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(29)丸の内へ進出…?/あきれたぼういず活動記

(前回のあらすじ)
あきれたぼういずを擁する吉本ショウは浅草を離れ、名古屋・京都で公演。この経験が、あきれたぼういずをさらに成長させることとなった。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【移籍のウワサ】

この地方公演と前後して、あきれたぼういずに松竹への移籍の話があったことは、あまり知られていない。
後のあきれたぼういずの動向に繋がる部分もあり、なかなか興味深い出来事なのでここでまとめておきたい。

まず、4月20日の都新聞(演芸一皿料理・芸界トピック)には、早くもあきれたぼういず引き抜きの噂が出ている。

◆……浅草の「あきれたボーイス」を千両積んで引抜かんとする会社あり、「あきれたボーイス」四人で千両、安いものなり、安けれど引抜かれる程になった彼らは芽が出たというべきか、然れどもやはり野におけ蓮華草! 「あきれたボーイス」はエンコで暴れている方が一番生気溌剌としてよからん

都新聞/1938年4月20日

【松竹楽劇団への誘い】

この噂との繋がりは不明だが、秋には松竹への移籍が決まったと報じられている。
記事を見ていくと、話自体は7月末頃から進んでいたようなので、京都公演の直後である。

 呆れたボーイズ松竹楽劇団へ加入

 浅草の花月劇場で「あきれたボーイズ」として異彩を放っている川田義雄、坊屋三郎、益田喜頓、芝利英の四人は、それぞれ本年十一月及び来年六月で吉本興業との契約が切れるが、今度新らたに吉本との契約期間満了後向う一ヶ年、松竹楽劇団との契約を結んだ、従ってこの四人は遅くも本年末迄には丸の内に進出、帝劇の舞台に立って、楽劇団のショウに出演することになろう …(略)

都新聞/1938年9月21日

松竹楽劇団はこの年の春に新しくできたレヴュー団で、吉本ショウで活躍していたダンサーの中川三郎は吉本ショウを離れてこの劇団の旗上げメンバーに加わっている。
ほかに松竹歌劇団出身の笠置シヅ子、小倉みね子、天草美登里、春野八重子、秋月惠美子などが参加。
丸の内の帝国劇場を拠点にしていた。

記事によれば、松竹楽劇団の宣伝課長が坊屋と知り合いで、その関係で浅草花月劇場の舞台を時折観に来ていたそうだ。
立ち上げたばかりの松竹楽劇団では、帝国劇場の観客のニーズに合った、音楽的な芸人を求めていた。

7月末頃、東京会館にあきれたぼういず四人を集めた宣伝課長らは、移籍と帝劇出演の話を持ちかけた。
四人は「ぜひ丸の内でショウに出たい」とこれに賛成。
浅草から丸の内へ、榎本健一や古川ロッパの通った出世街道をあきれたぼういずも夢みたのだ。

そして川田はさっそく、このことを吉本興業社長の林正之助に打ち明けた。
俳優や芸人の引き抜きが問題になっていた時期でもあり、双方ともあくまで正式に話し合った上で移籍を取り決める姿勢であった。
吉本側との交渉も8月末にはまとまり、四人は無事、松竹へ移籍の契約を結んだ。

ただし移籍の時期については、川田の意見でしばらく待つこととなる。
このときちょうど、吉本興業・東京支社長の林弘高が渡米中だったからだ。

 ところが川田は「我々は何時も四人で団結していなければならない、この問題に就いては東京の社長林弘高氏が目下渡米中だから、留守中には吉本を去りにくい是非林氏と相談の上円満に話をつけよう」と申出て大阪の林正之助氏も、松竹側もこれに賛意、兎に角吉本興業との契約終了後の松竹との契約だけを四人共に結んだ訳である、

都新聞/1938年9月21日

林弘高は吉本ショウの前身「グラン・テッカール」の旗上げから尽力してきて、ショウの面々には「オヤジ氏」と慕われていた人物である。
移籍は彼の帰国を待ってからにしたいというのが川田の考えで、皆もそれに同意した。

【林弘高の帰国】

ところが、いざ林弘高が帰国してみると、事態は一変。

 呆れたボーイズ
 当分板挟み
 松竹楽劇団入り停頓

 浅草花月劇場の呆れたボーイズが松竹楽劇団に買われて、丸の内に出るようになった事は当時既報したが、…(中略)…さて先月末林氏が帰朝してからは、全然ボーイズ連中の意思に反した事態となり遂に彼等の松竹楽劇団入りはひとまず不可能となるに至った
 即ち帰朝した支社長は、まず呆れたボーイズ転身の事を聞くや即座にこれに反対し、楽劇団当事者と折衝の結果、川田を除く他の三人の坊屋三郎、益田喜頓、芝利英等が松竹と契約当時に受取った金も自からの手より無理に楽劇団側に返して、手続上には未済の事項も残っているが、実質上には、さきに交された契約は有名無実のものとなるに至ったのである …(後略)

都新聞/1938年11月9日

林は松竹との契約の話を白紙に戻してしまった。
都新聞はその強引とも思えるやり方を非難して、あきれたぼういずに同情するような書き方をしている。
ただ、林の立場になってみれば、自身が育ててきた吉本ショウの中からようやく生まれたスターをみすみす松竹に奪われるわけにはいかない、という気持ちはわかる。

吉本側では「彼等の希望の丸の内進出は自分の方の手で実現すべく、日劇出演などを目論んでいる」というが、まだ具体的な話までは進んでいないようだ。
一方あきれたぼういず達は、「全く当初の希望を棄たものでなく、」「僕達や松竹楽劇団の気持は変る事なく予定よりは遅れても実現はする積りでいます」と述べている。
しかし結局、この松竹楽劇団入りが実現することはなかった。

このときの計画らしいことについて、のちの座談会で益田が少し触れている。

 益田  今だから話すけどね。そのころ帝劇の話もあったんですよ。大阪からきた笠置のオバチャン(シズ子)、まだオバチャンぢゃあなかったけれど(笑)中川三郎と「あきれたぼういず」であける計画があった。いろんな事情で一切だめになっちゃった。
 野口(久光)  フーン、それは知らなかった。
 益田  そりゃあ大変だったですよ。つまり演出まで考えてたんだから。出る時普通のところから出ちゃだめだ。二階の来賓席からロープでダーッと出る。まるでサーカス。(笑)
 上山(敬三)  それはいいねえ。日本一の帝劇で威勢のいいことをやる。
 野口  やらせたかったね、戦争最中に……。

「オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」座談会

その後もあきれたぼういずは今まで通り浅草花月劇場を拠点に吉本興業で活動を続けることになり、このときの移籍騒ぎがのちに語られることはほとんどなかった。
しかし、この出来事が、後の大騒動に発展していく小さなヒビとなっている……そんな気がしてならない。


【参考文献】
都新聞/都新聞社
「座談会・オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」益田喜頓・坊屋三郎・野口久光・上山敬三/LPレコード「珍カルメン・オリジナルあきれたぼういず」/ビクター音楽産業株式会社/1964


(次回8/27更新予定)初レコーディング!

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