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中高年の恋愛事情(18禁)ショートストーリー『家庭の事情』阿乱

『家庭の事情』


1  助手席の百合香さん

「気をつけて。楽しんできてね」。
 早朝、まだ街が眠りについたままの時間帯に、妻と息子夫婦が玄関先まで出てきてくれた。湯気の立つマグカップを片手に笑顔で手を振る妻の姿に、いまだ罪悪感が胸の奥にわずかに疼く。けれど、それを振り切るように車を走らせる。六十五でリタイヤしてからは、自由に使える時間が増え、趣味として温泉巡りを楽しむようになっていた。
 町外れにあるマンションの前に車を寄せると、すでに百合香さんが待っていた。淡いグレーのワンピースに白いカーディガンを羽織り、足元は低めのヒール。小さな旅行カバンを片手にしている。若々しいというより、年齢にふさわしい落ち着きがありながら、どこか華やかさを感じさせる佇まいだ。
 助手席に乗り込むと、ふっと花の香りが車内に広がる。リップの薄い艶が陽の光を受けてきらめいたかと思うと、自然に頬を寄せ、軽く唇を重ねてきた。
「よく似合うね、その服」
 思わずそう口にしながら、ハンドルを握る手とは逆の手が、彼女の太ももに触れてしまう。なめらかで温かい感触。すると、百合香さんは小さく肩をすくめて笑い、わざとらしく囁いた。
「安全運転でお願いします」
 念を押すその声は甘く、次の瞬間には彼女の指先が私の股間をまさぐっていた。熟れた果実にそっと爪を立てるような、からかうような触れ方。思わず息が荒くなる。
 彼女はもちろん、妻ではない。還暦を過ぎたばかりの未亡人であり、しかも妻の友人だ。世間から見れば許されざる関係。だが、私にとっては「救い」でもあった。

 経緯を語ればこうだ。若い頃から精力が強く、歳を重ねても衰えるどころか、むしろ体の芯から湧き上がる欲望は健在だった。一方で妻は、閉経を境にセックスを避けるようになり、最初は潤滑剤や工夫を試したが、それも長くは続かなかった。ベッドを共にすることさえ拒まれるようになり、私は次第に苛立ちを募らせ、家庭の空気は重く淀んでいった。
 だが、離婚までは考えなかった。互いにそれなりの人生を共にしてきたという重みがあり、生活を壊すつもりはなかったのだ。そうした行き詰まりの中で、妻が口にしたのが、百合香さんの存在だった。
 「……あなたに合うと思うの」
 最初は冗談かと思った。だが妻は真剣で、昔からの友人である百合香さんが、夫の暴力に苦しみ、未亡人となってからは結婚などもう望まない、と語っていたことを話してくれた。しかも彼女は、猥談を好むほど性に対してオープンで、私の欲求を受け止められるだろうと。
 戸惑いはあったが、妻の段取りで最初の逢瀬が実現した。人目のない街のホテル。そこで一度肌を重ねると、理屈よりも先に身体が覚えてしまった。以来、私たちは定期的に温泉旅行を口実に、夫婦のように寄り添う時間を過ごすようになったのだ。妻にとっても、私が苛立ちを家庭に持ち込まずに済むなら、そのほうが良いという算段だったのだろう。

 高速道路を降り、山間の道を抜けたところで、人気のない側道に車を停めた。木々の間から朝日が差し込み、車内に柔らかな陰影を落としている。百合香さんは、シートベルトを外すと、迷いなく私の膝に手を置き、ズボンのチャックを下ろした。
 膨らみ始めた欲望を取り出すと、そのまま唇に含む。舌先が絡み、喉の奥へと押し込まれていく感触に、全身が痺れる。彼女は器用に呼吸を整えながら、ただ私が果てるまでその行為を続けてくれる。長年の夫婦でも、なかなかここまで徹底した奉仕はない。
 視界が霞み、意識が夢うつつに溶けていく。やがて、堪えきれずに深い衝動を解き放つと、白濁が彼女の口内に広がった。喉を鳴らして飲み干す仕草が艶やかで、百合香さんは口角を拭いながら、いたずらっぽく笑った。
「今日も元気ね」
 その一言に、羞恥と誇らしさが同時に湧き起こる。六十五という年齢にもかかわらず、こうしてなお欲望を分かち合える自分と、それを受け止めてくれる彼女がいる。背徳の影は消えることはないが、背後に妻の存在を感じるたび、それすら家庭の一部の事情として組み込まれているのだと思う。

 私は再びハンドルを握り、百合香さんはシートを倒して微笑んだ。温泉宿までは、まだ半日の道のりが残っている。旅は始まったばかりだった。

2  山間の温泉宿

 宿に到着したのは昼前だった。山間の小さな温泉地。川沿いに建つ老舗旅館は、木の香りが漂い、静かな佇まいをしていた。玄関で出迎えた女将が「ご夫婦でいらっしゃいますか」と尋ねると、百合香さんは自然に頷き、私の腕に軽く手を添えた。その仕草だけで、まるで本当に夫婦になったような錯覚を覚える。

 通された部屋は、障子越しに庭の緑が映える広い和室だった。荷を下ろすと、さっそく仲居が昼食の準備に取り掛かる。山菜の天ぷら、川魚の塩焼き、地酒。長旅の疲れを癒やすように二人で盃を重ね、百合香さんの頬がほんのり桜色に染まっていく。
 「温泉、楽しみね」
 彼女がそう囁くと、胸の奥が高鳴った。
 浴衣に着替えて大浴場に向かう。幸い客は少なく、湯気に包まれた湯船は静かに湯音だけを響かせている。私は男湯、彼女は女湯。しばし別れて、それぞれ湯に身を沈めた。
 熱すぎず、柔らかな湯が肌を包み、思わず目を閉じる。だが、心の奥ではすぐ隣の女湯にいる百合香さんを思い描いてしまう。白い肌を湯に沈め、濡れた髪をうなじに張り付かせる姿。想像するだけで、再び欲望が疼き出す。
 部屋に戻ると、百合香さんはすでに浴衣姿で待っていた。ゆるく結んだ帯からは、胸元がわずかにはだけ、濡れた髪の香りが漂う。
「やっぱり温泉はいいわね」
 そう言って座布団に腰を下ろす仕草に、浴衣の裾から白い膝がのぞいた。視線を奪われた私を見て、彼女はわざと帯をゆるめる。
 私は堪えきれず、隣に座り込むと、彼女の肩を抱き寄せた。唇を重ね、舌を絡め、浴衣の合わせ目に手を差し入れる。湯で温まった肌は火照り、触れるごとに彼女の吐息が熱を帯びる。
 「待ってたのよ」
 耳元で囁かれ、理性の糸が音を立てて切れる。布一枚隔てた身体は、すぐに裸よりも生々しく感じられた。

 その後、時間を忘れるほどに、私たちは互いを貪り合った。襖の向こうに広がる庭の緑と蝉の声さえ、遠く霞んでいく。
 やがて、汗と湯気に濡れた肌を重ねながら、私は二度目の昂ぶりを果たす。百合香さんは背を震わせ、爪を私の肩に深く立てた。その痕が残ることさえ、今は愛おしい。
 ひとしきり乱れたあと、並んで畳に横たわり、障子越しの光を眺める。百合香さんは髪をかき上げながら、微笑んで言った。
「こんなに解放された気持ちになるなんて、昔の私じゃ考えられなかったわ」
 背徳と安らぎ、その両方が胸に広がっていく。家庭では決して得られない、しかし家庭があるからこそ許された、この奇妙で甘美な関係。私は彼女の肩を抱き寄せ、そっと目を閉じた。

3  家庭は家庭

 翌朝、宿の窓から差し込む朝日で目を覚ました。障子を透かして入る光は柔らかく、畳に散った浴衣や帯が、昨夜の熱をそのまま物語っている。隣では百合香さんが静かに寝息を立てていた。乱れた髪が頬にかかり、白い肩が半ば露わになっている。彼女の横顔を眺めながら、ふと胸の奥に複雑な感情が湧き起こった。
 ――これは不倫なのか、それとも妻の了解を得た延長線上なのか。
 答えは曖昧なままだ。だが、彼女の温もりが確かに自分を満たしていることだけは、否定できなかった。
 帰り支度を整え、宿を出た。山道を抜け、車は再び高速道路へ。助手席の百合香さんは、昨日よりも穏やかな表情をしていた。
「こうして旅に出ると、私まで生き返ったみたい」
 笑顔でそう言う彼女に、私は小さく頷いた。互いに必要としているものは違う。私は欲望を、彼女は解放を。その利害が一致したからこそ、この関係は成り立っているのだろう。
 昼過ぎ、町外れのマンション前に車を停めた。降り際、百合香さんはいつものように軽く唇を重ね、「またね」とだけ言った。別れの仕草はあっさりしているのに、不思議と余韻が長く残る。

 夕方、自宅に戻ると、玄関から妻が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。楽しめた?」
 その笑顔は何も知らないようで、すべてを知っているようでもあった。私は一瞬ためらったが、「ああ、いい湯だったよ」とだけ答える。妻はそれ以上追及せず、夕飯の準備に戻っていった。
 食卓には、煮物や味噌汁が並び、いつもの家庭の匂いが漂っている。息子夫婦も交えての何気ない会話。笑い声が響く中で、私はふと昼間の出来事を思い返した。百合香さんの吐息、湯気に濡れた肌、囁いた言葉――それらすべてが現実でありながら、ここでは影も形もない。
 だが、それでいいのだと思う。家庭は家庭として守られ、欲望は別の場所で発散する。背徳を抱えたまま、私はこの二重の生活を続けていくのだろう。
 茶碗を置き、ふと妻と目が合った。ほんのわずかに視線が交わる。その奥に、理解と諦め、そしてかすかな安堵が見えた気がした。
 私は小さく息を吐き、湯気の立つ味噌汁を口に運んだ。
 ――これもまた、家庭の事情。

4  妻の視点

 夫が車で出かけていく背中を見送りながら、私は湯気の立つマグカップを両手で抱えていた。息子夫婦もまだ眠そうに手を振り、玄関先はひととき和やかな空気に包まれる。
 けれど胸の奥には、針のように細い痛みが残っていた。
 ――あの車の助手席には、きっと百合香が座っている。
 私の古い友人。何でも話せる相手であり、苦しい結婚生活を耐えてきた彼女の相談を、私は何度も聞いてきた。だからこそ信じられる。だからこそ託した。
 夫のことを。
 最初は自分の口から「百合香さんに」と言ったとき、自分でも耳を疑った。正気ではないと思った。
 でも、私にはもう無理だったのだ。身体は応えられず、夫の苛立ちは日ごと募る。愛しているのに触れられることが恐怖になり、寝室さえ別にした。あのとき、何度も「離婚」の二文字が脳裏をよぎった。けれど、それだけは避けたかった。長年の生活、子や孫のため、そして何より、夫と過ごした時間を無にしたくなかった。
 夫は精力が強すぎる。若いころからそうだった。女として幸せだと思った時期もあったが、閉経を迎えてからは、ただ苦痛だった。
 だから私は考えた。――誰かに委ねるしかないのだと。
 その相手が百合香だったのは、偶然ではなかった。彼女もまた、男に苦しめられ、けれど性に関してはどこか飄々と受け入れている。そんな彼女なら、夫を受け止められる。
 「裏切り」ではない。
 そう言い聞かせてきた。むしろ「共有」。私たち三人だけの、奇妙な取り決め。
 けれど、夫が旅に出るたび、胸がざわつくのも事実だった。友人に夫を預ける――その事実に、女としての自尊心は何度も揺さぶられる。嫉妬と安堵が、入り混じった感情となって。
 夕方、夫が帰宅する。
 「おかえりなさい」
 微笑んで迎えると、夫は「いい湯だったよ」とだけ答えた。表情には、どこか充足した影が宿っていた。私はそれ以上追及しない。する必要もない。
 夕餉の席で、夫はいつもより穏やかに、息子夫婦の話に耳を傾けている。その横顔を見ながら、私はそっと胸の奥で呟いた。
 ――これでいい。これが、私たちのかたち。
 もちろん、永遠に続くとは限らない。いつか破綻するかもしれない。けれど今は、この均衡の上で家庭が成り立っているのだ。
 そして私は、夫の隣で静かに箸を動かしながら、あの日決めた覚悟を胸の奥で改めて噛みしめていた。
 ――これもまた、家庭の事情。

5  百合香の視点

 助手席に腰を下ろすと、運転席の彼が軽く微笑んだ。少し照れたように「よく似合うね」と言い、私の太ももに手を伸ばしてくる。
 ――まったく、年を重ねても男っていうのは。
 そんな風に心の中で笑いながら、私はわざと彼の股間に指を這わせた。安全運転、なんて口にしつつ、すでに自分の身体も高ぶっているのを感じていた。
 この関係が始まったとき、正直言えば戸惑いはあった。親しい友人の夫と寝るなんて、普通なら許されない。けれど、彼女――つまり妻にあたる人が、最初に口を開いたのだ。
 「お願いできないかしら」
 そのときの彼女の目は、苦しみと諦めと、そして微かな祈りが入り混じっていた。私は理解した。彼が強すぎる性欲を持ち、それに応じられないことに悩んでいることを。
 私自身、かつての夫から暴力を受け続けてきた。愛なんてなかった。ただ耐えるだけの日々。だからこそ、男と交わること自体を憎んでもおかしくなかったはずだ。
 でも、私はそうならなかった。むしろ、自由になった今、女として生きていることを実感したいと願った。肌を重ねることは、私にとって解放だった。
 彼との関係は、その延長線上にある。
 彼の欲望は強い。でも、それは暴力ではない。むしろ、まっすぐで、正直で、どこか可愛らしい。そんな彼を受け止めるたび、自分がまだ女として生きていると確かめられるのだ。
 温泉宿で彼に抱かれた夜、私はふと思った。――これって浮気なのかしら? それとも友人から託された「役割」なのか。
 答えは分からない。ただ確かなのは、私自身も楽しんでいるということ。彼の熱に溶かされながら、私は久しく忘れていた官能を思い出し、何度も震えた。もし「役割」だけなら、ここまで心も身体も開けはしない。
 けれど、決して夫婦になりたいわけではない。もう二度と結婚なんて望まないし、彼の家庭を壊したいとも思わない。むしろ、あの奥さんがいるからこそ、この関係は成り立っているのだ。私と彼女の奇妙な絆。
 だから私は、助手席で微笑み、唇を寄せ、彼の欲望を受け止める。
 「今日も元気ね」
 そう言ったときの彼の顔は、少年のようだった。六十五歳の男を少年と呼ぶのは妙だけれど、その無邪気さが私を笑わせる。
 私は未亡人。彼は妻ある身。彼女は私の友人。
 世間から見れば背徳でしかない三角関係。でも私たちにとっては、これが最も自然な「家庭の事情」なのだ。
 助手席の窓に流れる景色を眺めながら、私は小さく息を吐いた。
 ――人生って、案外悪くない。

(おわり)

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