高校生の法意識と検察文化 -素朴道徳感情と人質司法の同根性- (法と教育学会 口頭報告 資料)
本日、東大にて「法と教育学会」の発表を行ってまいりました。
昨今の検察の不祥事(人質司法による冤罪など)の根っこに、日本的な素朴道徳感情があることを様々な資料を裏付けに説いてきました。
道徳・公民・公共の教科書の構成及び教育現場での授業内容に問題があり、個人の自律、人権保障、よりよい社会の構築に少しも貢献していないのではないかといった趣旨になります。
私見ですので、さまざまなご批判があると思いますが、出来うる限りの裏づけ資料をもとに論じています。
ご興味がありましたら、拝読ください。
<以下資料内容>
高校生の法意識と検察文化 -素朴道徳感情と人質司法の同根性-
1.はじめ にかえて・・・、 検察の取り調べと教師の生徒指導の類似性例えば、以下の事件の検察の取り調べの実態を見てみる。
事例)横浜市で起きた無免許運転の死亡事故をめぐり、元弁護士が運転していた男にうその供述をさせた疑いで逮捕、「犯人隠避教唆」懲役2年執行猶予5年。「事実無根でこれ以上話すことはありません」と伝えたあと黙秘、起訴されるまで21日間、56時間におよぶ取り調べに、検事は「ガキだよね」「社会性が欠けている」「嘘をつきやすい体質」「数学と理科の成績が悪い」などの人格的な非難を繰り返す。⇒東京地裁が国に110万円の賠償を命じる判決。
検察の取り調べ動画を確認すると、あちこちに道徳的な説諭や罵倒・恫喝による自白を迫る側面が見えてくる。たとえば、被疑者が取り調べ中にトイレに行きたい旨を伝えるシーンでは、「行きますじゃなくて、行きたいですでしょ」との指導を、また戻って来て椅子に腰かけた時にすかさず「取り調べ中断してすみませんでしたとか言うんじゃねえの、普通」といったやり取りがみられる。また、プレサンス冤罪事件の取り調べに対する国家賠償法訴訟では、検察は「沈黙は卑怯だと刷り込んだ」ことや、「検察なめんなよ」「小学生、幼稚園児だってわかってる」「ウソまみれ」「本当ににぶい人」など罵倒・恫喝があったことに対して検察は「覚えていない」など言い訳ばかりであったという。太陽光発電関連会社「テクノシステム」事件においても、担当検事に「検察庁を敵視するってことは、反社や、完全に」「捜査機関がなめられたと思ったらどうするか考えたら分かるはずや」など脅すような言動がたびたび記録されていた。刑事法の原則である「推定無罪」や「黙秘権の行使」については沈黙することのマイナス評価を前面に出し、「黙秘したらええやん、損やけどな、黙秘」「悲惨なことになるで、法廷では。みんなちゃうこと言うと思うで。かわいそうやわ」「ここで黙秘をするのはどMや」などとあたかも恫喝するかの言動が記録されている。
Fig.1~4.横浜無免許運転死亡事故への弁護士の犯人隠避教唆罪に対する取り調べ時の動画




▼『日本人のしつけと教育』(東洋 1994東京大学出版 pp.137-174)
「感性的評価を道徳的評価に完全に従属させてしまうと自分の道徳観に合わないものには全く不寛容になり、考え方が一本調子になり、美意識も貧困になる。日本の優しさ、しなやかさや美意識は、道徳的評価と感性的評価がある程度独立していることによる。」 ⇒ 後述の「素朴な道徳感情」というワードは、まさに道徳評価の中に個人の感性的評価を従属してしまった結果、不寛容で悪を正したいという偏った判断に
2.『日本の高校生に対する法教育改革の方向性』から読みとれること<法知識と法意見の乖離>
▼司法・刑事の諸原則・・・法知識:Q3(5)日本国憲法では、被疑者や被告人は取り調べや裁判の時に自分が犯した罪をすべて正直に言わないといけないと定められている。Q3(7)日本国憲法では拷問は禁止されているが、拷問によって得た自白が真実であるなら、その自白を有罪の証拠としてもかまわない。Q3(9)刑事裁判では検察官が被告人の有罪を証拠に基づいて証明しなければならない。
法意見:Q4(10)被疑者・被告人は真実を明らかにするために知っていることを正直に話すべきだと思う。Q4(11)多くの人命にかかわる重大な犯罪が発生しようとしている場合、共犯者と考えられる人に自白を強要してもいいと思う。
▼クロス集計:Q3(5)とQ4(10)・・・黙秘権の法知識vs黙秘権への法意見 ⇒ 知識の正誤にかかわらず黙秘権への否定的な意見を持つものが多い ・影響要素の私見> 道徳観:「信賞必罰」「因果応報」「勧善懲悪」 道徳教育:テーマC<主として集団や社会とのかかわりに関すること>が中心の授業
cf.2006年6月のNHK Eテレ「わくわく授業-わたしの教え方- 「立場をかえて考えてみよう」 ~向井浩二先生(千葉大付属小)の社会科(小4)~:「黙秘権に対し納得できない児童に対し「実は黙ってたら黙ってたで不利になるわけ。ずるいとかうんぬんじゃなくて不利な条件になる」との担当教員の発言に、法と心理学会(第8回研究大会)でのワークショップで(当該ビデオを見ながら)専門家・研究者から「刑事法の原則をちゃんと教えなきゃダメ」と批判。<日本の冤罪の重要なポイントを見過ごしてしまう専門家>
▼クロス集計:Q3(7)とQ4(11)・・・拷問の禁止・自白法則の法知識vs自白の強要の許容に対する法意見 ⇒ 知識の正誤にかかわらず自白の強要を肯定的にとらえる生徒が多い。 ⇒ 多くの生徒が、個人の権利より国家権力による社会の安全・安心の確保を重視していることがわかる。
近代刑事法の原則の成立過程(西洋の司法制度の歴史)を知らずして、タテマエだけを暗記しているため、「なぜ」という探求まで至らない。また、教科書では、日本の法制史をもとに人権の無かった時代から大岡裁きの時代を経て明治期の近代化の記述がほとんど。
cf.西欧的な近代裁判の根源にはキリスト教的思想が色濃く反映され、James Q. Whitman, The Origins of Reasonable Doubt, Yale University Press,2008(合理的な疑いの起源)や森本あんり(現東京女子大学長)の神学的な裁判の意味(隣人に刑罰を科すことへの人間としての自然な躊躇が陪審制度を支えてきた歴史)を全く理解していない法教育の結果である。 ※「陪審員制度の神学」(「キリスト新聞」2008年7月5日号「論壇」)
▼ロジスティック回帰分析では、黙秘権や自白法則における有意な関係性は見られない。ただ、公民科の授業経験と法意見との関連は見出されず、一般的にイメージされる社会科関連授業を受けることが法意見に影響を与えるということはほとんどないと言える。⇒ 公民教育が刑事法の原則(人権保障)を定着させてはいない。
◆法意識(日本文化会議の作成したスケールを参考に設定)投入後のロジスティック回帰分析では、「素朴な道徳感情スケール」(Q7(1)「バチが当たる」、Q7(3)「悪いことをしてもよい」、Q7(7)「人間の良心」)と「厳罰志向スケール」(Q6「無辜の不処罰」、Q7(9)「違反者の必罰」、Q7(10)「厳密な法執行」)の中で、唯一「法意識Q7(1)バチが当たる」が統計上有意な効果をもたらした。すなわち、「悪いことをしたらバチが当たる」と思う生徒ほど「警察による権限の拡大を肯定的にとらえ」、「被疑者・被告人は真実を話すべきである」「重大犯罪発生が迫っている際には共犯者への自白を強要してもよい」と考える傾向にある。「Q7(3)「悪いことをしてもよい」は逆の捉え方をして「法律に違反していなくても悪いことをしてはいけない」と考える生徒ほど「被疑者・被告人は真実を話すべきだ」と考える。「Q7(7)「人間の良心」については「法律によらずとも人は法を遵守するという性善説に基づく人間観を有している生徒は、国家の介入に懐疑的な意見を有しやすい。
厳罰志向スケールについては、刑事法分野の法意見との共通性はイメージ通りで理解しやすい。すなわち、社会秩序のためにある程度疑わしくても有罪にするという意見に近い生徒、あるいは現在の刑罰が甘すぎると考える生徒は、警察による権限の拡大に賛成し、重大犯罪の場合に共犯者に自白を強要することに賛成する傾向にある。
3.教育現場における道徳の内容と法教育の齟齬
このように、日本的な教条的説諭を利用した取り調べはどこからきているのか、一つの可能性として現在の学校現場で特別な教科として毎週1時間年間35回にわたって指導されている「道徳」の検定教科書の内容を調べてみることにする。
「道徳」と言えば従来の伝記や心情主義的な物語指導が主流であったが、国語の指導のような「道徳」の問題性を批判され、教科としての「道徳科」ではより具体的な表現、4つの学習(①「道徳的諸価値についての理解」②「自己を見つめる」③「物事を広い視野から多面的・多角的に考える」④「人間としての生き方を考える」)を通して、3つの力(「道徳的な判断力」「道徳的な心情」「実践意欲と態度」)を育てることとした。つまり、「道徳的実践力」=「道徳的心情」+「道徳的判断力」+「道徳的実践意欲と態度」ということである。道徳教育の内容は4つのテーマ(A~C)とそれに分類できる22項目を学ぶ。具体的には以下である。
<テーマA~D>の内容 A:主に自分自身に関すること(自律性); 1)自主・自律、自由と責任、2)節度・節制、3)向上心・個性の伸長、4)希望と勇気・克己と強い意思、5)真理の探究・創造(小学校低学年では「うそをついたりごまかしたりしない」「あやまちは素直にあらためる」)。 B:主に人とのかかわりに関すること;(和や配慮)6)思いやり・感謝、7)礼儀8)友情・信頼、9)相互理解。 C:主に集団や社会との関わり; (秩序・規範・社会・伝統)10)遵法精神・公徳心、11)公平・公正・社会正義、12)社会参画・公共精神、13)勤労、14)家族愛・家庭生活の充実、15)より良い学校生活・集団生活の充実、16郷土の伝統と文化の尊重・郷土を愛する態度、17)我が国の伝統と文化の尊重・国を愛する態度、18)国際理解・国際貢献。 D:生命や自然、崇高なものとの関わり;(神聖性・自然・生命)19)生命の尊さ、20)自然愛護、21)感動・畏敬の念、22)よりよく生きる喜び」となっている。
教科書各社のテーマ扱いの割合は、C:集団・社会の規律(40%)> A:個人の自律・尊重(20%)であり、社会や集団における和を大切にすべきであることを学ぶことになる。自律を基盤にした個人主義よりも集団の中の立ち位置を重んじる道徳であることが分る。いきおい児童・生徒は、「黙秘し嘘をつく」犯人は悪いと認識し、法教育と称して法務省が学校現場に検察官や裁判官による出張授業を行わせているのに、児童生徒は「ルールを守らない人、罪を認めない人、謝罪をしない人は悪人である」=「黙秘権」「推定無罪」はおかしいと考えるのは当然であろう。(法務省法教育推進協議会(第8回)議事録 平成18年参照:千葉大学教育学部付属小学校の模擬裁判授業 向井2006)
日本の道徳教育の現状を鑑みたときに、すでに法教育の研究者が学校現場の道徳教育と刑事法の原則のギャップ、乖離について前述したように問題を指摘している(「学校における法教育の意義と方法-刑事法の学習に着目して-」小貫篤 2023.8.18 法務省教員向け法教育セミナー基調講演)。
一つの推論ではあるが、橋本らの行った「高校生の法知識と法意見」の分析に出てくるキーワード「素朴な道徳感情」が大きな影響を与えているものと思われる。私の本務大学の「教職実践演習」におけるテーマ研究の一つとして、道徳の教科書の内容を道徳の4つのテーマに分けてどの視点が割かれているページ数で多いかを調べ、その関係性から読み解ける可能性を比較してみたものを示しておく。


Fig.3道徳教育教科書7社の取り扱い比較(神奈川工科大学教職センター 2024)
教科書の扱い比較では,いずれも「C:主として集団や社会とのかかわりに関すること」の扱いが飛びぬけて多いことが分かる。高校生の意識調査(2022,橋本ら)や高校生の法意識調査(2023,小貫篤)の結果における「素朴道徳感情が強い生徒は,刑事司法における人権意識が低い」ことと相関がある可能性が考えられる。

4.法教育が法知識の押し付けやトラブル事例の怖さを植え付ける指導になっている
▼この「公共」教科書ならできる!【眠くならない法分野の授業】 の目次で、3 基礎知識編とテーマ学習によって構成される教科書 の 3.0.0.3 「3 司法と裁判」 https://www.kyoiku-tosho.co.jp/news_list/1745-2/
<DISCUSSION>では、被疑者や被告人に黙秘権が認められている理由を考えます。自分の感覚を大切にして率直に意見を述べるとともに、なぜ憲法が「自己に不利益な供述を強要されない」(第38条①)と定めているのか、クラスメイトとともに話し合ってみてください。 ▼「探求」とは仮説を経験的事実に照らして判断することで一応の完結とする(反証可能性を残している)。⇒ 探究する資料がないために、ただ考えさせっ放しの授業・・・。

5.日本人の道徳スクリプトとの関係との関連 (道徳感情の構成要素)日本人の道徳感はどこから来るのか・・・、子育ての違いによる(文化心理学)
●イソップ童話の日米翻訳の違い

▼日本の翻訳(恩返しの話)
そもそも、誤ってライオンの頭に上ってしまったねずみが目を覚ましたライオンに捕まる。ねずみは無礼を詫び、涙を流してゆるしを請う。かわいそうに思ったライオンは、ねずみを放してやる。深く感謝し、ねずみは去って行く。あるときライオンは罠にかかり、吼え声をあげる。くだんのねずみは、恩返しとばかりにやって来る。網を食いちぎり、かつてライオンに受けた情に応えるのである。かくして百獣の王ライオンとちっぽけなねずみは仲間となるのである。「情けは人のためならず」といったところであろう。
▼アメリカの翻訳(権利主張・対等関係、取引の話)
物語は、仲間のねずみに「ライオンなんか恐くない」と強がる主人公が、ライオンの頭に飛び乗ってみせるという前提。はたして、ねずみはライオンに捕まる。しかし、ねずみは謝るどころか胸を張って「私を放しなさい。そうすれば、いつの日かあなたが困ったときに私が助けてあげよう」と取引を申し出る。ライオンはまともに取り合う気にもならなかったが、ねずみ一匹食しても腹の足しにもならないので放してやる。ねずみは意気揚々と仲間のところに帰って行く。あるときライオンは人間の罠にかかり、吼え声を上げる。ねずみが聞きつけ、かの取引(契約)を果たすために網を食いちぎり救い出す。それからというもの、ライオンはねずみに対し、パートナーとして小さすぎるとは思わなくなったというのである。 「同じアニマルの対等な関係」と言うことか。( 佐藤欣子『取引の社会』中公新書 )
※また、グリム童話初犯版「子どもたちが屠殺ごっこをした話」の銀貨と赤いリンゴ、井原西鶴 本朝桜蔭比事「善悪二つの取物」の人形と小判、子どもに突き出してとらせた結果の判断の違いは面白い
●「道徳スクリプト(物事の善悪の判断)比較研究」(東洋ら)と日米子育て比較調査
日米の大学生対象:(「逐次明確化法」 ) 「ある学生が教師に故意に怪我をさせた」「数学の試験でカンニングをした」という短文を示し、徐々に情報を増やす。その行為の受容可能性を問う
(人間関係の出来事のスクリプトが「悪さ」の評価に及ぼす与える影響)・・・道徳スクリプト研究という
▼米国人:「事実や結果」に関心を寄せる“courtroom metaphor”
▼日本人:「情状や気持ち」に関心を寄せる“family metaphor” (東・唐沢1991、東1994 、東、2002)。
○推測の内容:漠然と「何か理由があるはずだ」といったところから、「よほどひどい扱いをされたのだろう」「性格的にきれやすかった」「けがは軽かった」「当然罰を受けただろう」など
○統計的な想像の傾向: 日本人=同情できる事情を想像する傾向 米国人=同情を排除した想像
△日本人の道徳スクリプト: 「気持ちや人格などの行為者の心理状態について情報を求める傾向が強く、そうした情報が少ない場合には同情的な文脈の存在(ひょっとしたら何かわけがあったのではないか)を漠然と仮定して判断を緩和する傾向が強い」
△その要因:「日米の子育て比較調査」 (情に訴える育て方、しつけ方) 日本人の母親は子どもをしつけるにあたり感情や他人の気持ちを配慮する事、たとえば偏食の子に「何で食べてくれないの、ママ悲しくなっちゃう」「ニンジンさんが食べて欲しいって泣いてるよ」「つくってくれた農家の人のことを考えてね」などが目立つ。 NHK幼児番組「おかあさんといっしょ」 とアメリカ「セサミストリート」を比較してみると分かりやすい。
⇒こうして育った日本人は元来、情に動かされやすい傾向がある。(心情に重きを置く取り調べとの相関。)
※「日本人のしつけと教育 : 発達の日米比較にもとづいて」シリーズ人間の発達, 12 東大出版 1994および『法と心理』第2巻第2号東洋「道徳判断の文化心理学」2002参照)
6.ニッポンの検察官と正義感 (日本の検察の道徳感情の構成要素)D・T・ジョンソン著『アメリカ人の見た日本の検察制度』より

「日本の検察官は犯罪を作り出すこともなくしてしまうことも可能だ」「事実認定が法廷ではなく取調室で行われる」 「日本の検察は、処罰の必要性と矯正可能性についての自己の評価を反映するような罪名を選択する傾向がある」
アメリカ ⇓ 日本
「犯罪にみあう刑罰」の選択 × 「刑罰にみあう犯罪」の選定 〇 (事実認定⇒量刑) (量刑を念頭⇒罪名選定)
★「日本検察の正義観は“Uncommonly Justice”(翻訳「タチの悪い正義観」)」とD・T・ジョンソンは表現
▼「犯罪者を正したい」(矯正)という決意の強さ+「検挙率の高さ」=日本の刑事司法の寛大性(相対的な刑罰の軽さ)
※検察官は犯罪者の矯正可能性(犯罪の重大性と犯罪者の性格の悪質性)を権威主義的に評価する傾向がみられ、その可能性の存する犯罪者(選別された犯罪者)に対しては、「指導」と「寛大性」をもって対応することが多く、指導によって犯罪者に反省と更生を求め、寛大な処置と温情で応えてきた。「指導を通じて犯罪者自身の利益と社会規範に訴え、寛大な対応を通じて自己変革するための時間と機会を与える」。罪の自覚や反省や謝罪をさせるために、被疑者の家族をわざわざ呼んで対面させることがしばしばある・・・。(D・Tジョンソン)

「日本の検察は、捜査段階で膨大な調書を作る伝統がある。刑事訴訟法と裁判官が検察官の自白調書を極めて重視するためである。被告人や証人が公判で供述を変えても対応できるよう有罪に必要な程度を超える多くの調書を取り、ストーリーの補強材料を用意(精密司法)するからだ。「事実認定が法廷ではなく取調室で行われる」証左である。公判で開示しない集めた残りの膨大な資料は杜撰な管理がされ、同一の情報源による多数の調書の矛盾や調書内容が主張の弱点を暴露するものであろうが頓着しない。」と明確に言う。
日本の検察官は、被疑者の更正に尽力する。自白を得ることが前提である。黙秘している者には、より一層の厳しい取調が待っている。被疑者の更正に尽力することは、一見すると良いことのように見える。しかし、被疑者の更正が可能であると前提することからは、マインドコントロールの発想が生まれる。自白を得て改心させるという構造は、江戸時代の大岡裁きに端を発し、戦中に転向を成功させた経験によって強化されたのだろう。自白を取るために、検察に迎合する人間には優しいが、自白をしない人間には強引な捜査が行われる。戦中、共産主義者を獄中で殺してまで、検察機構は多くの追従者を転向させた。この体験は、人間の意思は権力が改造可能であり、また邪悪な人間は思想改造をすべきだ、とすら信じさせたことだろう。更正への信仰は、日本的な土壌と相まって、絶対の悪を生まなかった。そのため、絶対の正義も登場する契機を削がれ、権力にとって都合のいい微温的かつ強権的な取調が実現した。検察が近代的な人権認識に欠けているといっても、それは国民の人権意識の反映であり、人権意識の希薄さは日本人そのものである。道徳的指導と社会規範に訴えることによる取り調べで犯罪者を恥じ入らせ、反省と改善更生を促すという。
日本の検察官は処罰の必要性と矯正可能性についての自分の評価を反映する罪名を選択する。日本の検察官は犯罪を作り出すこともなくしてしまうことも可能だ。事実認定が法廷ではなく取調室で行われるからだ。検察官は犯罪者の矯正可能性(犯罪の重大性と犯罪者の性格の悪質性)を権威主義的に評価する傾向がみられ、その可能性の存する犯罪者に対しては、「指導」と「寛大性」をもって対応することが多く、指導によって犯罪者に反省と更生を求め、寛大な処置と温情で応えてきた。指導を通じて犯罪者自身の利益と社会規範に訴え、寛大な対応を通じて自己変革するための時間と機会を与えるのだ。無罪が少ないのは、検察官が起訴前に事案の真相を解明し証拠の裏付けも十分に収集しているからである。日本の高い有罪率判決の主たる原因が検察官の起訴指針にあるということをたいていの裁判官は認めている。ある裁判官は「私もいくつか無罪判決を下してみたい」と言って残念そうにため息をついた。罪を確認するのは裁判官の仕事だ。その役割を検察官が奪ってしまったのだ。無罪にできるような事件はまず起訴されない。犯罪者の反省と更正に固執し、迎合する者には優しいが否認や黙秘する者には強引な捜査が行われる。検察が人権認識に欠けているのも国民の人権意識の反映か。道徳的指導と社会規範に訴えることで犯罪者を恥じ入らせ、反省と改善更生を促すのだ。疑うことがミッションとはいえ、刑事裁判の裏の重要な原理「人権保障機能」は画餅というしかないだろう。
7.警察の取り調べと推定有罪 (日本の取り調べ官の道徳感情の構成要素)
2006年4月に愛媛県の現職警部のパソコンから(winnyによって)流出した「被疑者取調べ要領」という文書が、日弁連の報告書「資料」として添付されている。これを見ればよくわかる。その一部を以下に紹介する。
▼被疑者取調べ要領 平成13年10月4日 (適性捜査専科生)
1.事前の把握を徹底する 2.被疑者をよく知れ 3.粘りと執念を持って「絶対に落とす」という気迫が必要 4.調べ室に入ったら自供させるまで出るな 5.取調べ中は被疑者から目を離すな (6.~11.省略)
12.被疑者は、できるだけ調べ室に出せ 13.補助官との意思の疎通
元原稿にある詳細では、「否認被疑者は朝から晩まで調べ室に出して調べよ」という指示も含まれている。ちなみに、警察庁は、警察学校の講義のために作成されたものであるが、個人的メモであり、このマニュアルによって全国的な指導をしているわけではないと説明している。
統計では、検察官の起訴率は37%と言われる。警察で検挙されて検察庁に送られた犯罪100件中37件というわけだ。残りの67件は不起訴あるいは起訴猶予となり犯罪と認定されることなく社会へと戻される。日本では否認事件はわずか7.2%程度といわれ、大半は自白事件である。法務省HPの「我が国の刑事司法についてQ&A」には「的確な証拠によって有罪判決が得られる高度の見込みのある場合に初めて起訴する」と説明している。証拠不十分につき不起訴というわけだが、実際は容疑者(被疑者)の罪の自覚・反省、謝罪や贖罪意識が強ければ、さらには示談を示した場合には、凶悪犯罪や重罪以外は不起訴処分となる傾向がみられる。報道でよく聞くフレーズ「不起訴処分の理由は明らかにされていない」ということの背後にはこのような理由が推察される。
日本の検察の「99%を超える有罪率」というのは、起訴された37%の事件が分母となっているので、検挙された犯罪全体からすれば、36.6%(37%×99%)しか刑罰が科せられないということになる。ただ、問題は7.2%の否認事件の中から冤罪が生まれている現実である。しかも裁判員裁判開始以前の通常裁判に頻繁にみられる現象である。裁判員裁判では約36%が否認事件であるためか有罪率は97%と低下する。警察や検察の取り調べにおいては多くの被疑者が自白をしてくれるわけだから、否認をする容疑者を憎々しく思う心理(落としてやる)は当然かもしれない。

8.近代刑事法の原則の起源 (本来、法教育で探求しておくべきこと)
▼人を裁くということの意味 裁判と合理的な疑いの起源(神学的意味)
なぜ「推定無罪」や「拷問禁止」「自白の強要の禁止」や「黙秘権」が原則となったのか?(神の名における裁判(神判) ⇒ 同胞による裁き(陪審制度)へ)
裁判は真実の解明といった神聖なるものではなくむしろ俗なるもの、感情に動かされるものであって、中世の教会懺悔(告解)に起源を持つ。罪を反省し贖罪を語る者には神の許しがあり、否認や嘘をつく者には教会による神判が行われた。被告人や証人が嘘や沈黙すれば神の呪いを受け、民衆による公開の刑罰が下った。刑罰は、毀損された正義を回復するための儀式として民衆が参加した。
拷問や自白強要の根拠
やがて、神判に代わって同胞(陪審員)が裁く。処罰することへの恐れ、裁くことの道徳的責任を負うことに。なぜ市民が裁判に参加を求められたのか。陪審員の本来的任務は犯罪事実の認定ではなく、被告人と同じ社会から選ばれ、隣人として被告人に刑罰を科すことの「道徳的な責任」を担うためであった。
その歴史的所産が「合理的な疑い」という法律用語だ。もともと「神学」に由来し、陪審員を守るためのものであった。中世キリスト教の伝統では、罪のないものを罪人に定めることは大罪とされ、「人を裁くな。自らが裁かれないために」(マタイ福音書7・1)と警告されていた。トマス・アキナスは「冤罪が起きた時の責任は、判事ではなく陪審員にある」と書いている。
したがって、陪審員は自らの魂の救いを危機にさらされないために、隣人の断罪に際して「合理的な疑問の余地がない」ことを確認する必要があった。ゆえに評決にはコモンローの伝統にもとづいて陪審員の全員一致が求められた。有罪宣告を困難にして被告人を守るためではない。隣人を罪に貶める陪審員の道徳的責任を全員で共有するためであった。たとえ事実認定上疑問がない場合でも、隣人に刑罰を科すことへの人間としての自然な躊躇が陪審制度を支えてきたのである(James Q. Whitman, The Origins of Reasonable Doubt, Yale University Press,2008)。高倉新喜「合理的な疑いの起源」,アメリカ法,2009(2) 353-357,2010年、また フェルナンダ・ビリー『法の人類史』高里ひろ翻訳 河出書房新社 pp.211-221 2024年にも同様の説明がある。
▼人を裁くということの意味② 裁判と合理的な疑いの起源
陪審員をなだめ、励まし、克服させる緩和措置として生まれたものが「合理的な疑いを超える証明」なのであった。それゆえ、Guilty と断定できないならばNot Guilty としてよい。裁く側の恐れ、躊躇といった心理的不安から生まれた神学的な制度であったのだ。この原則はまた、供述を強要していた裁く側の特権(自白のための拷問)をも禁じ、裁かれる側の道義的責任を問うことにもなった。被告人に対して偽証罪や証言拒否罪の制裁を加えることによる供述を強要していた特権を禁じることで、裁く側(陪審)のミスジャッジの防止の担保に資するいっぽうで、裁かれる側(被告人)の道義的責任(真実を告白する)を果たさせる結果につながったのである。
(森本あんり 「陪審員制度の神学」:「キリスト新聞」2008年7月5日号「論壇」)。

▼拷問・自白の強要 ✕ ⇒ 「自己負罪拒否特権」「黙秘権」へと進化 「真実を語るかどうかは被告人の道徳的責任」 検察: 時間&場所、調書の主導(取り調べ受忍義務) ⇒ 道徳で責める
※日本でも1928年~1940年の間に陪審制が行われ、無罪率の全国平均は16.7%であった。横浜地裁では34.3%、東京地裁でも17.2%であったデータが残っている。驚くことに仙台地裁は64.7%が無罪になったとの資料が残っている。(朝日新聞 企画特集 3【神奈川の記憶】(113)相次いだ「人権蹂躙事件」〈下〉) http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20180528150280001.html下のグラフは、「省察 刑事訴訟法―歴史から学ぶ構造と本質」 WEB資料 刑事裁判統計:

以上
最後に、授業で使う法教育のネタです。

もちろん、一番太い索引は「会社法」で、2番目に太いのが「民法」、一番細いのが「刑法」です。
日本は、会社・企業に関するルールがものすごく多くて、次に市民社会のルール、犯罪と刑罰に関する法律は264条しかありません。日本はとても治安のよい、経済活動が活発な国であり、市民トラブルにはルールにのっとって対応できる民主的な国であることがわかります・・・。
これも、ささやかな「データ・サイエンス」です。言語技術教育の中の一つ「クリティカル・シンキング」の力を高める手法です。
▼リーガルマインドは、イマジネーションとバランスが基盤にあります。自分の周り1mだけで生きるのではなく、周囲との関係や相手の立場も考える必要があります。ただ、自分をしっかり持つことがまず重要です。そして、相手との関係やこの状況はどこから生起したのかを考えてみれば、ものごとを俯瞰的にみることが出来ます。そうしたとき、自ずとバランスがいいのか悪いのかを感じることができるのです。
法を学ぶ人は、必ずこの「イマジネーション」&「バランス」を念頭において考えてみると、どんなトラブルや対立関係もこうあるべきなんだろうなーと見えてきますよ。お試しを・・・。
