主よ。この人はどうですか。 κύριε, οὗτος δὲ τί
——昇天日を前に
2026年4月19日 礼拝メッセージ
——ヨハネによる福音書 21章20 〜23節(新改訳第三版)
20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」23 そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。(ヨハネ21:20-23)
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1. 私のなかのコンパラティブ
コンパラティブ。私のなかには、いつも「比較」という厄介な生物が住みついています。
人に評価されると、嬉しい。そして、その「嬉しい」という場所に、私はいつのまにか立っています。気づけば、評価されることが、生きる動力になっている。
神学校時代のことを思い出します。自分より優秀な学友が評価されているのを、どこか苦々しく思っていた自分がいました。「あの頃は若かった」と言って過去形に逃げたいのですが、正直に告白するなら、現在もそうなのです。同級生のうちのある先生が大教会に遣わされて、その働きが大成しているという話を小耳に挟むと、心の隅に黒い影が走ります。
介護の現場でもそうです。仕事先で重用されると、それが自信になり、モチベーションの力にもなる。そう書くと美しく聞こえるのですが、その自信の原動力をたどっていくと、結局のところは比較なのです。「他の人より、自分は信頼されている」という、その差分を養分にして、私は元気になっている。
教会の中でも同じことが起こります。重用されている兄弟姉妹を見て、心のどこかで羨ましいと思っている。あるいは、いつもトイレ掃除の奉仕ばかりが回ってくるとき、ふつふつと悪感情が湧いてくる。誰も悪気はない、みんな主のために仕えているだけなのに、私の中には、奉仕の種類を秤にかけている自分がいます。
そしてもう一つ、より深いところで告白しなければならないことがあります。他の働き人が困難を抱えているという話を聞くと、なぜか、私の心が少し落ち着くのです。「他人の不幸は蜜の味」とまでは言わない。けれども、希釈はしている。他者の困難が、私の困難の重さをわずかに軽くしてくれているような、そんな心の動き。
これらすべての原動力は、比較です。主とともに歩むことよりも、こうした比較の力学のほうが、私のなかでは強く働いている。これが、私の本当のところです。
――この厄介な生物の正体は、なんでしょうか。
「罪です」と単純に答えることはできます。けれども、罪と一言で片づけてしまうと、私たちはその言葉のなかにこの現象を回収して、それ以上考えなくなってしまう。「ああ、罪ね」と。
比較は、罪と呼ぶにとどまらない、もっと根深いものです。それは自分の生存戦略なのです。人は、自分が群れのどこに位置しているかを測ることで、危険を察知し、資源を確保し、自分の場を守ってきました。比較は、人類が生き延びるために発達させた、深く根を張った機構です。手放そうとすると、自分の存在そのものが脅かされるような感覚になる。だから手放せない。
そしてもう一つ、決定的なことを言わなければなりません。この比較こそが、イエス・キリストを十字架につけた正体なのです。
福音書は、宗教指導者たちがイエスを引き渡した理由を、一言で記しています。「ねたみのために」(マタイ27:18)。原語は フトノス(φθόνος)――羨望、嫉妬、自分が持っていないものを持つ他者への怒りを意味する語です。彼らはイエスのなかに、自分たちの位置を脅かす存在を見ました。生存戦略としての比較が、最大限に作動した。そして比較は、自分より上に立つ者を抹殺することで、序列を回復しようとする。比較が極まるとき、それは殺意となるのです。
ですから、私のなかに住みついているこの厄介な生物は、神の独り子を十字架にかけた力と、同じ動力を持っているのです。私は、ピラトの庭で「十字架につけよ」と叫んだあの群衆と、まったく同じ機構を心のなかに作動させながら、日々を生きている。
このような自分を覚えながら、ヨハネの福音書21章20-23節を、ご一緒に読んでいきたいのです。
2. 振り向いたペテロ、寄りかかったヨハネ
「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た」(21:20)
この場面の直前で、何が語られていたかを思い出してください。よみがえりの主は、ペテロに対して、彼の死を予告されたのです。
「あなたが若かったときは、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」(21:18)
ヨハネはこの言葉を、こう注釈しています。「ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示して、言われたのである」(21:19)。それは穏やかな終わりではない、両手を広げて連れて行かれる、苦しい死の予告でした。
そしてその直後にイエスは、「わたしに従いなさい」と言われた。ペテロの召命の頂点でした。
ところが、その瞬間です。ペテロは振り向くのです。原語のギリシャ語は エピストラフェイス(ἐπιστραφείς)。動詞 エピストレフォー(ἐπιστρέφω)のアオリスト分詞で、その語の構造は「エピ(ἐπί、〜に向かって)+ ストレフォー(στρέφω、向きを変える)」――つまり「何かに向かって、自分の正面を向け直す」という動作を意味します。新改訳は「振り向いて」と訳していますが、これは単に首だけ回して背後を見るような動作ではありません。体の正面を、新しい対象のほうへと据え直すという、もっと構造的な動作なのです。
直前まで、ペテロの正面はイエスに向いていました。「わたしに従いなさい」と命じられ、その方の後ろを歩み始めていた。ところがその瞬間、ペテロは主から正面を外し、愛弟子のほうへ顔を据え直してしまったのです。
しかも、エピストレフォー(ἐπιστρέφω)という動詞は、旧約の七十人訳ギリシャ語聖書では、「立ち返る」――罪人が神のほうへ向き直る、回心の動詞として頻繁に使われる語です。「立ち返って、生きよ」(エゼキエル18:32)。本来「主の方へ向き直る」ことを意味する動詞が、ヨハネ21章では逆方向――「主から離れて、横へ向き直る」という、回心の逆の動作として現れている。ここに、ヨハネが選んだ語彙の鋭さがあります。
ここで、新約聖書の回心論の構造を、幾何学のように整理しておきたいのです。
真の立ち返りには、二つの語が組み合わされます。メタノエオ(μετανοέω)とエピストレフォー(ἐπιστρέφω)。一般に「悔い改め」と訳されるメタノエオですが、この訳は実はやや不正確で、原語は メタ(変えて)+ ノエオ(思う)――思考の方向そのものの転換を意味します。日本語の「悔い改め」が背負う情緒的悔恨や道徳的改善のニュアンスは、本来の原語にはありません。
この二語を、向きの角度として捉えるとわかりやすくなります。
メタノエオは、180度の反転です。今まで向いていた方向の真逆を向く。自己中心から神中心へ。認識の枠組みそのものが裏返る、根本的な方向転換。
エピストレフォー単独は、90度の旋回です。主体は依然として中心にいる。神に向き直ったわけではない。横に立つ他者へ正面を据え直しただけ。自分は動かないまま、視線だけが横にぶれる動作です。
本来、真の立ち返りは、180度のメタノエオと、それに伴うエピストレフォーが結合して成立します。使徒の働き3章19節で、ペテロ自身が後に語ることになります――「悔い改めて、向き直りなさい(メタノエーサテ・カイ・エピストレプサテ)」と。両者が結合して、初めて主への完全な立ち返りが起こる。
ところがペテロが21章で行ったのは、メタノエオなき90度のエピストレフォーでした。思考の枠組みは自分を中心に保ったまま、視線だけが愛弟子へ向かう。これこそが、比較という現象の幾何学的正体なのです。
機械工学に喩えれば、180度位相のメタノエオは水平対向エンジンのように互いの慣性を相殺し合って滑らかに回ります。しかし90度位相のエピストレフォーは、相殺されない振動を生み続ける。比較という心の動揺の止まなさには、こうした構造的な必然性があるのかもしれません。
「主よ。この人はどうですか」――この問いの底にあるのは、90度の旋回でした。180度ではない。だから神には向き直っていない。自分を中心に据えたまま、隣の他者へ視線を向ける――この90度の動作こそが、比較の構造そのものなのです。
そして、そこに愛弟子がいた。彼の口から出たのは、こういう問いでした。
「主よ。この人はどうですか」(21:21)
私たちはこの問いを、長らく軽率な好奇心として読んできました。「主よ、ところで、あの人の運命はどうなりますか?」と。けれども、本当にそれだけでしょうか。
ペテロは、自分が非業の死を遂げるかもしれないという、極限の予感を、たった今受け取ったばかりでした。愕然としたでしょう。死への恐怖は、人を縦には立たせません。横を見させるのです。誰か、自分と同じ運命を負う者はいないか。誰か、この恐怖を一緒に抱えてくれる者はいないか。
「主よ。この人はどうですか」――この問いの底にあったのは、もしかすると、こういう願いではなかったでしょうか。「もし、あの愛弟子も同じように死ぬのだとしたら、私の死は、少しは軽くなる」。
論理的には、何の解決にもなっていません。愛弟子が苦しんで死んでも、ペテロの苦しみが減るわけではない。けれども、人間の心理はこの幻想に強く引き寄せられるのです。古来、人は「同病相憐れむ」と言ってきました。同じ病を患う者は、互いに憐れみ合う――美しい連帯の言葉ですが、その底には「自分だけがこの病ではない」という、ひそかな安堵が潜んでいるのではないでしょうか。現代風に言えば「赤信号、みんなで渡れば怖くない」。古典の言葉と現代の俗な言い回しが、同じ構造を指している。人間の性は、千年を超えて変わらないのです。ペテロの問いの底には、この心理機制が働いていたのではないでしょうか。
そして、私たちはペテロを笑えません。彼の場所に立ったなら、私たちの口からも、同じ問いが出るはずです。先ほど私が告白した「他の働き人の困難の話を聞くと、心が少し落ち着く」というあの感覚と、ペテロの問いは、構造を共有しています。他者の運命を、自分の重荷の希釈装置として用いる――これが、ペテロの「主よ。この人はどうですか」の、深いところでの正体です。
そして、この場面にはもう一つ、見過ごされがちな注釈が添えられています。
ところで、不思議なことに気づきます。20節には、こんな括弧書きの注釈が入っています。
「この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、『主よ。あなたを裏切る者はだれですか』と言った者である」(21:20)
これはヨハネ自身の自己紹介です。福音書記者である彼は、福音書の最後の章のここに来て、自分自身を読者に思い出させるために、こういう識別をあえて選んだのです。
考えてみてください。彼には別の自己紹介の仕方がいくつもあったはずです。「十字架の下で母を託された者」(19:26)、「空の墓に最初に走り着いた者」(20:4)、「湖上で復活の主を見抜いた者」(21:7)。栄光の場面はいくつもあった。それなのに彼が選んだのは、「晩餐の席で、主の胸に寄りかかりながら、他人について尋ねた者」だったのです。
ここに、ヨハネの深い告白があると私は思います。13章の場面を思い出してみてください。あの晩餐の席で、ペテロは「裏切る者は誰か」を直接イエスに尋ねることができず、愛弟子に合図して、彼に尋ねさせました。愛弟子は主の胸に寄りかかりながら、その問いを口にした。原語で言えば、彼は エピ・ト・ステーソス(ἐπὶ τὸ στῆθος)――主の胸の上、最も親密な場所にいながら、他人について尋ねていたのです。
最も近い場所にいながら、視線は横に滑っていた。
こういう人間の姿は、聖書のなかだけのものではありません。例えば、1979年に大ヒットしたジュディ・オングの「魅せられて」という歌があります。阿木燿子が書いた歌詞は、地中海の風景のなかにいる女性の心情を描いています。
南に向いてる、窓を開け ひとりで、見ている、海の色
抱かれているその瞬間に、女性は南の窓を開け、ひとりで遠い海を見ている。最も親密な抱擁のなかで、視線は対面の彼方へ滑っている。当時の日本の多くの女性たちは、この歌を自分の歌として深く受け取ったといいます。家庭のなかで、職場のなかで、関係のなかで、彼女たちもまた、抱かれながら別の方向を見ていたからでしょう。
聖書のテクストとポップソングを並べることに、違和感を覚える方もおられるかもしれません。けれども、聖と俗を綺麗に分離してしまうこと自体が、ある種の比較の構造――自分は聖の側、彼らは俗の側――を生んでしまいます。むしろ、俗のなかに身を浸しながら、そこから聖へ志向する――これがパウロの教えた聖性の姿ではないでしょうか。
ヨハネが福音書の最後に「主の胸に寄りかかりながら、他人について尋ねた者」として自分を記したことと、阿木燿子が「抱かれながら南の海を見る女」を書いたことは、表面の言葉はまったく違っていても、同じ人間の根本構造を指しています。最も近い場所にいるからといって、視線がそこに向いているとは限らない。親密さは、孤独を治癒しない。愛されている只中で、人は他を求める。
ヨハネは、福音書の最後で、ペテロが振り向くのを描きながら、自分自身のかつての姿を思い出していたのではないでしょうか。「私もあのとき、主の胸に寄りかかりながら、まさに『他人について』尋ねていた」と。だからこそ彼は、この自己紹介をここに置かずにはいられなかった。これは、ペテロを批判するためではなく、ペテロに自分を重ねるための、沈黙の連帯の告白として、ここに置かれているのだと思うのです。
「ペテロよ、あなただけではない。私もそうだった」と。
このヨハネの自己紹介から、私たちが受け取らなければならない真理があります。
私たちは、しばしばこう信じています。「もっと主に近づけば、比較から自由になれる」「もっと深い祈りに入れば、人を横に見なくなる」「聖化が進めば、嫉妬や羨望は消えていく」。聖化のイメージは、ほぼこの構図で語られます。比較は、主から遠いから起こる病なのだ、と。
ところが、ヨハネ21章20節の注釈は、この素朴な前提への根本的な異議申し立てなのです。
主の胸の上――これ以上近い場所はありません。物理的にも、関係的にも、これは「最接近」を表す表現です。ところが、その同じ口から、「裏切る者は誰か」という、他人についての問いが出てくる。福音書はこの事実を、しかも著者自身の自己同定として、最終章に刻んだのです。
これは、距離を縮めれば消える病ではない、という宣言です。比較は、主との距離の関数ではないのです。それは、人間存在の構造のなかに、いわば定数として組み込まれている。
創世記3章を思い出してみてください。エデンで、主と共に歩む只中で、人はすでに「神のように」を欲したのです。主の臨在は、比較を未然に防がなかった。主の胸の上ですら、人は他人について尋ねた。これが私たちの本当のところです。
ですから、福音とは、「比較しない人間を作る教え」ではないのです。比較してしまう人間を、なお主が呼び続けてくださる、という出来事なのです。
ここを取り違えると、私たちはまた一つ、新しい比較を始めてしまいます。「比較から自由になっている兄弟姉妹」と「いまだに比較している自分」を、比較し始めるのです。聖化を物差しにして、また同じ罠に落ちる。比較は、こうやってどこまでも形を変えて生き残ります。
私たちが立つべきなのは、比較を「克服した」場所ではなく、比較してしまう自分を、なお主が呼び続けてくださっているという、その招きの只中なのです。
3. 「従いなさい」は屈従ではない――同道とくびきと十字架
ペテロの問いに対して、主はどう答えられたでしょうか。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(21:22)
「あなたは、わたしに従いなさい」。日本語で「従う」と聞くと、私たちはどうしても「服従」「屈従」のニュアンスを思い浮かべてしまいます。下に置かれて、強いられて、自分の意志を押し殺して、上のものに付き従う――そういうイメージです。
けれども、ここでイエスが使われたギリシャ語は、アコルーセオー(ἀκολουθέω)[1]という動詞です。この語の語源は、ア-(ἀ-、共に)+ ケレウソス(κέλευθος、道、街道)。文字どおりの意味は、「同じ道を共にする者」「道連れ」「路を分かち合う者」なのです。
中心にあるのは、上下関係ではありません。同道(どうどう)――「同じ道を共に行く」という関係です。
介護の現場でいえば、利用者をトイレへご案内する、あの動作です。引きずるのでも、押すのでも、命令するのでもない。「こちらですよ」と並んで歩く、あるいは少し先で歩調を合わせて待つ。ガイドする者は、自分も同じ床を踏み、同じ道を実際に歩くのです。指差して終わりではない。アコルーセオー(ἀκολουθέω)が指しているのは、こういう関係です。先を知っている者が、知らない者に伴走しながら、共に道を行く――そういう動作なのです。
実は、新約ギリシャ語には「服従」を表す動詞は他にもあります。ヒュパクオー(ὑπακούω、下で聞く=服従する)、ヒュポタッソー(ὑποτάσσω、下に置く=従属させる)、ドゥーレウオー(δουλεύω、奴隷として仕える)。もしイエスが「お前はわたしに服従せよ」と言いたかったなら、これらの語を使うことができたのです。
しかし、イエスがペテロに対して選ばれたのは、アコルーセオー(ἀκολουθέω)でした。「わたしと同じ道を歩みなさい」――屈従ではなく、同道への招きだったのです。
しかも、この箇所のギリシャ語には、スュ・モイ・アコルーセイ(σύ μοι ἀκολούθει)とあり、「あなた」を意味する スュ(σύ)が、強調的に置かれています。普通なら省略してよい主語が、わざわざ表に出されている。これは、「あなたは――他の誰でもなく、あなたは――わたしと共に道を歩みなさい」という、ペテロ個人への焦点化なのです。
もし「従う」が「屈従」だったなら、皆が同じ姿勢を取らなければなりません。同じ歩き方、同じ運命、同じ姿。比較が成立する余地が残ってしまう。「あの人のほうが、もっと深く服従している」と。
しかし「同道」であるなら、それぞれが歩く道は固有で、異なってよいのです。ペテロの道は殉教、ヨハネの道は長寿の証言。先生方の道はそれぞれの牧会と人生。異なる道を、それぞれが、しかし共にキリストと歩む――これが、アコルーセオー(ἀκολουθέω)の本当の意味です。
そして、この「同道」には、もう一つ深い層があります。主は別の箇所で、こう言われました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28-30)
「くびき」と聞くと、私たちはやはりマイナスの印象を受けます。束縛、強制、屈従の道具。けれども、ここでも原語に立ち返ってみたいのです。
「くびき」のギリシャ語は ズゴス(ζυγός)。この語の語根は、印欧祖語の *yeug-(結合する、つなぐ)に遡ります。同じ語根から、ラテン語の「結合する」が派生し、英語の「ジョイン(join)」が生まれ、サンスクリット語の「ヨーガ(yoga=結合)」が生まれました。「くびき」も同じ語根から来ています。
つまりズゴス(ζυγός)の中核は、「服従の道具」ではなく、「結合させるもの」「二つを一つにする装置」なのです。実際、古代ギリシャ語でズゴス(ζυγός)は、牛のくびきだけでなく、天秤の横棒(両皿を結合する)、漕ぎ手の座席の梁(船の両側を結合する)、婚姻の絆――そういうものを指しました。共通しているのは、二つのものを対等に、構造的に結合するという機能です。
ここに、神学的な衝撃があります。くびきとは、本質的には「一頭で負うもの」ではなく、「二頭で並んで共に負うもの」なのです。
このことは、新約聖書の別の場所からも裏付けられます。パウロはピリピ4章3節で、同労者を「シュズゴス(σύζυγος)」と呼びかけています。スュン(σύν、共に)+ ズゴス(ζυγός、くびき)の合成語で、「くびきを共にする者」という意味です。新改訳は「真の協力者」と訳していますが、原語が告げているのは、「同じくびきの下で共に労する仲間」なのです。
ですから「わたしのくびきを負いなさい」は、「わたしに屈従せよ」という命令ではなく、「わたしと並んで、わたしと共に、くびきを負いなさい」という招きなのです。
そして主は、こう続けられました。「わたしのくびきは 負いやすく(クレストス、χρηστός)、わたしの荷は軽い」と。クレストス(χρηστός)の本来の意味は、「使うのに適している、よく合う」、そこから「親切な、慈しみ深い」となります。古代の良いくびきは、大工が動物の肩のかたちに合わせて削って作ったものでした。粗悪なくびきは皮膚を擦って傷を作ります。良いくびきは、それを負う者にぴったり合うように削られている。
そしてイエスは、テクトーン(τέκτων、大工)でした。
ところで、この クレストス(χρηστός、善き)という形容詞は、クリストス(Χριστός、キリスト=油を注がれた者)と、ギリシャ語の発音上、ほとんど区別がつかないほど近いのです。母音一文字(η と ι)しか違いません。新約聖書が書かれた時代のコイネーギリシャ語では、両者の音はすでに極めて近づいており、聞き取りでは混同されることが珍しくありませんでした。
実際、ローマの歴史家スエトニウスは、紀元120年頃の著作のなかで、初期のキリスト者を巡る騒乱について「クレストゥスに煽られたユダヤ人」と記録しています。これはキリスト者(Christianus)を「善き者たち(Chrestianus)」と取り違えた誤記だと考えられています。初代教会の教父ユスティノスやテルトゥリアヌスは、この混同を逆手に取って、「そうだ、私たちはキリスト者(クリスティアノス)であり、同時に善き者(クレスティアノス)でもある」と応えたのです。音の混同が、神学的真理の発見へと転化された瞬間でした。
マタイ11章のこの言葉「わたしのくびきは クレストス である」を、当時の聞き手は、おそらく「わたしのくびきは キリストに似ている」という響きをも感じながら聞いたはずです。くびきの肩に合わせた削り直しは、キリスト御自身の手仕事なのです。くびきがキリスト的であるとは、くびきの向こう側におられる方と、くびき自体が、同じ存在を共有しているということです。
ですから、主の言葉の含意はこうです。「わたしのくびきは、あなたに合わせて削られている。あなたの肩を傷つけない。あなたを擦り減らさない。あなたの形に作られたくびきだから」。
このマタイ11章のくびきの言葉に、もう一つ、見落としてはならない重要な動詞があります。
「わたしのくびきを 負って(アラテ、ἄρατε)、わたしから学びなさい」
この「負って」と訳されている動詞、アラテ(ἄρατε)。基本動詞は アイロー(αἴρω)。「取り上げる、持ち上げる、担ぐ」という意味です。
この動作の方向は、注目に値します。「下に押し付けられる」のではなく、「上に持ち上げる」のです。動作は下から上への動きです。引きずられるのではない。押し付けられるのではない。強制されるのではない。自分から、地面から、両手で、持ち上げる――それが、くびきの取り方です。
ここに深い逆説があります。くびきを持ち上げる者は、その持ち上げたくびきの下に、自ら身を入れるのです。動作は上方向、しかし結果として身は下に置かれる。自発的に下に置かれることは、外圧によって押し下げられる屈従とは、まったく違う現実です。
そして、この同じ動詞 アイロー(αἴρω)は、マタイ福音書のなかで、もう一つ決定的な箇所で使われています。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の 十字架を負い(アラトー、ἀράτω)、そしてわたしについて来なさい(アコルーセイトー、ἀκολουθείτω)」(マタイ16:24)
そして、もう一箇所。
「兵士たちは、ある通りすがりの人を徴用して、イエスの 十字架を負わせた(アレー、ἄρῃ)。クレネ人で、シモンという人であった」(マタイ27:32)
くびき、自分の十字架、キリストの十字架――この三つが、同じ動詞アイロー(αἴρω)で結ばれているのです。これはマタイの編集神学的な意図です。
そしてマタイ16章24節では、「取り上げて(アラトー、ἀράτω)」と「わたしに従え(アコルーセイトー、ἀκολουθείτω)」が、並列して命じられています。取り上げて、共に道を行く――これが弟子の召命の構造です。
ここに、衝撃的な事実が浮かび上がります。マタイにおいて、くびきと十字架は、別の現実ではないのです。両者は、同じ動作で取り上げられる、同じカテゴリーの担い物として提示されている。ペテロに告げられた「自分の十字架を負って従いなさい」と、マタイ11章の「わたしのくびきを負って学びなさい」は、構造的に同じことを語っているのです。
そして、私たちが負うくびきの、向こう側――そこに、もう一頭がおられるのです。私たちは一頭でくびきを担いでいるのではない。主が、隣で、一緒にくびきを負っておられる。しかも、主御自身は、私たちのくびきよりはるかに重い、十字架を担われた方なのです。
ペテロの「主よ。この人はどうですか」という問いは、ここで根本から崩されます。くびきの向こう側を見れば、そこにはキリストがおられる。比較すべき他者が、視界の中心にいない。視界の中心にいるのは、十字架を負われた主御自身だからです。
4. メネイン――留まることと、それを死なないと読み替えた教会
イエスの応答は、ペテロへの命令だけで終わっていません。愛弟子の運命についても、含みのある言葉が語られています。
「わたしの来るまで彼が 生きながらえる(メネイン、μένειν)のをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」(21:22)
新改訳は「生きながらえる」と訳しています。けれども、原語は メネイン(μένειν)――辞書形で メノー(μένω)[2] 、「とどまる、留まる、住まう、持続する」という動詞です。
これが実は、ヨハネ神学のなかで、最も中心にある動詞のひとつなのです。ヨハネ福音書のなかで約40回、ヨハネ第一の手紙で約24回、ヨハネ文書全体で約70回現れます。これは偶然ではありません。ヨハネはこの言葉に、独特の神学的重みを込めて使っているのです。
たとえばヨハネ福音書1章。最初の弟子たちがイエスに最初に発した問いは、こうでした。「ラビ。どこに泊まっておられるのですか(ポウ・メネイス、ποῦ μένεις)」(1:38)。弟子の旅路の最初の問いが、メネイン(μένειν)――どこに留まっておられるか、という問いだったのです。
ヨハネ15章のぶどうの木の譬えでは、こう語られます。「わたしにとどまりなさい(メイナテ・エン・エモイ、μείνατε ἐν ἐμοί)。わたしも、あなたがたのうちにとどまります」(15:4)。「わたしの愛のうちにとどまりなさい」(15:9)。ここでメノー(μένω)は、信徒がキリストと、そして父なる神との交わりのなかに住まい続けることを意味する語へと飛躍します。
つまりヨハネにとってメネイン(μένειν)とは、単に「生きている」「存在し続ける」ことではないのです。それは、主との関係のなかに留まり続けること、その関係そのものが永遠の質を持つこと――そういう深い意味を担った動詞なのです。
ですから、21章22節でイエスが愛弟子について「メネイン(μένειν)」と言われたとき、その意味は、生物学的に長く生きるかどうか、という単純な問題ではありませんでした。それは、主との交わりのなかに住まい続け、その交わりから証言を書き残し続ける――愛弟子の生涯の働きそのものを指す表現として読めるのです。
そしてここで、ペテロと愛弟子の召命の対称性が、美しい構造を見せます。
ペテロには、アコルーセイ(ἀκολούθει、従え=同道せよ)。 愛弟子には、メネイン(μένειν、留まる)。
走り続ける者と、留まり続ける者。一見、まったく違う召命のように見えます。けれども、両者とも、キリストとの生きた関係の持続へと召されているのです。ペテロには「道を行く」言語で、愛弟子には「留まる」言語で語られた、しかし中身は同じ実在の二つの側面なのです。
ですから、ここでも比較の物差しはありません。長く生きた者が偉いのではない。早く殉教した者が偉いのでもない。それぞれが、主との関係のなかに留まり続けたかどうか――それだけが問われている。そしてその問いも、上下の評価ではなく、神の恵みのなかで完成される問いです。
ところが、です。教会[3] は、このイエスの言葉を読み違えました。
「そこで、その弟子は 死なない という話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか』と言われたのである」(21:23)
何が起こったでしょうか。教会は、イエスの言われた「メネイン(μένειν、留まる)」を、「ウーク・アポトネースケイ(οὐκ ἀποθνῄσκει=死なない)」と読み替えてしまったのです。
これは、極めて深い構造的歪曲です。ギリシャ語のレベルで何が起きたかを見てみましょう。
イエスが使われた メネイン(μένειν)は、ヨハネ神学の中核語であり、関係的・神的な持続を意味する動詞でした。「主との交わりのなかに住まい続ける」「愛のうちにとどまる」――そういう、関係的・霊的な次元の言葉です。
ところが教会は、これを「死なない」イコール生物学的に肉体が継続する、という意味に置き換えてしまった。関係的な次元のことばが、生物学的な次元のことばへと、平板化されたのです。
新約聖書には「いのち」を意味する二つの語があります。ビオス(βίος、生物学的生命、生計)と、ゾーエー(ζωή、質的・神的いのち)。ヨハネ福音書は、ビオス(βίος)を本体ではほとんど使わず、ゾーエー(ζωή)を36回も使います。ヨハネにとっての「いのち」は、はじめから生物学的延命ではなかったのです。
それなのに教会は、メネイン(μένειν)をビオス(βίος)の延長として読んでしまった。これは、ゾーエー(ζωή)的な実在を、ビオス(βίος)的な観点に引き下ろしてしまう、慢性的な人間の癖です。
そして、福音書記者ヨハネは、はっきりと訂正します。「イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのではない」と。これは単なる事実関係の訂正ではありません。ヨハネ神学そのものの防衛です。「主が言われたのはメネイン(μένειν)であって、ウーク・アポトネースケイ(οὐκ ἀποθνῄσκει)ではない。両者は同じことではない」と。
そして、これは、教会だけの問題ではありません。私たち自身が、絶えず同じ還元を行っているのです。
聖書が「いのち」と言うとき、私たちは「生物学的生存」と読みます。「とどまる」と言うとき、「物理的存続」と読みます。「祝福」と言うとき、「成功」と読みます。「永遠のいのち」と言うとき、「死後も意識が続くこと」と読みます。ゾーエー(ζωή)をビオス(βίος)に、関係的次元を物理的次元に、神的事柄を心理的・社会的事柄に還元する――これが、私たちの読みの根本構造なのです。
そして、これは比較の問題と深く繋がっています。私たちは、信仰の成長を「目に見える成功」で測ろうとする。教会の出席数で、献金の額で、SNSのフォロワー数で、自分の働きを評価しようとする。すべてを観察可能な数字に還元する。そしてその数字を物差しにして、他の働き人と自分を比較する。ゾーエー(ζωή)の世界をビオス(βίος)の世界に還元すれば、必ず比較が始まるのです。
福音記者の訂正は、この還元主義への厳しい異議申し立てなのです。
5. 昇天――比較が運び去られ、御霊が運び込まれる日(間近に)
ここで、ペテロのその後を思い起こしておきたいのです。21章で「主よ。この人はどうですか」と顔を据え直してしまったペテロは、その後どうなったでしょうか。
私の想像ですが、ペテロの動揺はおそらく、しばらく続いたのではないでしょうか。御霊降臨のあの日まで、ずっと続いていたのではないか――そう思うのです。
考えてみてください。ヨハネ21章の冒頭で、ペテロは何をしていたでしょうか。「私は漁に行く」(21:3)と言って、ガリラヤ湖に戻っていたのです。復活の主にすでに二度会った後(20章)、それでも彼は、召命前の漁師の暮らしへ戻っていました。復活との出会いは、ペテロをただちに召命の場に立たせることはなかったのです。
そして三度の問答で、主は三度「わたしを愛するか」と問われました。三度の否認を癒すための、三度の問答。けれども、その癒しの場面で、ペテロは「心を痛めた」(21:17)とあります。原語は エリュペーセー(ἐλυπήθη)――深い動揺の語です。赦しを受けながら、ペテロはなお動揺している。そしてその直後に、死の予告が来て、エピストレフォー(ἐπιστρέφω)が起こる。
復活と昇天の間も、ペテロの動揺は続いたでしょう。昇天と五旬節の間の十日間も、おそらく揺れ続いていた。使徒の働き1章で、ペテロは婦人たちや他の弟子たちと共に祈っていますが、まだあの五旬節後の堂々たる姿には程遠い様子です。
ところが使徒の働き2章で、ペテロは突然、別人のように立ち上がります。「ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に呼びかけ」(2:14)、自分が三度否認したあの主の十字架と復活を、群衆の前で堂々と告げるのです。ここで、何かが質的に変わったのです。
そしてその直前にあったのは、御霊の降臨でした。
これは、復活の意義を低く見るのではありません。むしろ逆です。復活との出会いだけでは、まだ何かが足りなかった――そう聖書は語っているのです。「足りなかったもの」を満たしたのが、五旬節の御霊降臨でした。
そしてここに、主が言われた「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです」(ヨハネ16:7)、その「益」の真の重みが立ち現れます。
ここで、私たち自身がどこに立っているかを思い起こしておきたいのです。今日、私たちは復活節第六主日――昇天日を間近に控えた聖日に立っています。あと十一日後の木曜日、教会暦は昇天日を覚えます。主はまもなく、弟子たちの目の前から退かれようとしておられる――そういう聖書の時のなかに、私たちは今、身を置いているのです。
弟子たちはまだ、五旬節の御霊降臨を知りません。主との別れの日が迫っていることだけは感じている。彼らの不安、戸惑い、寂しさ――それらの只中に、主の言葉が響きます。「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです」と。
「益」と訳されたギリシャ語は、スュンフェレイ(συμφέρει)。語源は、スュン(σύν、共に)+ フェロー(φέρω、運ぶ)。文字どおりには「共に運ぶ」です。主の去り行きは、私たちと共に、何かを運び去り、何かを運び込む出来事なのです。
何が運び去られたのでしょうか。私は、これは比較の可能性そのものであったと信じます。
地上の主が肉体において共におられた間、比較は構造的に避けられなかったのです。ペテロが愛弟子と共にイエスに従っているとき、「自分とイエスとの関係」と「愛弟子とイエスとの関係」は、外側から観察可能な現象として、比較ができてしまいました。「あの人のほうが胸近くにいた」「自分はあの人より遅れている」――肉体の臨在は、観察可能性ゆえに、比較の指標を提供してしまったのです。
ところが昇天によって、主は御霊として遍在的に来てくださいました。御霊の臨在は、外側からは観察できません。「あの人にどれだけ御霊が宿っているか」を、私が外から測ることはできない。「自分にどれだけ御霊が宿っているか」も、私には測れない。御霊は、それぞれの信徒の最も内側に、それぞれに固有の形で宿られるのです。その固有性は、外側から比較する物差しを持ちません。
これがスュンフェレイ(συμφέρει)の深い意味です。主の撤退が共に運び去ったものは、「比較の可能性そのもの」だったのです。
そして、何が運び込まれたのでしょうか。もう一人の助け主、パラクレートス(παράκλητος)、傍らに立たれる御霊です。地上の主は、肉体をとるゆえ、特定の人々の傍らにしか立てませんでした。けれども御霊は、霊的存在ですから、すべての信徒一人ひとりの傍らに、同時に立たれるのです。
私たちのくびきの向こう側に、もう主は肉体としては見えません。けれども、御霊として、主は確かにそこに立っておられる。私たちが負っている重荷の隣で、主御自身が、共にくびきを負ってくださっている。
ですから、ペテロに告げられた「あなたは、わたしに従いなさい」は、昇天後にこそ完全に成立する命令でした。地上の主の足跡を物理的に追うのではなく、御霊と共に同じ道を歩み続ける――これがこの命令の、私たちにとっての意味です。
そして、愛弟子に予告された「メネイン(μένειν、留まる)」も、昇天後にこそ完全に成立する状態でした。生物学的に長く生きるかどうかではなく、御霊によって、主との交わりに住まい続ける――これがこの言葉の、私たちにとっての意味です。
走り続ける者(ペテロ)も、留まり続ける者(愛弟子ヨハネ)も、共に同じ御霊によって支えられているのです。だから、比較すべき物差しはない。それぞれの道は固有でありながら、同じ主との交わりのなかで生きている。
冒頭で告白した、私のなかの比較。学友への苦々しさ、同級生の大成への黒い影、介護現場での評価への執着、トイレ掃除への悪感情、他の働き人の困難への密かな安堵。これらすべては、私のなかから消えてはいません。今も生きています。
しかし、昇天された主は、この私の只中に、御霊として来てくださっています。私が「主よ。この人はどうですか」と振り向いてしまうたびに、主は静かにおっしゃるのです。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と。
私の比較を完全に消す福音ではありません。私の心の闇を、明日の朝には光に変える福音でもありません。比較してしまう私を、なお主が呼び続けてくださる――そういう福音です。そして、その呼び声が止まないという事実こそが、私が今日もまた、主と共に道を行ける根拠なのです。
そして、福音書全体が、「主よ。この人はどうですか」と問うてしまう私たちに、応答していることに気づきます。
ヨハネ福音書19章5節で、ピラトは茨の冠をかぶり紫の衣を着せられたイエスを指して、群衆に向かってこう叫びました――「Ἰδοὺ ὁ ἄνθρωπος(イドゥー・ホ・アンスローポス、この人を見よ)」。
エッケ・ホモとして知られるこの言葉を、ピラトは政治的な意味でこの言葉を発したのですが、ヨハネ福音書のなかで、この一語は福音の中心そのものの提示として響いています。「この人を見よ」――このイバラを冠せられた方こそが、神の独り子である、と。
そして21章でペテロが「この人はどうですか」(οὗτος δὲ τί;)と尋ねたとき、福音書全体が、19章のピラトの言葉を反響させながら、私たちに語りかけているのではないでしょうか。比較対象として「この人」を見るのではない。茨の冠をかぶった「この人」を見よ。十字架にかけられ、復活されたこの人を見よ、と。
同じ「この人」という指示語が、二つのまったく異なる対象を指しています。ペテロが見たのは、比較対象としての他者でした。けれども福音書が指差すのは、信仰の対象としての主御自身です。90度の旋回で愛弟子を見ていた視線を、180度回転させて、十字架のキリストを見る――これが、メタノエオが指している方向の転換なのです。
「主よ。この人はどうですか」と問うてしまう私たちに、主は静かに、しかし確かに応答してくださる――「わたしを見なさい」と。
そして、ここに福音の最も深い射程があります。私のなかに住みついているコンパラティブ――この厄介な生物は、第1章で見たように、神の独り子を十字架にかけたその力でした。私は、主を殺した心の機構を、なお自分のなかに作動させ続けている者です。それなのに、その私が「主と共に歩むことが許されている」――この恵みの巨大さは、ほとんど想像を超えています。主を十字架につけた者を、なお主が共に道を歩む仲間として呼んでくださる。これがヨハネ21章で、ペテロを通して、私たちに告げられている福音なのです。
主の胸に寄りかかりながら、なお他人について尋ねた者――それがヨハネでした。ヨハネは生涯その記憶を抱え続け、福音書の最後に、その姿のまま自分を記しました。私たちもまた、比較からの解放という理想とは程遠い自己矛盾を抱えたまま、しかし主と共に歩むことが許されています。
昇天日を間近に控えたこの聖日、振り向いて隣を見る代わりに、私はくびきの向こうを見上げたいのです。そこには、私のくびきを共に負ってくださる方が、確かにおられるのですから。
「主よ。この人はどうですか。」――ペテロのこの問いを、私たちは皆、今日も心のどこかで口にしています。けれども主は、その問いの上から、固有のあなたへの呼びかけを止めることがありません。
「σύ μοι ἀκολούθει――あなたは、わたしに従いなさい」と。
脚注
[1] アコルーセオー(ἀκολουθέω)の語源 ἀ-κέλευθος については、LSJ、BDAG、TDNT が「同じ道を行く者」という核心的意味を支持している。本稿では「同道」と訳した。
[2] ヨハネの μένω 神学については、Bultmann, Brown, Schnackenburg ら主要注解者が一致して、これを単なる空間的・時間的存続を超えた、関係的・神的な持続を表す中核語と捉えている。
[3] 共同体の歪曲(メネイン μένειν からウーク・アポトネースケイ οὐκ ἀποθνῄσκει への読み替え)は、構造的にはゾーエー(ζωή)をビオス(βίος)へと意味論的に還元する操作であり、論理的様相としても、ἐάν 条件節から直説法現在の事実認定へと崩壊している。これは情報伝達における構造保存的でない変換の典型例であり、共同体内部における福音の記憶の摩耗の構造を示している。
伝道師:高木高正 東松山バプテスト教会
✝Soli Deo Gloria ただ神にのみ栄光あれ
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