再審制度見直しで、法制審議会という茶番
冤罪の作り方 ~「背理法」をもとにした「悪魔の証明」への転嫁~
刑事法の原則では「推定無罪」であり、「合理的な疑い」が残らないよう検察の証明が必要だ。しかし、日本の司法専門官は「もし、被疑者/被告人が犯人でないとしたら合理的な説明がつかない」という「背理法」的な間接証拠(性格や過去の行動などから犯人性の予断を抱かせる情報)を積み上げ、反論する弁護側に「悪魔の証明(無実であることの証明)」を転嫁する。直接証拠なくして有罪を勝ち取れるという独特なスタイルをとる。
たとえば、来客用に戸棚にしまって置いたショートケーキが、用事のために家を空けた数分の間に無くなっていたとする。家を出る直前に戸棚を確認し、戸締まりもした。留守の間、家には、長男、二男、三男がいた。長男も二男も何も知らないという。ただ、二男の口の周りにはクリームらしきものが付いている。三男は「留守の間に、二男が戸棚のある台所へ入っていくのを見た」と証言している。さて、二男が犯人だと断定してもよいものか。
もちろん、第三者が入ってきて盗み食ったという可能性は、「合理的な疑いを差し挟む余地」にはならないし、かといって「二男が戸棚のある台所へ入っていくのを見た」からといって犯人と断定することにも無理がある。二男はのどが渇いたので冷蔵庫の牛乳を飲みに台所に降りてきたのかもしれない。問題は直接証拠がないときに「らしい」「可能性が考えられる」といった「疑い」の積み重ねだけで、二男を犯人と断定できるかということだ。
確かに二男は怪しいといえば怪しいわけで、「では、二男が食べたのでなければ誰が食べたというのか」という話になる。しかし、それは捜査機関や検察官が証明すべきことである。数学の背理法と違い、犯行ストーリーは何とでも作れるので、際限なく犯人性を疑わせることが可能なのだ。
否認を続け(やっていないからそうするしかないのかも)、罪の自覚のない者には人質司法の辛さを思い知らせ、犯人性補強のためには、目撃証言の誘導や捏造された証拠が利用されてもおかしくはない。その根底にあるのは、二男の従来の行動や性格から「あいつがやってもおかしくはない」との思い込みである。こうして冤罪は作られていく。
たくさんの仕事を効率的に処理しようとすると、繰り返し行う業務はシステム化し、プロセスにおいてなるべく結果を予見可能なものにしておくのが合理的だ。裁判はその最も典型である。しかし、人が人を裁くことは、商品のように正しい規格が事前に分かっているのとはわけが違う。だから、有罪率99.9%というデータは裁判官にとっては好都合なデータなのである。実は弁護士にとっても「ダメもと」で、無罪を勝ち取ればヒーローとなれるからだ。
そもそも、法人類史をたどれば、「推定無罪」や「合理的な疑い」は被疑者/被告人のためではなく、陪審員による隣人への裁きが、同胞を罪に貶めることへの畏れから、その道徳的責任を全員一致で共有すること、過ちを減らすために、それまで拷問や偽証罪・証言拒否罪といった制裁による取り調べの特権を取り上げ、代わって黙秘する選択を与えることで陪審員のミスジャッジ防止の担保としたのだ。だから判決は、“Guilty” or “Not Guilty” なのである。少しでも「合理的な疑い」が残れば遠慮なく“Not Guilty”としてよく、人が人を裁くということは、心理的不安から生まれた神学的な制度なのである。最高検、警察庁、最高裁が行っているミッションの起源、つまり現代刑事法の諸原則の誤った理解によるものなのである。
参考文献:
・森本あんり 「陪審員制度の神学」(「キリスト新聞」2008年7月5日号「論壇」)
・James Q. Whitman, The Origins of Reasonable Doubt, Yale University Press,2008
・フェルナンダ・ピリー『法の人類史』 河出書房新書2025
・瀬木比呂志 『現代日本人の法意識』 講談社現代新書2024
