「争わない」という高次な戦略――私が理不尽を法的にスルーした理由
人生には、法的に解決可能な「理不尽」が降り注ぐことがある。かつての私にとって、それは閉鎖された教室での理不尽な無視と、指導的立場にある者の加担という、極めて明快な不法行為(民法709条)の構図だった。
当時、私は弁護士を立てて戦う準備さえ整えていた。法的論理を組み立て、証拠を精査し、相手の責任を追及する。それは奪われた尊厳を取り戻すための、正当な権利行使であるはずだった。
しかし、私は最終的に「訴訟の不提起」という結論を選択した。
紛争不干渉という「積極的選択」
世間一般の法意識において、権利を放棄することは敗北や弱さと同一視されがちだ。しかし、法学の観点から見れば、損害賠償請求権(民法710条)を行使しないという判断は、あくまで当事者の主体的意思に基づく「紛争の不作為」であり、私的自治の原則の極致と言える。
私がこの「不干渉」を選んだのは、紛争の泥沼化がもたらす「二次的加害」を回避するためだった。訴訟経済の観点から見ても、立証責任(民事訴訟法247条)の遂行という多大なコストを支払うことが、果たして私の心の平穏にとって真の救済となるのか。そう自問したとき、答えは否だった。
戦わないことは、自分を守るための戦いである
「スルーする」ことは、泣き寝入りではない。それは、過去の侵害者に私の人生の貴重な時間を一切割かないと決めた、高度な自己決定権の行使である。
法的係争状態を自ら解消し、不法行為者との関係を完全に切断する。それは彼らを免責することではなく、彼らを私の人生から完全に排除し、幸福追求権(憲法13条)を最優先するという、私なりの「法的解決」だったのだ。
結び:日常を取り戻すという勝利
今、私はかつての加害者たちの名前を思い出すこともない。彼らは法廷という土俵に上げる価値すら、私の人生には存在しないからだ。
もし今、理不尽な排除に直面して苦しんでいる人がいるならば伝えたい。戦う権利はもちろんある。しかし、戦わずに立ち去り、自分の人生を守り抜くこともまた、法的に許容された「勝利」の形である。
訴訟という手続きを回避した瞬間、私は「被害者」という法的ステータスから解放され、再び自分の人生の主導権を取り戻した。沈黙は敗北ではない。それは、自分の尊厳を守り抜くための、最も静かで、最も強い戦いなのだ。
