『そこで牛鬼は殺せない』 #1
あらすじ:
世界的名画を日本へ輸送するためインドを訪れた学芸員の田中美和は、突然現れた牛のような巨大な怪物に襲われる。輸送するはずだった絵画は混乱の最中、美術館から盗まれてしまう。
インドの軍隊が出動するも、ヒンドゥー教下にあるインド国内では牛の姿をした怪物は殺せないとの決定が下される。村で行われる祭事が、怪物を海へと還すための儀式を後世に伝えるためのものであったと考えた美和たちは、怪物を列車に乗せ海へと還すことを決意する。
その頃、インドと敵対する独立国家を支援する大国が、怪物を脅威とみなし、爆撃機を美和たちを乗せた列車に向かわせた。
美和たちは怪物を無事海へと届けられるのか。そして失われた絵画の行方は。
かつて追っかけをしていたバンドと同じ名前の缶ビールを開ける。底はひしゃげているし、プリントの一部は擦れていたが、痺れるくらい冷えている。グラスに注いでみると、薄い色味だがタフな香りがした。
カウンターには1人だけだった。室内なのか野外なのかその境が曖昧な酒場には、スチールのテーブルが雑多に並び、地元の民が遅めのディナーを楽しんでいた。つまみに頼んだレンズ豆と粗いひき肉のスープにハエがやってきたが、異国であれば一興である。ウェイターがウインクしながら、スプーンを投げよこしてくれたので、使い慣れない素手で食事を取らずに済みそうだった。
ニューデリーからインド北西部に位置するアムリトサルに着いたのが昨日だった。列車で8時間かかると聞いていたが、のんびりとしたもので、空腹に耐えながら、到着にはその倍の時間を要した。それからさらにバスで5時間。縁もゆかりもないプラヴィダの街で、まず印象に残ったのは煙だった。何由来の煙なのかわからない。タバコなのか、屋台で焼ける肉なのか、そこら中で炊かれるお香なのか、はたまた人いきれなのか。視覚では煙たいと思いながらも、不思議と肺は拒絶しなかった。
インドの夜はどこもかしこも黄味がかっていて、自分の目が濁ってしまったのかと錯覚する。チリでけぶった空に黄色い街灯が乱反射しているのだ。低い街路樹の葉は積もったチリや埃で例外なく灰色である。
プラヴィダは活気に溢れている。街はここ数年の著しい経済成長と、やがて始まる30年に1度の祭りとの相乗効果で人々は浮き足立っていた。裸足の爺さんが痩せた犬を散歩させているその後ろでは、高層ビルが建築中という歪さが、図らずも観光地としての魅力に繋がっている。欲を言えば祭りの日まで滞在したかった。しかし仕事でやってきたのだから仕方がない。
断りも入れず、隣に若い女が座った。カウンターは空いているのに妙だなと思いつつも、黙ってスープを掬っていると、女がこちらに向き直った。
「あなたは日本人? 中国人ではなさそう。女性1人で旅行は珍しいね」
「日本人。観光じゃなく仕事でね」
英語でのやり取りであったが、ヒンドゥー語訛りで唐突に話しかけられると理解にラグが生じる。
生傷がTシャツを着ているような女だった。小柄な体格に不釣り合いな太い腕と黒のブーツ。短く無造作に切られた艶やかな髪が美しい彼女は「アスミ・プジャタ」と名乗り、握手と名乗りを要求した。
「田中美和です。日本の福岡から来た」
彼女は、女が1人で国外に派遣される仕事があることに驚き、興味を持ったようだった。
「イャマトーニの採掘関連?」
「いえ、プラヴィダ美術館に絵、というか布、を受け取りにきたというか……」
「あなたは美術商なのね。このところ、他所から来た人たちはあの石のことばっかり言うから」
誤解を解こうと学芸員の説明をしようとしたが、異国の若い女性に伝えられる気もせず、どうせ一期一会だからと訂正はしなかった。しばらくインドの印象など当たり障りのない話をしていると、無邪気に年齢を問われたので正直に答える。彼女は、目の前の日本人が53歳でありながら、この国の人々とは比較にならないくらい幼く見えることに驚いていた。
頭に刻み込むように意識的に「タナカミワ」と親しげに繰り返す彼女のことを、いつの間にか「アスミ」と自然に呼ぶようになって、空の缶ビールは3つに増えていた。旅先であるという心持ちがそうさせたのか、普段好まないはずの自分語りが溢れる。
バーカウンターは立派な一枚板だが、塗り重ねられた手垢で木目も定かではなかった。その隣に腰掛けたアスミは穏やかな表情で話す。田舎の若い女性であると失礼ながら高を括っていたが、彼女は強い意思を持った感覚も新しい立派な女性だった。カウンターに飾られた異国の青い花が、彼女に吸い込まれるようにふっと傾く。
「日本はどんなところ?」
唐突に聞かれて、答えに窮した。仕事で数は多くはないとは言え、色々な国を巡ってきたが、改めて故郷のことを聞かれると、返答を持ち合わせていなかった。
「平和で暮らしやすいところ」
「素敵ね。平和はいいこと」
やっとのことで出た当たり障りのない言葉にアスミは柔かに返した。酔いのせいか、有線から流れるシタールのBGMのせいか、その騒ぎにはじめ気づくことはなかった。
アスミの会話に一瞬の間が生じる。アスミの顔が険しくなる。彼女は遠くから聞こえる、かすかな叫び声を決して逃さなかった。アスミはスツールから跳ねるように降りると店の外へ飛び出した。騒ぎの根源は街の中心部の方からだった。彼女は薄暗い夜の街の先に目を凝らす。彼女に追いついた私の耳でも叫び声と何かが壊れるゆく散らかった音を捉えることができた。混乱がこちらに近づいている。
逃げるべきだと思い、店の他の客に目をやると、彼らは外で起きている出来事に気づいていないようだった。いや気づく余裕がなかったのだろう。彼らの目は店内の天井から吊るされた小さなブラウン管のテレビに集中していた。デバナガリ文字は読めないが、速報を伝えているのは明らかだった。つい昼に私がうろついていた街の中心部で建物が崩壊している。砂埃と血にまみれた少年の写真。どうやら首都近郊は避難指示が出ているようだった。ここも例外ではない。
テロか。まさかパキスタンが攻めてきたなどということはありえない。渡航禁止は出ていなかった。アスミが店内の人々に裏口から避難するよう指示する。どうやら大通りに面した側で何かが起きていると判断したらしい。地元民なら熟知している裏道を、住宅密集地に抜ければ安全だと踏んだようだった。私も逃げねばと思いながらも、アスミの毅然とした応対に不思議と安心感を抱いてしまい、じっとテレビを見ていた。
アナウンサーが放つ現地の言葉は明らかに動揺していた。一瞬の映像だった。崩壊する建物と街明かりに乱反射して立ち上る砂埃の隙間から、巨大な白い何かが蠢くのが見えた。血の気のない芋虫の腹のようだった。ほんの0.5秒ほどしか映っていないが、何かの生き物の一部のようだった。緊張からか無意識に奥歯を噛み締めていたようで、歯が軋む音が頭に響いて我に帰る。逃げねば。喧騒はもうすぐそこまで来ている。
「タナカミワ、早く! 後ろに乗れる?」
さっき裏口から逃げていった誰かの、鍵が刺さったままのバイクにアスミが跨っていた。この国でも飲酒運転は罰せられるはずだが、そんな状況ではないことは察しがついた。生まれてこのかた、いわゆるニケツなど、自転車でさえしたことがなかった。もたもたと後部座席によじ登り、華奢だが体幹のしっかりした背中に捕まる。バイクがうなり、飛び出し、私は後悔した。アスミは迷うことなく人々が逃げる方向とは逆にバイクを走らせた。なぜ私を裏口から逃がしてくれなかったのだろうと呪う。たしかに土地勘はないし、心許ないのはわかるが、かといって異国での異常事態に連れ込むのは違うと思う。
振り落とされないようにするのが精一杯だった。始め快調に飛ばしていたバイクも避難者の量が増えたことで進むのも困難になってきた。負傷した避難者の歩みは遅く、人の壁に苛まれて、バイクはついに止まらざるを得なくなった。その奥では煙が上がっているのが見える。街明かりが消えたはずの夜の闇で、その有様が目視できるのは噴き上がる火に照らされているからだった。何が起きている? 悲鳴と何かが爆ぜる音。
またしても異変を察知したのはアスミだった。彼女の目が見開き、微かに眼が振れる。よろけるようにバイクから降りた彼女は、あからさまに怯えていた。支えをなくしたバイクがゆっくり倒れる。私は地面に投げ出された。恐怖心を隠すことのないアスミの表情に、私は怯えつつ、その視線の先に目をやった。
瓦礫を纏い、炎に照らされて、大きな怪物がいた。死人のような白い肌。側面に目のような模様が並んだ腹がうねる。観光バス程の大きさがあるそれの形はクモ。しかしその顔は、薄気味悪い笑みを浮かべた、“牛”だった。
「……牛鬼だ」
ふと夏休みの企画展で行った妖怪絵巻展を思い出す。牛の頭に、蜘蛛の身体をもった妖怪を描いた江戸時代の絵巻物。まさにその容姿に酷似している。こんなことが起きるわけがないが、とうに酔いは醒めており、素面の頭は受け入れるしかない。牛の顔面についた2つの目は牛のそれではなかった。まるで人間の目。やつと目が合う。本能的な恐怖が沸き立つ。今度こそ自分の意思で避難をしようと、ふらつきながら立ち上がると、私の目線の高さから人が消えていた。
始めは命乞いかと思ったが、違う。怪物の姿を見た者たちが次々と膝まずき、あるものは手を合わせ、あるものはかしずいた。信仰のために命を危険に晒すのかと、ある種の恐れを抱いた。ーーここはヒンドゥー教の国。日本を離れる前、付け焼き刃で読んだガイドブックの一文が頭の中でリフレインした。
『牛は破壊神の神聖なる乗り物』
