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消しゴムの噓

2026年7月3日 424日目
誤字を消しゴムで消す。

子どもの頃からの、ただそれだけの儀式だ。
角を使って、丁寧に、力を入れすぎないように。
消しゴムのカスは机の隅で、いつのまにか小さな山になっている。
捨てても捨てても、また積もる。
紙を光にかざすと、消したはずの文字の窪みが、うっすらと浮かび上がっている。
誰もが知っていて、誰も声に出して言わない、小さな噓。


まず、円の話をする。
実質実効為替レートで見ると、日本円の買う力はこの40年でほぼ半分になった。
数字の表示は変わらないのに、同じ千円札で買えるものが静かに減っていく。

次に、香港に目を向ける。
禁書を扱った書店の店主だった林栄基さんが、台北で亡くなった。
中国当局に拘束され、書店を閉じられ、それでも台湾で同じ書店をもう一度開いた人だった。

最後に、サッカーへ移る。
ワールドカップの試合終盤、クロアチアが決めたはずの同点ゴールが、センサーの反応するわずか一点の接触によって、オフサイドとして取り消された。
肉眼では誰も見ていない、頭のすぐそばを通過した何かをボールが感知したのだという。
正確さというのは、時々、ちょっとだけ意地悪だ。


三つとも、一度たしかにあったものが、あとから「なかったこと」にされていく話だ。
取り消しとは、なかったことにする作業ではない。
見えなくする作業だ。

ブランドも同じだ。
一晩のアルゴリズムの気まぐれで、何年もかけて積み上げてきた信用が、なかったことにされる。
取り消しているのは、人間ではなく仕組みの方だ。

相場も、当局の審査も、VARの判定も、恣意を排除するための仕組みとして生まれた。
そういうものらしい、と僕は思うことにしている。
なのに、その仕組み自体がいちばん恣意的な暴力になる瞬間がある。


ジョージ・オーウェルは『1984』で、都合の悪い記録を丸ごと消し去る「記憶の穴」という装置を描いた。
行動経済学でいうサンクコストにも、似た匂いがある。

鴨長明は『方丈記』で、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、と書いた。
すべては流れ、留まらない。
取り消しに抗うことにも、取り消しを受け入れることにも、等しく意味がないという場所まで、思想は行き着ける。
行き着いたところで、僕は結局、机の上の消しゴムのカスを手のひらで払い集めている。

けれど林栄基さんは、書店をもう一度開いた。
取り消されても、同じ場所に戻り、また同じ本を並べた。
サンゴが死んでなお白い骨格の形を残すように、彼の生涯の輪郭は消えなかった。

クロアチアの一点は、たしかに取り消されて終わった。
そこに人の意志が介在する余地はなかった。
同じ「取り消し」という言葉を使いながら、二つの出来事はまるで違う場所に立っている。

僕は、取り消されたあとに何をするかだけが、その人の値打ちを決めると思っている。


紙を光にかざせば、消したはずの文字はいつも、ちゃんとそこにいる。
紙というのは、案外、誠実な密告者だ。
書類を出す前に、僕はもう一度、その窪みを指でなぞってみる。

指先に、まだ消しカスがついている。
消しゴムは、噓が下手だ。


出典:
・円の「買う力」40年で半分程度に(読売新聞)/2026年7月3日
・銅鑼湾書店の林栄基さん死去 香港で禁書扱った元書店主(共同通信)/2026年7月3日
・クロアチア「幻の劇的弾」が波紋(東京スポーツ/THE ANSWER)/2026年7月3日

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