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シンクロのすすめ。【手神さまへの手紙⑫】

シンクロについて、ちょっと言語化を試みたくなりました。
といっても、もちろんそれは、わたしが自由に想像をふくらませた考察です。
「正しい」と思うことではなくて、こう考えたら「楽しい」と思うことを記した覚え書き。
ですからどうぞ、そこにみなさんの想像を交えながら、氣楽に記事を読み進めてくださいね。

では、まずシンクロについて、一般的な概念を書き添えます。
シンクロとは、シンクロニシティの略語。
心理学者であるユングの提唱したもので、「因果関係のない二つの出来事が、偶然とは思えないような意味のある形で同時に起こる現象」のことを指します。

一般にシンクロの起きる理由とされているもののなかで、誰にでも納得しやすいのが、「関心を向けるから、似たような事象に氣づきやすくなる」という論理です。
たとえば、車を買おうと考えているときには、ちまたにあふれるたくさんの情報のなかでも、車に関するものが目につきやすくなりますよね。結果、同じように過ごしているつもりでも、車に関わる情報が次々と目に留まる「シンクロ」が起きる。

もう少しスピリチュアル的な解釈では、近い周波数を持った者同士が引きあう、という捉え方をよくみかけます。
北海道に旅行にいきたいなあ……と考えているときには、自分が「北海道にいきたいという周波数」にある状態だと捉えることができます。
すると、同じように「北海道にいきたい」と考える人たちや、「北海道にいってきた」人たち、「北海道が大好き」な人たち……から発せられた「近い周波数」にある情報を、自ずと受けとりやすくなります。テレビのチャンネルをあわせると、その周波数にあった番組を受けとれるのと同じですね。

どちらもその通りだと思いますし、少し前まで、わたしも前述の説明とほぼ同様に、シンクロを捉えていました。
ただ最近は、それで済ませてしまうにはあまりに濃厚なシンクロが頻発するので、自然と想像力がかきたてられてしまいます。
日々そういう想像を繰りひろげるなかで、すとんと空から届くように腑に落ちてきた解釈がありました。
この記事では、それを少し掘りさげてみたいと思います。

まずは下のイラストをご覧ください。

こちらは、過去記事「『スピリチュアル』って、何かしら?【note一周年の振り返り】」で使用したイラストで、わたしたちの肉体のまわりに存在しているといわれる「みえない体」を描いたものです。
「みえない体」についてご興味のある方は、よろしかったら、下の記事をご覧になってくださいね。

ここでは詳細は記しませんが、「目にみえる肉体の外側に、四層の『みえない体』をわたしたちは持っている」ということを、ひとまず受けとってもらえたらと思います。
いい方をかえれば、層になった「『みえる体』と『みえない体』の集合体」が、わたしたち「人」である、ということです。

実際にはその四層の外側にも、より高次の「みえない体」が存在するといわれています。
ブッディ体、アートマ体、モナド体と呼ばれるものです。
ただ、これらの「体」は「境界」がとても曖昧で、「パーソナルなもの」というよりは、「複数の人たちのあいだで共有される層」なのではないか──わたしはそんな感覚を持っています。

その感覚に従って、ブッディ体をイラストにしてみます。

前述の、四層の「みえない体」。そのすぐ外側に存在するのがブッディ体です。
イラストAをご覧になりながら、ブッディ体が「近づいた相手と統合したり離れたりすることを自由に繰り返す」様子をご想像ください。

相手と近づく、というのは、もちろん物理的な意味ではありません。
何らかの理由で魂が接近しあう──そう捉えていただけたらと思いますが、そうして「融合したブッディ体」で信号が発せられると、そのときそれを共有している人たちが一斉に、情報を感知することになります。

ブッディ体は、「直感体」とも呼ばれる層。
イラストBの斜線部分で「直感の共有」が起きているわけですが、これはまさにシンクロの仕組みそのものではないか、という氣がします。

ちなみに、ブッディ体の外側にはアートマ体が、その外側にはモナド体が存在するといわれています。

イラストCに描かれたように、ブッディ体をアートマ体が、そのアートマ体をモナド体が内包しながら、世界は広がっていく……。
それはいつか、すべての「個」がひとつの「体」に内包される「ワンネス」の状態につながっていくのかもしれないと──そんな想像も働きます。

ところで先程、「ブッディ体で発せられた信号を複数の人たちが一斉に感知する」と簡単に書きましたが、実際には、それほど単純なことでもありません。

わたしたちは普段、様々な「情報」を受けとっています。
肉体の信号からは「体感」を。
心(≒アストラル体)の信号からは「感情」を。
脳(≒メンタル体)の信号からは「思考」を。
それらは、わたしたちが日常的に、あたりまえのようにして感知しているものですが、「それより外側の『体』で発せられる信号」を確実に受けとるすべを、人は、まだ持ちません。

直感であるとか、なんとなくであるとか、虫の知らせであるとか……そんなふうに呼ばれるもので「ある程度受けとれる」のが、いまのわたしたち。
受けとる機会を少しでも増やすためには、重たい思いを手放し、意識の状態をできるだけ軽く保つ必要があるのではと、わたし自身は考えています。

というのは、より外側に存在する、つまり、より高次の層であるブッディ体の周波数は非常に高く、感知するためには、受けとる側の意識の状態も、それに近い、軽やかなものであることが求められるからです。

さて、そのことを逆から捉えてみます。
実際にシンクロが起こるとき。
それは、自分の意識の周波数が、「その情報を受けとれるほど軽かった」ということになります。
しかもシンクロが起こったわけですから、自分ひとりでなく、それを受けとれる「軽やかな人たち」が、身のまわりに複数存在したということです。
それは、なんてなんて、嬉しく心強い事実なのでしょう!

しかもシンクロは、物理的な現象としてわたしたちの目の前にはっきりと現れてくれるもの。ただ漠然と直感を信頼することに比べても、わかりやすくて親切なナビゲーションシステムです。
これを信頼しない手はないなあ!と、わたしはいつも思うのです。

だからわたしは、シンクロが起こったと感じたら、ただ素直に、背中を押されるままに、その流れに身を委ねることにしています。
ご縁のある人たちと、同じ「地図」を持って歩める日々を、すすんで嬉しく享受することにしています。
その旅路を、そして、その旅を共有できる仲間たちを──わたしはいま、心から大切に思っています。

そんな仲間たちを心に浮かべながら──ふと思うのです。
ブッディ体って、「手神さま」にちょっと似てるよなぁ……って。

みえない手で、仲間たちとつながりあい、ひとつのものになる。つながったその手を通して、想いを伝えあう。情報を届けあう。

もちろん、仲間とつながる手は二本とは限らず、十本あるかもしれないし、百本……もしかしたら千本あるかもしれません。
イラストにしてみたらこんな感じ。

あれ?
ちょっと、何かに似てますね!



さて、マガジン「手神さまへの手紙」より、記事のご紹介です。

「手紙さま」をブッディ体になぞらえてイラストにしてみたら……千の手を持つ観音さまを思いだしてしまいました。
今回は、記事中で千手観音にふれてくださったお二方のご投稿、紹介させてくださいね!


ひとつ目の記事はこちら。

はいかむしかさんの、「(短編ふう)オン バサラ タラマ キリク ソワカ」。

観音さまが千の手を得ていく様子を、独特の感性と捉え方で表現されているのが印象的な記事。
一部、引用いたします。

観音菩薩は、人々の苦しみを自分と切り離せない。

すべての苦しみがなくならない限り、わたし自身も完全に幸せになることはできない。
だれかを見捨てることは、自分自身を見捨てることと同じだからだ。

両手で顔を覆って泣き崩れた菩薩の身体は、無数の衆生の苦しみを受け止めきれず、とうとう砕け散った。
爆発した光は、光の繭を形づくり、菩薩の身体は、その中で、蛹に宿された成虫のように静かに変容する。

一対の手が伸び、さらにまた一対が現れる。それは無限に続くように展開し、千本の手があらゆる方向へと広がっていく。その手のひらには、一つ一つに命を宿すような眼が開かれ、全てを見通す光が満ちていく。

観音菩薩は、そのやさしさゆえに──自身は悟りの境地に達しながらも、あえて如来(悟りを開いた存在)になることを選ばず、菩薩(悟りを求めて修行する存在)のまま人々の救済を続けているといわれます。

記事の前半では、その観音の苦悩を見事に表現し、後半では、千の手を比喩に使いながら、この社会の問題と救済について語っていらっしゃいます。
クリエイター名に添えられた「日常+空想」という言葉通りの、独自の世界の切りとり方。どうぞ、はいかむしかさんのお部屋でお楽しみくださいね。


続いてはこちらの記事。

理子さんの、「あの日から生き延びて」。

理子さんが千手観音になぞらえるのは、ご自身のお母さま。
千の手をイメージするほど、愛情と才能にあふれた方だったのだと……伝わってきました。

記事には、お母さまが趣味にされていた刺繍のこと、そして、その亡きあと残された刺繍糸が、19年の時を経て、理子さんの編み物作品として引き継がれたこと──が、お母さまへの思慕と敬意を込めて綴られていました。
お母さまへの絶対的な信頼に満ちたそのひとことひとことに、心を揺さぶられる記事でもありました。

理子さんの文章は、いつ読ませていただいても、「なんて素敵な生き方をされているのだろう!」と思わずにはいられない知性と氣品に満ちています。
その魅力の源の一端を、こちらの記事で読ませてもらった氣がしました。
一部を抜粋させてくださいね。

千手観音のごとく、たくさんの得意分野で私たちを育んでくれた母。
わが身は、その母の分身。
そう考えると、私は母の「編み物の手」を譲り受けたようです。

まるで母との「二人羽織」状態で編み上げた気がします。
私の手を通して顕れた、母からのプレゼント。

千手観音のお母さまの手が、理子さんをやさしく抱き続ける。想いが伝わり続ける──。
つながる命のありかたをみせていただき、本当にありがとうございました!



「手神さまへの手紙」の企画にご参加くださったみなさまに、心からお礼を申し上げます。

お寄せいただいた記事を、毎回できるだけひとつのテーマに沿いながら、順次ご紹介しています。
遅筆ゆえ、ご紹介に時間がかかっておりますが、どの記事も大切に思いながら書いています。すべての記事のご紹介まで、しばしお時間をいただけましたら幸甚です。


みなさんの「#手」の記事を収録したマガジンです。↓↓↓

「てがみさま」について、最初に書いた記事はこちらです。↓↓↓

「#手」の募集記事はこちらです。↓↓↓

みなさまの「#手」の記事を紹介した、わたし自身の投稿「手神さまへの手紙」シリーズ。そちらをまとめて収録してあります。↓↓↓







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