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東三河・奥三河ダム紀行      ―目的の異なる4基が同じ地域に集積する理由

1. はじめに

実家のある愛知への帰省の途中、少し寄り道をして4つのダムを巡った。
宇連ダム、新豊根ダム、黒田ダム、矢作ダム。
今回はバイクではなく車での移動だったが、目的地に迷わないという点ではダムカード収集の効用は変わらない。

ただ、今回は単なる収集記録として終わらせるにはもったいない組み合わせだった。
4基を並べて眺めてみると、型式もばらばら、管理者もばらばら、そもそも「何のために造られたか」という目的自体がばらばらなのである。同じ三河の山間部という比較的近いエリアに、これほど性格の異なるダムが集積しているのはなぜなのか。
今回はその違和感を出発点に、4基それぞれの成り立ちを整理してみたい。


2. 4基の基礎データ

こうして並べると、同じ「ダム」という一語でくくられていても、実態はまったく異なる4種類の構造物であることが見えてくる。
所在地を見ると宇連ダムは東三河、新豊根ダムは奥三河、黒田ダムと矢作ダムは西三河の豊田市に位置しており、地理区分としては東三河・奥三河・西三河にまたがる旅程だったことになる。


3. 目的別に読み解く

利水ダムとしての宇連ダム、そして水系をまたぐ取水

宇連ダム

宇連ダムの起点は、戦後間もない1949年に始まった国営事業「豊川用水」にある。
当時の東三河、とりわけ渥美半島方面は慢性的な旱魃に悩まされていた地域だった。
宇連ダムはその水がめとして1958年に完成し、以後かんがい用水・上水道・工業用水を渥美半島まで送り続けている。

ここで見落とせないのが、宇連ダムが単に豊川の水を貯めているだけの施設ではないという点だ。
水資源機構自身が技術的特徴として挙げているように、宇連ダムには天竜川水系(大入川・大千瀬川)から豊川水系(宇連川)へと水を引き込む流域変更が組み込まれている。
つまりこのダムは、一つの水系の中で完結する施設ではなく、隣接する水系の水まで動員して豊川用水を成立させる施設なのである。
降水量に乏しい地域で利水を成り立たせるために、行政上の水系区分を越えて水を融通するという発想そのものが、地形的制約への一つの回答になっている。

なお宇連ダムには、治水を目的としない利水ダムであることに関連して、もう一つ特徴的な設備がある。
高さ48mの6段式となっている巨大な表面取水設備で、ダム湖の水をそのまま下流に流すのではなく、水温などに配慮して取水段を選べる冷水対策の設備である。天端から見上げるとその規模がよくわかる。

目的が後から付加された新豊根ダム

新豊根ダム

4基の中でもっとも構造的に興味深いのが新豊根ダムだ。
当初、電源開発(J-POWER)が計画したのは発電専用ダムだった。
1962年に調査着手、1968年に建設着手し、佐久間ダムとの間で揚水発電を行う構想である。

ところが建設途中の1968年・69年、天竜川流域は相次いで大出水に見舞われた。
支流の大千瀬川では堤防決壊、国鉄飯田線の鉄橋流出という大規模な被害が出ている。
この災害を受け、建設省(現国交省)は新豊根ダムに治水参加の方針を固め、当初計画より堤高を4m嵩上げした上で、1973年、治水・発電の多目的ダムとして完成した。
現在も国交省とJ-POWERの共同管理という体制が続いている。

当初の発電専用計画に、建設途中の大水害を契機として治水機能が組み込まれた、政策目的の変更・追加の事例と見ることができる。

上部・中間・下部調整池としての黒田ダムと矢作ダム

黒田ダム
矢作ダム

黒田ダムと矢作ダムは、単体では語れない関係にある。
両者は中部電力の揚水式水力発電システムの一部であり、黒田ダムを上部調整池、富永ダムを中間調整池、矢作ダムを下部調整池として、奥矢作第一・第二という2つの揚水発電所を組み合わせた大規模な発電システムを構成している。
合計出力は109万5000kWで、矢作川水系最大の水力発電所である。

黒田ダムの起源は古く、1930年に矢作水力が黒田川をせき止める計画に着手し、1932年に建設されたのが最初のダムだった。
その後、1932年に建設された旧黒田ダムを基礎として、1970年代に再開発が進められ、1980年に現在の黒田ダムが完成した。
同年9月には奥矢作第一・第二発電所の1号機が運転を開始している。

一方の矢作ダムは国交省が管理する多目的ダムで、洪水調節、流水の正常な機能の維持、かんがい、上水道、工業用水、発電という多様な目的を担っている(この目的の組み合わせはF・N・A・W・I・Pという記号で表されることが多い)。

同じ水系にありながら、片方は電力会社が管理する発電専用の揚水池、もう片方は国が管理する多目的ダムという、管理主体も目的も異なる2基が、実務上は一体の発電システムとして機能している。ダム便覧やダムマニアサイトの解説を読まなければ、この「セット構造」には気づきにくい。


4. なぜ同じ地域に、これほど異なる時代のインフラが積み重なっているのか

ここまでの整理を踏まえると、単に「4基の目的が異なる」というより、もう一段深い問いが見えてくる。
なぜ同じ三河の山間地域に、これほど異なる時代の水・電力政策が積み重なっているのか、という問いだ。

第一に、地形と水系の制約である。
東三河・奥三河・西三河の山間部は急峻な河川が多く、水量が不安定になりやすい一方、渥美半島のような平野部は水源に乏しく慢性的な水不足に悩まされてきた。
この地形的制約が、宇連ダムのような水系をまたぐ利水事業を要請した。

第二に、時代ごとの政策要請の積み重ねである。
黒田ダムは戦前の民間電力事業として始まり、宇連ダムは戦後復興期の国営利水事業として、新豊根ダムは高度成長期の発電需要と水害対策の両方を背負って、矢作ダムは戦後の総合開発として、それぞれ異なる時代の異なる政策要請のもとに計画されている。同じ地域であっても、ダムが造られた時代が違えば、その時代がダムに求めた役割も違う。

第三に、異なる主体が造った施設が、結果として一つの地域インフラとして結びついているという点である。
国交省、J-POWER、水資源機構、中部電力という、異なる目的と論理で動く4つの主体が、それぞれ別の時期に別の理由でダムを造った。
ところがその結果、黒田・富永・矢作という発電システムのように、異なる管理主体の施設が実務上は一体となって機能する事例も生まれている。
この地域のダム群も、単一の巨大インフラですべてを担わせるのではなく、異なる目的を持つ複数の施設を組み合わせることで、地域全体の水資源・電力需要に対応してきたと言えそうだ。

宇連ダムは水系をまたいで水を融通する施設へ、新豊根ダムは発電専用から治水・発電の多目的ダムへ、黒田ダムは戦前の発電池から揚水発電の上部調整池へと、いずれも当初の姿から役割を変えながら現在に至っている。
インフラの目的は一度決まったら固定されるものではなく、地形の制約と時代の要求を受けて、後から書き換えられていくものなのだと、4基を並べてみて改めて感じた。


5. 今後の課題―水没史・補償史への接続

今回はダムの型式・目的という技術面と沿革を中心に整理したが、当初関心を持っていたもう一つの軸、すなわちダム建設に伴う地域住民の水没・移転・補償の歴史については、現地での資料収集が不足しており、今回の記事では十分に触れられなかった。

宇連ダムのダム湖畔にどのような集落があったのか、黒田ダムの再開発に際してどのような補償交渉があったのか。
これらは現地の資料館や郷土史資料にあたらなければ見えてこない部分であり、次回訪問時、あるいは別途文献調査を行った上で続編として書き足したいテーマである。


6. おわりに

一つの地域を巡ることは、その地域の近現代史を凝縮して辿ることでもある。
戦後の旱魃対策、高度成長期の水害と発電需要、電力会社と国の役割分担――東三河から奥三河、西三河にかけての山間地域に、これほど異なる時代の異なる論理が積み重なっているとは、ダムカードを集め始める前には想像していなかった。

次は水系そのものを一本の線として追ってみたい。
矢作川を上流から河口まで通しで見るか、あるいは豊川水系全体を辿るか。いずれにせよ、ダムは「訪問して終わり」の対象ではなく、そこに至るまでの政策と地域の歴史を読み解く入り口として、しばらく興味の尽きないテーマになりそうだ。

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