「シン・○○」って自分たちでもタイトルやイベント名とかで用いがちだが、そこには問題があるかもしれないという話
はじめに 「シン・○○」誕生 そして庶民も使うように
2016年の「シン・ゴジラ」公開以降、庵野監督はいくつかの「シン・○○」というタイトルで往年のコンテンツに新たな息吹をこめた。
それらの話題性や興行的な成功の結果、世の中に「シン・○○」と名の付くコンテンツがあふれている。
結構な確率で、我々が何かタイトルをつけようとするときに「シン・○○」的なタイトルを付けがちになっている。
小さな身近なコンサートだとか展覧会だとか、何か発表する際に、庶民も「シン・○○」と付けがちになってしまった。
個々人の判断で行っている、このこと自体に異論をはさむ余地は少ない。
ただ、一つだけ気にしていることがある。
(すまん書いてたら二つになったわ!)
1 世代性の問題
「シン・○○」を見たり使ったりタイトルとして案出したりしがちな年齢層ってものがある。それは庵野監督の作品、あるいは「シン・○○」のオリジナルシリーズに親しんできた人が多いように思う。すなわち、40代以上の男性が多い印象だ。
当然ながら、この観測には多くの例外が伴う。若者でも「シン・○○」を鑑賞し感想などを発信するし、女性であっても同断だ。
ただ個人的な観測においては、何か私たちがタイトルを案出する際に「シン・○○」と名付けがちなのは、圧倒的に庵野監督の「シン・○○」直撃の世代である。
そしてもっかい繰り返すことになるのだが、このこと自体は別に大きな問題ではない。直撃世代なのだから頭の中でそういう風にイメージし、プランとして持つのは全く問題ではない。
ようやく今日のnoteで指摘したいことにたどり着いた。「シン・○○」は世の中のすべての世代にスッと入るかというと、そうじゃないのではないかと思っている。
たとえば子供やじーさんばーさんも参加するイベントや、そうした層の来場を想定する展覧会などでは、あるいはより良いタイトルがある可能性がある。
結果的に「シン・○○」というタイトルになることもあるだろうけれども、もう少し幅広い世代にリーチするタイトルがあるかもしれない、と考えてみてもよい。
最近、上の世代にイベントのタイトルについて「シン・○○」の提案をされ、その言葉が持つ世代性の限界をどのように説明するか、悩んだことがあった。
それで、今この夜に言語化を試みたわけだ。
2 コンテンツへの説明不足の可能性
ここからは蛇足めくが、「シン・○○」のタイトルをつける際の構造的な問題点についても付言しておきたい。
庵野監督の本家の「シン・シリーズ」の「○○」に入るコンテンツは、いずれも長くコンテンツとして愛され、文化として確立しているといってもいいことどもであることは論を俟たない。
ゴジラ、ウルトラマン、仮面ライダー、エヴァンゲリオン。これらはコンテンツとしてはとんでもなく巨大で、ほぼ説明の必要がない。詳しい人、あんま見たことない人の偏差は勿論とれるけれども、だいたいの人がなんとなく存在を理解しているコンテンツと言えるだろう。
一方、我々の付ける「シン・○○」的タイトルのうち「○○」のパンチが弱すぎるものが多いと感じている。
ただ、自分たちの発表したい、あるいは展示や販売などをしたい「○○」を「シン」の後につけているだけになってしまってはいないだろうか?
こういうコンテンツにあっては「シン・○○」はタイトルとして弱い。「○○」にパワーがないと、「シン・○○」はタイトルとして脆弱性を持ってしまうというわけだ。
この場合は、もう少し「○○」について説明してやるタイトルをつけるのが良いと思っている。
雑なたとえだが「シン・料理教室」よりも「今から始める料理教室」とか「親子で楽しむ料理教室」のほうが、どんな料理教室かわかりやすい。
ということで「シン・○○」は、やりやすいが「○○」の方のパワーに依拠するタイトルであることを指摘しておきたい。
まとめ
「シン・○○」はタイトルとしては付けやすく、安直に案出されうるが、以上述べてきたような、世代の問題とコンテンツへの説明不足の危険性を孕んでいる。
タイトルを案出する際には「シン・○○」は魅力的に映るが、この辺りを気にしてクリアしておくことが大切と思っている。
