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『血の解錠』-名古屋市西区主婦殺人事件の真相-

「血」が、26年越しの鍵だった。 だが、開かれた扉の先は、絶望だった。

DNAが暴いたのは、犯人だけではない。 親友の秘密と、残された家族の26年という「空白」だった。

⬛️ あらすじ

26年前、若き建築士・**三上悟(みかみ さとる)**の妻が、自宅アパートで惨殺された。当時2歳だった息子・**蓮(れん)**は奇跡的に無傷で、犯人は逃走。悟は「いつか犯人が戻ってくる」という執念から、事件現場となったアパートを借り続け、26年間「保存」してきた。

2010年の時効廃止後も捜査は難航。しかし、事態は突然動く。 県警のベテラン刑事・**長谷部(はせべ)**が、現場に残された「犯人の微物(血痕)」を最新のDNA鑑定技術で再照合。これが、数年前に万引きで検挙されていた女・**市川葉子(いちかわ ようこ)**のDNAと一致したのだ。

「なぜ、今?」「なぜ、あの人が?」。悟と蓮には、まったく接点のない人物だった。 葉子は犯行を認めるも、動機については頑なに黙秘。ただ一言、こう呟く。

「あの人に聞いてください。……**相馬(そうま)**さんに」

「相馬隆(そうま たかし)」――それは、悟の大学時代からの唯一無二の親友であり、蓮が「もう一人の父親」と慕ってきた男の名前だった。 26年という時を経て、「血」の証拠が過去の扉をこじ開けた時、そこに隠されていたのは、想像を絶する「真実」だった。

⬛️ 登場人物紹介

  • 三上 悟(みかみ さとる) - 69歳

    • 被害者の夫。元・建築士。

    • 26年間、事件現場のアパートを保存し続けた執念の男。犯人逮捕を「生きる目的」としてきたが、逮捕によってその目的を失い、深い虚無感に襲われる。

  • 三上 蓮(みかみ れん) - 28歳

    • 悟の息子。ITエンジニア。

    • 母の記憶がない。「“被害者の夫”であり続ける父」を解放したいと願う。「DNA」という科学的真実と、父の感情の間で揺れ動きながら、事件の核心に迫っていく。

  • 市川 葉子(いちかわ ようこ) - 69歳

    • 被疑者。

    • 悟や隆の大学の同級生だが、当時は目立たない存在だった。逮捕されるまで、事件の記憶を「解離(切り離し)」させ、平凡な主婦として暮らしていた。「血」の証拠を突きつけられ逮捕される。

  • 相馬 隆(そうま たかし) - 69歳

    • 悟の親友。著名な建築家。

    • 事件後、悟と蓮を家族同然に支えてきた恩人。だが、学生時代に悟の妻(被害者)に密かに惹かれ、悟に嫉妬していた過去を持つ。事件の「鍵」を握る人物。

  • 長谷部(はせべ) - 58歳

    • 県警捜査一課・特命捜査係のベテラン刑事。

    • 時効廃止後、粘り強い捜査を継続。「血(DNA)」の再鑑定を武器に、26年越しの「解錠(=逮捕)」に成功する。しかし、それが遺族に新たな苦悩をもたらす様を目の当たりにする。

序:凍結された時間

二十六年の澱(おり)

そのアパートの一室だけ、二十六年という歳月が澱(よど)み、化石になっていた。

三上悟(みかみ さとる)は、乾いた雑巾で、キッチンの小さなダイニングテーブルを拭う。六十九歳になった彼の背中は、この部屋の湿気た空気と同じ重さで丸くなっていた。 窓の外では、十一月の冷たい雨が降り始めている。あの日と、同じ雨だ。

カレンダーは、二十六年前のあの日付からめくられていない。壁の染みも、床の小さな傷も、すべてがあの日のまま。悟は、この「現場」を保存するために、人生の三分の一を捧げてきた。家賃を払い続け、電気を通し、時折こうして埃を払う。

犯人が、いつかここに戻ってくるかもしれない。 その妄執だけが、悟を生かしてきた。

「……もう、二十六年か」

テーブルに置かれた写真立て。あの日、殺された妻が、二歳だった息子の蓮(れん)を抱いて笑っている。

その頃、息子の蓮(れん)は、都心のクリーンなオフィスで、ディスプレイの光を浴びていた。二十八歳になった彼に、母親の記憶はない。 スマートフォンの通知が鳴る。ローカルニュースの見出し。

『西区・主婦殺害事件から26年。夫・三上悟さん、今も現場保存を続け』

蓮は、画面に映る父の疲弊しきった横顔を見て、深くため息をついた。 父にとって、あの部屋は「聖域」であり「墓標」だ。だが蓮にとって、それは父を縛り続ける「呪い」のメタファーでしかなかった。

「……親父」

父を、あの部屋から解放したい。 その想いは、母を失った悲しみよりも、よほど現実的な痛みとして蓮の胸を占めていた。

血の証拠(あかし)

その日、県警本部「特命捜査係」のフロアで、ベテラン刑事・長谷部(はせべ)の重い沈黙が破られた。 「係長! 出ました!」 若い刑事が、興奮した声で鑑定結果を叩きつける。

「例の『西区』、現場に残された微物……犯人の血痕から、ついにDNAの完全プロファイルが!」

長谷部は目を剥いた。時効が廃止された二〇一〇年から、彼はこの「コールドケース」を追い続けていた。毎年、命日にアパートを訪れ、執念だけで生きる悟の姿を見てきた。

「データベースに照合!」長谷部が叫ぶ。 「それが……一致しました」 若い刑事が、信じられないという顔で続ける。

「市川葉子(いちかわ ようこ)、六十九歳。三年前に市内で万引きの微罪検挙歴あり。その時の採取データと、99.99パーセント……一致」

「市川……葉子?」 長谷部は、二十六年間で分厚くなった捜査資料をめくる。被害者の交友関係、夫の交友関係、近隣の不審者リスト……どこにも、「市川葉子」の名前はなかった。

「接点、なし……?」 長谷部の背筋に、捜査官としての直感と、形容しがたい悪寒が走った。 「……行くぞ。令状、至急だ」

未知の被疑者

夕方。悟は、メディアの取材も終わり、冷え切ったアパートで一人、写真立てを眺めていた。 スマートフォンの無機質な着信音が響く。長谷部刑事からだった。

「三上さん。私です、長谷部です」 「ああ、刑事さん……。今年も、すみませんね」 いつもの、命日のやり取り。だが、電話口の向こうの息遣いは、いつものそれとは違っていた。

「三上さん。落ち着いて聞いてください」 長谷部の声は、異常なほど硬質だった。

「本日、被疑者を逮捕しました」

悟の指から、スマートフォンが滑り落ちそうになる。 逮捕? いま、逮捕と、言ったのか? 二十六年間、夢にまで見た言葉。しかし、それはあまりに突然で、現実感がなかった。

「……だ、誰を……」 絞り出すような声で問う。知っている名前のはずだ。妻の友人か、自分の同僚か、近所の誰かか。あの憎むべき顔が、脳裏に浮かぶはずだ。

「市川葉子。六十九歳の女です」

「…………は?」

悟は、その名前を反芻した。 イチカワ、ヨウコ? 知らない。聞いたこともない。

同じ頃、蓮は、父の親友である相馬隆(そうま たかし)と、行きつけのバーでグラスを傾けていた。隆は、蓮にとって「もう一人の父親」であり、父の唯一の理解者だった。

「また親父が取材受けててさ。隆さんからも、もうアパートはやめるよう言ってくれよ」 「……悟の気持ちも分かるだろ。あれが、あいつの生きる意味になっちまってるんだ」 隆は、寂しそうに笑った。

その時、蓮のスマートフォンが激しく震えた。 発信元は「親父」。 こんな時間に、父から電話が来ることはない。嫌な予感が、蓮の胸を突いた。

「もしもし、親父? どうかした……」 『……れん、か』 電話の向こうの父の声は、くぐもって、震えていた。

『……捕まった。いま、長谷部刑事から……』

蓮は、息を呑んだ。隣で隆が「どうした?」と顔を覗き込む。

『犯人、捕まったそうだ……!』

「……え」 捕まった? 二十六年間、父を縛り付けていた亡霊が?

蓮の全身から、一瞬にして血の気が引いた。解放される。これで、父は――。 だが、その安堵は、一秒も持たなかった。 受話器の向こうから、安堵とはほど遠い、父の絶望に満ちた呟きが聞こえてきた。

『……誰なんだ。市川葉子って……。誰なんだ、いったい……!』

蓮は、グラスを持つ手が震えるのを止められなかった。 ようやく訪れたはずの「解決」。 だが、それは、父と自分を、そして傍らにいる隆をも巻き込む、新たな「絶望」の始まりに過ぎなかった。


破:亀裂

虚無の供述

県警本部の第一取調室。 市川葉子(いちかわ ようこ)は、まるで他人事のように、窓の外の灰色の空を眺めていた。六十九歳という年齢以上に、彼女の存在感は希薄だった。

「なぜ殺した」 長谷部(はせべ)の声が、無機質な部屋に低く響く。 「……」 「三上悟の妻を、なぜ狙った。あなたと被害者には一切の接点がない。動機は何だ」

葉子は、ゆっくりと長谷部に視線を移す。その目には、憎悪も、後悔も、怯えも浮かんでいない。ただ、底なしの「虚無」だけが広がっていた。 「……殺しました。わたしが」 「それは分かっている!」 長谷部が机を叩く。「血の証拠(DNA)は揃っているんだ。俺たちが知りたいのは『なぜ』だ。三上悟は、二十六年間……あんたを待っていたんだぞ!」

その言葉に、葉子の表情が初めて微かに動いた。 「……悟くん」 懐かしむような、愛おしむような、気味の悪い響きだった。 「彼は……変わらないのね。昔から」

「何?」 「動機、ですか」 葉子はふっと息を漏らす。 「わたしに聞いても、無駄です。わたしは、ただ、そうしたかっただけだから」 「ふざけるな!」 「……本当に知りたければ、あの人に聞いてください」

葉子は、再び視線を窓の外に戻し、呟いた。

「相馬(そうま)さんに。……相馬隆(そうま たかし)さんに、聞いてください」

長谷部は、その予期せぬ名前に息を呑んだ。 捜査資料の片隅にあった名前。三上悟の「親友」。最重要参考人どころか、常に「被害者遺族の支援者」の欄にいた男だった。

親友という名

翌朝。 雨は上がっていたが、保存されたアパートの空気は、前日よりもさらに冷たく、重かった。 悟は、一睡もしていなかった。 逮捕の報は、彼を安堵させるどころか、深い混乱の底に突き落としていた。「市川葉子」という名前を、学生時代の名簿の片隅に見つけはしたが、顔も、声も、思い出せない。

なぜ。なぜ、そんな女が、妻を。

ドアをノックする音。長谷部だった。 「三上さん……。昨夜は、取り乱しているようだったので、改めて」 「刑事さん……動機は。あいつ、何か言いましたか」 悟は、すがるような目で長谷部に詰め寄った。

長谷部は、言い淀んだ。重い沈黙が落ちる。 「……葉子は、動機については黙秘しています」 「そんな……!」 「ですが、一つだけ。奇妙なことを」

長谷部は、悟の目をまっすぐに見据えた。 「『相馬隆に聞け』と。……三上さん。被疑者・市川葉子と、あなたの親友である相馬隆氏の間に、何か……我々が知らない接点は?」

一瞬、悟は、何を言われたのか理解できなかった。 空気が、凍る。

「……たかし?」 悟の顔から血の気が引いていく。 「……何を、言ってるんだ」 「葉子がそう言ったんです。相馬氏が何かを知っていると」 「ふざけるな!」

悟の怒声が、アパートの古い壁を震わせた。 「あいつが……隆が、何だって!? あいつは親友だぞ! 事件のあと、蓮がまだ小さい頃、俺たちがどれだけあいつに救われたか……あんたに何が分かる!」 「三上さん、落ち着いて」 「隆を疑うのか? 冗談じゃない! あいつが、この二十六年間、俺と同じだけ……いや、俺以上に苦しんで……!」 「……同じだけ?」 長谷部は、悟の言葉尻を鋭く捉えた。

「……帰ってくれ」 悟は、長谷部に背を向けた。「俺たちの二十六年に、土足で踏み込むな。……隆は、関係ない」 拒絶。 二十六年間、二人三脚で犯人を追ってきた刑事と遺族の間に、初めて決定的な亀裂が走った瞬間だった。

過去への棘

その夜、蓮は、隆を自室のマンションに呼び出していた。 昨夜のバーでの隆の僅かな動揺。それが、蓮の心に小さな「棘」となって突き刺さっていた。

「隆さん。……市川葉子って、覚えてる?」 蓮は、努めて冷静に切り出した。 「……ああ。昨日も言ったが、大学の同級生だ。だが、ほとんど話した記憶もない。なぜ彼女が、あんなことを……」 隆は、苦渋に満ちた表情で首を振る。

「今日、警察が親父のところに」 「……そうか」 「刑事、親父に聞いたらしい。『相馬隆に聞け』って、そいつが言ってるって」

隆の肩が、微かに強張った。 「……馬鹿な。あいつが、何を……」 「隆さん」 蓮は、テーブルの上の、一枚の写真立てを指差した。それは、まだ若かった頃の悟と隆が、肩を組んで笑っている写真だった。蓮が物心ついた時から、それは父子の傍らにあった。

「隆さんは、親父の親友だ。俺にとっても、父親みたいな人だ。……でも、一つだけ、ずっと気になってたことがある」 「……なんだ」

「なんで隆さんだけ、あの部屋の『解約』を、あんなに親父に勧めてたんだ?」

隆の瞳が、激しく揺れた。 「それは……悟のためだ。あんな場所に縛られていたら、あいつが前に進めない。蓮、お前のためにも……」 「本当に?」 蓮は、隆の目を射抜いた。

「本当に、俺たちのためだけだったのか? あの部屋に、何か……隆さんが見られたくない、思い出させたくない“何か”があったからじゃないのか?」

沈黙が、鉛のように重くのしかかる。

「……何を、言ってるんだ、蓮くん」 隆の声は震えていた。

「市川葉子と、隆さんの間に、何があったんだ」

蓮の追及。それは、父を救いたいという一心から発せられた、純粋な問いだった。 だが、その問いこそが、彼ら三人の関係性を根底から破壊する「血の解錠」の始まりとなることを、蓮はまだ知らなかった。


急:血の動機

歪んだ執着

隆(たかし)は、蓮(れん)のまっすぐな視線から逃れるように、俯いた。六十九年間、磨き上げられた建築家としての威厳は、そこにはない。ただ、老いた男の深い悔恨だけが、その場を支配していた。

「……蓮くん。君は、悟に似ているな」 隆は、かすれた声で言った。 「まっすぐで、人を……信じきってしまうところも」 「質問に答えてくれ、隆さん」

隆は、ゆっくりと息を吐いた。まるで、二十六年間、肺の底に溜め込んでいた澱(おり)を吐き出すかのように。

「……市川葉子。彼女は、学生時代から……私に執着していた」 「執着?」 「一方的なものだ。私は、彼女をほとんど知らなかった。だが、彼女は違った。サークルの集合写真でも、いつも私の後ろにいた。気味が悪いくらいに、私のすべてを……見ていた」

隆の目が、遠い過去を見つめる。

「そして……彼女は気づいていた。私が……君のお母さん……悟の妻に、密かな想いを寄せていたことにも」

蓮の息が止まった。 「……なに、を」 「悟には、生涯言えなかった。言えるはずもなかった。親友の妻だ。だが、私は……嫉妬していた。すべてを手に入れた悟に、どうしようもなく嫉妬していたんだ」

隆の告白は、蓮にとって、葉子の逮捕よりもはるかに重い衝撃だった。父の親友。自分を支えてくれた恩人。その口から語られる「嫉妬」という言葉が、蓮の足元を崩していく。

「葉子は、その私の醜い感情に、気づいていた。……そして、それを楽しんでいた節がある」

嫉妬の目撃者

(回想:事件の三ヶ月前・大学OBの集まり)

ホテルの立食パーティ会場。久しぶりに会う同級生たち。隆がグラスを片手に談笑していると、ふいに声をかけられた。 「ご立派になられて。相馬さん」 市川葉子だった。学生時代の陰鬱な印象とは違う、平凡だがどこか張り詰めた笑顔を浮かべていた。 「ああ……市川さん。久しぶりだね」 「さっき、三上くんとも話しました。相変わらずね、あの人は。幸せそうで」

葉子の視線が、少し離れた場所で談笑する悟と、その傍らに寄り添う妻(被害者)に向けられる。 「……綺麗な奥さん。隆さんは……悔しくないの?」 「……何を言う」 隆は、核心を突かれて動揺した。 「ふふ。学生時代、ずっと見てたから。あなたが、彼女のこと……どんな目で見てたか」 「やめろ」 「手に入れたかったんでしょう? でも、親友に取られちゃった。……ねえ、隆さん。もし、あのお嫁さんが……いなくなったら、どうする?」

葉子の目は、笑っていなかった。隆は、本能的な恐怖と嫌悪を感じ、その場を荒々しく立ち去った。 「気安く話しかけるな!」

それが、葉子と交わした最後の会話だった。

(回想終わり)

代理攻撃

「……そして、事件が起きた」 隆の声は、死んだように無感情だった。

「私は、すぐに葉子を疑った。だが、証拠がない。警察に『あの女が、あんなことを言っていた』と、どう言えばいい? 私の、悟への『嫉妬』を、どう説明すれば……。私は、怖かったんだ。すべてを失うのが」

「だから……黙ってたのか」蓮の声が震える。「二十六年間!?」 「違う!」隆が叫ぶ。「私は、悟に勧めた! 引っ越せ、と。あのアパートは危険だ、犯人が戻ってくるかもしれない、と!……だが、あれは嘘だ」

隆は、顔を覆った。 「私は、あの部屋が……悟が『現場』を保存し続けることが、怖かった。いつか、葉子との繋がりが……私の嫉妬が、暴かれてしまうんじゃないかと。私は……悟のためじゃない。自分のためだけに、あの部屋を消し去りたかったんだ……!」

蓮は、言葉を失った。 父が「執念」で守り続けたアパート。 隆が「友情」で解約を勧め続けたアパート。 その二つの行動の根底にあったのは、あまりにも醜い、人間の感情だった。

「……動機は」 蓮が、絞り出す。 「葉子の、本当の動機は、何なんだ」

「……私への、復讐だろう」 隆は、絶望的に呟いた。 「私を拒絶し続けたことへの。そして……私を、生涯苦しめるための。……私がいちばん手に入れたかったが、手に入れられなかったもの……悟の、幸せな家庭を、私の代わりに破壊したんだ」

代理攻撃。 その歪みきった動機は、悟への逆恨みですらなかった。 悟も、蓮も、そして殺された母も……。 ただ、隆と葉子の歪んだ愛憎劇の、残酷な「舞台装置」として利用されただけだった。

「……そんな」 蓮は、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。

「親父は……親父は、どうなる」

二十六年間、犯人への「憎しみ」だけを支えに生きてきた父。 その憎しみの矛先が、自分たちとは全く無関係な場所にあり、その引き金が、唯一無二の親友の「嫉妬」だったと知った時。

父は、何を支えに、生きていけばいいのか。

蓮は、隆の部屋を飛び出していた。 一刻も早く、父の元へ行かなければならない。 だが、何を告げればいいのか、分かるはずもなかった。


結:それぞれの解錠

空白の憎悪

悟(さとる)は、アパートの床に座り込んでいた。 逮捕の報から二日。彼の内側で二十六年かけて築き上げられた「憎しみ」という名の支柱が、音を立てて崩れ始めていた。

犯人は、接点のない女。 動機は、不明。 いや、刑事は何かを掴んでいる。だが、自分には言わない。「親友」の隆(たかし)を疑うような言葉を口にしてから、長谷部(はせべ)の歯切れは悪くなった。

悟は、隆に電話をかけていない。 怖かった。 もし、刑事の言う通り、隆が何かを……あの女と繋がっていたとしたら。 自分の二十六年間は、一体。

ドアが開く音がした。 蓮(れん)だった。見たことのない、蒼白な顔をしている。 「親父」 「……蓮か。どうした、そんな顔をして」 「隆さんに、会ってきた」

悟の心臓が、冷たい手で掴まれたように縮み上がった。 蓮は、父の前に静かに座った。 「親父……覚悟して、聞いてほしい」 「……何をだ」 「事件の……動機が、わかった」

悟は息を呑んだ。 「そ、そうか……。あいつ、吐いたのか。なんなんだ、動機は。俺が、何かしたのか。昔……」 「違う」 蓮は、父の言葉を強く遮った。

「親父は、関係ない。母さんも……関係ないんだ」 「……は?」 「犯人(ようこ)の狙いは、親父じゃなかった。……隆さんだったんだ」

悟は、何を言われたのか理解できなかった。 蓮は、震える声で、隆から聞いたすべてを、ありのままに伝えた。 葉子の、隆への歪んだ執着。 隆の、悟の妻(被害者)への密かな嫉otto。 そして、葉子が隆を永遠に苦しめるために選んだ「代理攻撃」という、最悪の手段。

「……嫉妬?」 悟の口から、乾いた空気が漏れた。

「隆が……妻に? それで……あの女が……隆のために?」

物語を聞かされているようだった。自分の人生とは無関係な、どこか遠い国の、醜い痴話喧嘩。

「……ふ」 悟の喉から、奇妙な音が漏れた。 「ふ、ふふ……あはははは!」

乾いた、空っぽの笑い声が、時を止めた部屋に響き渡った。 「そうか……そうだったのか……!」 悟は、壁に額を打ち付けた。 「俺は……俺は、何だったんだ……!」

憎しみ。 この二十六年間、悟を支えてきた唯一の感情。 妻を奪った、顔の見えない犯人への純粋な憎しみ。 その憎しみすら、見当違いだった。 自分は、初めから勘定に入ってすらいなかった。

「……馬鹿みたいだ」

憎むべき相手は、隆なのか。 いや、隆もまた、葉子という歪んだ存在の被害者だ。 では、葉子か。 だが、葉子の動機は、悟とは無関係な場所にある。

悟は、憎しみの矛先を、完全に失った。 支柱を失った人間は、立っていられない。 「……終わった」 悟は、床に突っ伏した。「何もかも……。俺の人生は、何だったんだ……」

息子の叫び

その時だった。 アパートの開けっ放しのドアの前に、人影が立った。 相馬隆だった。 蓮がここに来ることを、わかっていたのだ。 「……悟」 隆は、幽霊のような顔で、親友の前にゆっくりと膝をついた。

「……すまない」 隆は、床に額をこすりつけた。 「俺の、せいだ。俺が、嫉妬したからだ。俺があの女を……まともに、相手にしなかったから……!」

悟は、突っ伏したまま、動かない。 「……帰ってくれ」 「悟!」 「帰れ!」 悟は、隆を殴りつける気力さえ、残っていなかった。

「親父!」 叫んだのは、蓮だった。 蓮は、虚無に沈む父の肩を掴み、無理やりその顔を上げさせた。

「いい加減にしろよ!」 「……蓮?」 「何だったんだ、じゃないだろ! あんたの人生は!!」

蓮の目から、二十八年間、溜め込んでいた涙が、初めて溢れ出た。 「俺は、母さんの記憶がない。俺にとっての苦しみは、母さんが死んだことじゃなかった」 「……」 「あんたが、“被害者の夫”であり続けることだった! あんたが、この薄暗い部屋で、過去の亡霊と一緒に生きてることだったんだよ!」

蓮は、父の胸ぐらを掴んだ。 「真実がわかった! 動機が判明した! これで終わりだ! あんたの戦いは、もう終わりなんだよ!」 「だが、俺は……」 「俺を見ろよ!」

蓮の叫びが、悟の虚ろな瞳を貫いた。

「俺は、もう“被害者の息子”じゃない。俺は、あんたの息子だ」 「……れん」 「あんたも、もう“被害者の夫”じゃなくていい。俺の……ただの親父になってくれよ……」

悟の目が、二十六年ぶりに、目の前の「現在」を捉えた。 そこにいたのは、妻の面影を残す「遺品」としての息子ではない。 自分と同じように苦しみ、それでも未来を向こうとしている、一人の「男」だった。

悟の乾いた瞳から、熱いものが、一筋だけ流れ落ちた。

決別と鍵

悟は、隆に目を向けた。 隆は、ただ泣き崩れていた。 悟は、何も言わなかった。赦すことも、憎むことも、もう彼には必要なかった。 ただ、立ち上がった。

そして、二十六年間、毎日触れ続けてきたキッチンのテーブルに、そっと手を置いた。 写真立ての妻が、あの日と同じように笑っている。

「……すまなかった」 悟は、写真に向かって、静かに呟いた。 「俺は、お前を弔うことにかこつけて……蓮から、目をそらしていた」

悟は、ポケットから、一本の鍵を取り出した。 このアパートの、古びた鍵。 二十六年間、彼の執念そのものだった鍵。

彼は、その鍵を、テーブルの上に、ことり、と置いた。 写真立ての、隣に。

「……蓮。帰るぞ」 「……ああ」 「隆さん」 悟は、初めて隆の顔をまっすぐに見た。 「……俺たちは、行く。あんたは、あんたの罪と向き合ってくれ」

赦しではない。だが、憎しみでもない。 ただの「決別」だった。

悟は、蓮の肩を借りるでもなく、自分の足で、しっかりと床を踏みしめた。 二人は、アパートのドアに向かう。

「親父」 ドアの前で、蓮が言った。 「うん?」 「腹、減ったな」 「……そうだな」 悟は、ほんの少しだけ、笑った。

バタン、とドアが閉まる。 後に残されたのは、罪に泣き崩れる隆と、テーブルに置かれた一本の鍵だけだった。

解凍

(エピローグ)

数日後。 あのアパートから、荷物が運び出されていく。 二十六年分の埃をかぶった家具が、次々と。 最後に、あの写真立てと、テーブルの上の鍵が、小さな段ボールに収められた。

すべての荷物が運び出され、がらんどうになった部屋。 そこはもう、「事件現場」ではなかった。 ただの、古いアパートの一室だった。

作業員がドアを閉め忘れていったのか、開け放たれた玄関から、冷たいが、新鮮な十一月の風が吹き込んでくる。 西日が、床の畳の跡が残る場所に、明るい四角形を描き出していた。 凍結されていた時間が、ようやく溶け出し、動き始めていた。

『血の解錠』は、犯人を捕らえただけではなかった。 それは、残された者たちを、過去という名の呪縛から解き放つ、痛みに満ちた鍵でもあった。

(了)

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