大な興行の「中心」ではなく、その縁を照らす視線である。
草野進が掲げた“プロ野球批評”とは、勝敗やタイトルを語る言説とは真逆のところに立つ。数字が語りうる領域をあえて退け、そこからこぼれ落ちる「態度」「表情」「負け方」「失い方」といった、プロスポーツが最も見せたがらない領域にこそ、批評の場所があるのだと宣言している。
目次を眺めるだけで面白い。昭和の野球ファンならにやけずにはいられない興味ふかい内容が並んでいる。
投手論「投手は嫉妬の頂点に屹立しなければならない」
捕手論「捕手は二領域を自由に往復する道化たる自覚を忘れてはいけない」
走塁論「走ることの凶々しさを懐柔しつづけるかぎり、プロ野球に未来はない」
監督論Ⅰ「祈ることの凡庸さと祈りを知らぬ不幸とが監督の質を決定する」
監督論Ⅱ「監督業とは年ごとの収穫を期待される農民のようだ」
チームプレー論「管理野球とは火事場泥棒の倫理である」
失策論「失策とは制度的な抑圧の零地帯である」
いずれも、批評家がテーマに資する総合的な内容だが、それだけではない。
以下のような偏愛とも私怨とも批評ともつかない“ねじれた洞察”も混在している。
東尾論「東尾修の内角球は西武沿線的〈管理〉社会をシュートする」
江川論「江川卓は農村共同体に流謫したまれびとである」
今井論「今井(雄太郎)の持つ二流の輝きは新潟(チベット)的二流性の結晶である」
反=野村論「野村の『確率』論は結局、放蕩亭主を持った古女房の家計簿の理屈である」
批評の枠を踏み外したような比喩の連射。その奔放さこそが、本書をただの「野球論」ではなく、選手という存在の“不安定な魂”へ肉薄する野球批評へと押し上げている。
現代ならば、誹謗中傷とされるかもしれない内容を「観客の権利」として片付けるのは時代錯誤だろうが、なによりもいさましいというか、批評がまだ“無傷でいられた時代”の空気が濃厚に漂っている。
選手の人格や能力に土足で踏み込むことを恐れない身ぶりは、SNSが可視化した「よそ見の監視社会」とはまるで別の倫理を生きている。
当時の批評家たちは、選手を偶像化も擁護もしていない。
むしろ、人間が他者の期待と失望のあいだで揺れ動く、その“むき出しの運命”を読み解くことこそ観客の特権だと言い切る。その大胆さは、今日的感覚ではたしかに乱暴に映るが、同時に、プロ野球という興行がもつ「傷つく自由」「失敗する権利」を可視化しようとする真剣さの裏返しでもある。
このような姿勢で野球を見て語ることは、現代は難しいのだろうか。
否、である。
むしろ、現代だからこそ“偏愛にもとづく批評”は新しい呼吸を得る。
番記者やNumberに代表されるスポーツライターたちは、選手と向き合い、その言葉に耳を澄ませることを職務としている。だから彼らは、選手の人格を守る。尊厳を傷つけない。そのための節度と倫理が、彼らの文章を支えている。
しかしその範囲では語れない領域が確かにある。
プレーの外側に漂う“気配”や、姿勢に宿る“象徴性”、あるいは、選手自身も言語化できない“野球の無意識”のようなもの。これらは、取材に基づく記事よりも、むしろ偏愛に根ざした批評のほうが、豊かにすくい上げることができる。
偏愛を基盤にした批評とは、選手を貶めるための自由でもない。
だが同時に、持ち上げるための自由でもない。それは、選手そのものよりも、選手がまとってしまう“物語の余剰”に目を向けるための方法だ。
プレーの事実ではなく、そこから立ち上がる気配、象徴、文化的連想──
その“過剰”にあえて身を委ねることで、野球という営みをより厚みのある文化として読み替えていく批評の態度である。
つまり、偏愛を基盤にした批評とは、選手に近づきすぎず、しかし突き放しもせず、「あなたはこう見える」という読みを創造的に提示する行為だ。
事実としての選手像ではなく、その周囲に生まれる“意味の揺らぎ”や“象徴としての輪郭”をすくい上げるための距離感。その距離を確保するために必要なのが、ここでいう「偏愛批評」である。
だからこれは、スポーツライターにはできない。
彼らは事実・証言・関係性という“選手の現実”を扱うが、偏愛批評は“選手の現実の外側に広がる想像的圏域”を扱う。選手への敬意を前提にしながら、
そのプレーを文化的な物語へと拡張していく自由。それこそが、偏愛を基盤にした批評の核心なのだ。
本書を読み終えたとき、私はいつの日か「プロ野球偏愛批評宣言」を掲げてみたいと思った。
やがて一世紀を迎えるプロ野球の歴史が蓄えてきた濃淡を、成熟したファンの洞察で受け止め、それを現代的な言葉と批評の技法で編み直すのだ。
そして――番記者とスポーツライターだけが野球を語りうる、
そんな現状の境界線をそっと揺らしてみたい。
偏愛を基盤とした批評は、選手を傷つけるものでも、神棚に祀り上げるものでもない。
ただ、野球という文化の奥行きをもう一段深く照らし出す、第三の語りの可能性なのだ。
