アキレスと亀
追いつけない距離
彼女はいつも、少しだけ先にいた。
出会った日、彼女はすでに彼の半歩前を歩いていた。
彼は急いだ。
半歩の距離を詰めた。
でも彼女は、その間にまた少し、前へ進んでいた。
彼はまた急いだ。
彼女はまた、少し遠くにいた。
距離が縮まるたびに、彼女との間にはまだ距離があった。
1メートルが50センチになった。
50センチが25センチになった。
25センチが、12センチになった。
もうすぐ手が届く。
そう思うたびに、彼女の輪郭は少しだけ遠のいた。
彼女が遠いのではなかった。
彼女は普通に歩いていた。
ただ、前を向いて。
彼が無限に細かく距離を刻もうとするから──追いつけなかった。
「好きです」の一言を、彼は何百回も、心の中で半分に割り続けた。
「す」まで言えた。
「き」まで来た。
「で」に届いた。
でも「す」の先に、また「もう少し準備が必要だ」があった。
彼女が振り返ったのは、桜が散り終わった夜だった。
「ねえ、なんでいつも少しだけ後ろにいるの?」
彼は答えられなかった。
追いつこうとしていたのではなく──
追いつかないようにしていたのかもしれない。
手が届いた瞬間に、この切ない距離が消えてしまうのが、怖かったから。
アキレスは亀を追い越せる。
数学的には、証明されている。
でも彼は知っていた。
『追いつかない恋の方が、ずっと長く、続くでしょ?』
