場がうまくいったとき、わたしは何もしていなかった
かつてのわたしは、場を「回す」ことに必死だった。
沈黙が怖かった。誰も話さない時間が続くと、失敗したような気がした。だから間を埋めた。質問を重ねた。話題を振った。笑いを取ろうとした。
場がうまくいったかどうかは、自分がどれだけ動いたかで測っていた。
あの頃のわたしは、とても疲れていたと思う。
変わり始めたのは、ある小さな読書会だった。十人ほどの輪。進行役はわたしだったけれど、その日は体調が悪かった。声を出すのもつらくて、最初の問いを投げたあと、ほとんど黙っていた。
すると、不思議なことが起きた。
参加者同士が、勝手に話し始めた。ひとりが話すと、別の誰かがうなずく。うなずきが言葉になり、言葉が問いになり、問いがまた誰かの記憶を引き出す。連鎖だった。わたしが何もしなくても、場は動いていた。
終わったあと、何人かに言われた。「今日、すごくよかった」と。
わたしは何もしていないのに。いや、何もしなかったから、かもしれない。
その経験が、ずっと引っかかっていた。
後日、場作りの先輩と話す機会があった。その人は長年、対話の場をつくってきた人だ。「うまくいった場って、どんな場ですか」と聞いた。
先輩は少し考えて、こう言った。「自分がいなくても成り立つ場、かな」と。
最初は意味がわからなかった。場をつくる人がいなくてもいいなら、何のためにいるのだろう。
でも今は、少しわかる気がする。場をつくる人の仕事は、場を「回す」ことではない。場が「回り出す」条件を整えることだ。
椅子の並べ方。最初に投げる問い。時間の長さ。そして、何も起きない余白。
設計は大事だ。でも設計どおりに進む場は、どこか窮屈になる。予定調和の空気が漂う。参加者は「正解」を探し始める。
本当に豊かな場には、設計を超える瞬間がある。誰も予想しなかった話題が出る。思いがけない沈黙が生まれる。その沈黙が、深い言葉を連れてくる。
それは偶然のように見えて、偶然ではない。余白があるから、偶然が入り込める。
最近、場に立つとき、わたしは「いかに手を出さないか」を考える。介入したくなる瞬間を、ぐっとこらえる。沈黙を怖がらない。待つ。信じる。
それでも、つい口を出してしまうことがある。まだ怖さは消えていない。沈黙の中で、自分の存在意義がわからなくなる夜もある。
でも、うまくいった場を思い返すと、やはりそこにいる。「わたしが何もしていなかった」という記憶が。
場は、回すものではなく、開くものなのだろう。
開いたあとは、そこにいる人たちのものになる。わたしはただ、その余白を守る人でいたい。今は、そう思っている。
山田克基(こにー)
PRアドバイザー・コミュニティデザイナー・ワークショップデザイナー
京都を拠点に、企業・自治体・NPO・スタートアップの「きっかけ創り」に伴走しています。
🔗 燈スタジオ:https://akaristudio.jp
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