【ホームズ捕物帳】第二十九話:熊の死骸奇談〜 The Adventure of the Bear's Remains 〜
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ホームズ捕物帳 ~ロンドンの名探偵、江戸に転生して岡っ引きになる
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)
第二十九話:熊の死骸奇談
〜 The Hound of the Kumagawa, or The Adventure of the Bear's Remains 〜
【冒頭:ロンドン時代】
一八九三年、二月の朝のことである。
ベイカー街二百二十一番地Bの居間には、珍しく朝の陽光がカーテン越しに差し込んでいた。ロンドンの冬は概して灰色の空が支配するものだが、その日ばかりは薄日が漂って、暖炉の炎も心なし穏やかに揺れているように見えた。
私、ジョン・H・ワトソンは、朝食の皿を膝に置いたまま、新聞の三面を眺めていた。ホームズは例によって、まだ寝間着姿で実験台に向かい、何か液体の入った試験管を光にかざして目を細めていた。
「ワトソン」と、ホームズは試験管を置いて言った。「熊を見たことがあるかね」
「アフガニスタンにはいなかった。しかし博物館では何度か」
「生きている熊を、だ。間近で」
「ない」と私は答えた。「なぜそんなことを」
ホームズは立ち上がり、窓際に歩み寄って外を見た。通りを荷馬車が一台、ゆっくり過ぎてゆく。
「今朝の新聞に、ヴィクトリア埠頭の倉庫で異臭騒ぎがあったとある。荷を解いた箱の中から、腐敗した大型動物の残骸が出てきたというのだ。密輸のにおいがする」
「それが事件になるのかね」
「なる、かもしれん」とホームズは言った。「しかし面白いのは、その箱の送り主が見当たらないことだ。荷を出した者も、受け取るべき者も、記録から消えている。死骸は語らない。だが死骸の周囲には、必ず生きている人間の意図が漂うものだ」
私は新聞を畳んだ。
「行くのか」
「午後にでも埠頭へ」とホームズは言いかけて、そこで首を傾けた。「だが——なぜだろう、この話には既視感がある。霧の中の熊の匂いを、どこかで嗅いだような……」
そのとき、外から激しい物音がした。
馬車が何かに激突した音だった。続いて、人の叫び声と、木材の折れる鈍い響き。私たちは同時に窓に駆け寄った。通りでは荷馬車が倒れ、積み荷の樽が路上に転がり、そのうちの一つから何か黒い煙のようなものが立ち昇っていた。
「危ない、引火する!」と誰かが叫んだ。
次の瞬間、轟音と共に白い閃光が弾けた。
私は吹き飛ぶ感覚を覚え——そして、何も覚えていない。
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
目が覚めると、煙の匂いがした。
しかしそれはロンドンの工場の煙とは違う。炭と松脂(まつやに)と、焦げた藁(わら)の混じった、どこか懐かしいような、それでいて全く異質な匂いだった。
私——和登三太——は路地の隅に座り込んでいた。
空を見上げると、冬の青みがかった空の端に、黒い煙柱が太く立ち昇っている。江戸の町では、火事(かじ)を「江戸の華」と呼ぶ風習がある、と後に聞いた。木造の建物が密集し、冬の乾燥した空気と強い北風が揃えば、ひとたび火がつけば瞬く間に延焼する。だから江戸では、火事は避けがたい日常であり、焼け跡から復興する逞しさもまた、この町の気風の一部だった。
ロンドンにも大火の歴史はある——一六六六年のロンドン大火は今も語り継がれる——しかし江戸の火事は、もっと身近で、もっと頻繁なものだった。
「三太」
声がして、振り返ると、写楽捕霧七(しゃらく ほむしち)が立っていた。
着物の裾に煤(すす)が付いている。腰の十手(じって)——岡っ引きの証である鉄の棒で、刀の刃を受け止めるための鉤(かぎ)が横に張り出した、一尺ほどの武器にして権力の象徴——を右手で握り、眼光鋭く煙の立ち昇る方向を見つめていた。
「また火事か」と私は立ち上がりながら言った。
「ただの火事ではない」と彼は言った。「あの煙の向こうに、奇妙なものが落ちているはずだ。行くぞ」
江戸の町には、火消(ひけし)と呼ばれる消防組織がある。
ロンドンにも消防隊(fire brigade)は存在するが、江戸の火消はより組織化され、かつ勇猛な集団だった。町火消(まちびけし)と呼ばれる民間の組織と、武家地を守る大名火消(だいみょうびけし)・定火消(じょうびけし)という幕府直轄の組織が、それぞれ分担して出動する。彼らは火を直接消すというよりも、類焼(るいしょう)を防ぐために周囲の建物を壊す「破壊消防」を主とする。鳶口(とびぐち)と呼ばれる長い鉤竿で屋根を引き剥がし、延焼の道を断つのだ。
私たちが現場に着いたとき、火はすでにほぼ消えていたが、神田川に近い裏手の空き地に、近所の人々が集まって何かを遠巻きに眺めていた。
「なんじゃあ、あれは」
誰かが呟いた。
人垣の中心に、それはあった。
焦げた藁の上に横たわる、黒々とした巨大な塊——。
熊(くま)だった。
大人の男が二人がかりで抱えてもあまりある、巨大な黒熊の死骸が、半ば焼け、半ばそのままの姿で、空き地の真ん中に転がっていたのだ。
江戸の町に熊が出没することは、あり得ないことではない。奥羽(おうう)や信州(しんしゅう)といった山深い地域から、見世物師(みせものし)——ロンドンで言えば見世物小屋の興行師に当たる——が熊を連れて江戸に下り、見物料を取って客を集める商売があった。しかしこの熊には、そのような見世物の形跡がない。縄(なわ)の跡もなく、鼻輪の痕跡もない。ただ、巨大な死骸だけがそこにあった。
捕霧七はしゃがみ込んで、死骸を仔細に観察した。
「三太、この熊を見ろ」と彼は言った。「何かおかしいと思わないか」
「……大きい、ということ以外は」
「毛並みを見ろ。爪を見ろ。そして、このあたりの藁の散らばり方を」
私は言われるままに見た。毛並みは密で艶があり、野生の獣にしては手入れが行き届いている。爪は先端が丸く磨耗しており、野山を歩き回った野生の個体のものとは異なる。そして藁の散らばり方は——熊を中心にして外側へ放射状に広がっており、まるで熊がここに「置かれた」ような状態だった。
「飼われていた熊だ」と捕霧七は断言した。「そして、自らここに来たのではない。誰かに運ばれた」
「しかし、なぜ」
「それが問題だ」
彼は立ち上がり、周囲に集まった人々を見渡した。いずれも長屋(ながや)の住人らしい町人(ちょうにん)で、着物の上に半纏(はんてん)——綿入りの短い上着——を羽織った者、前垂れ(まえだれ)姿の職人風の者など、様々だった。江戸の庶民の服装は概してシンプルで、武士の格式張った装束とは異なり、機能性を重んじている。
「誰かこの熊に心当たりのある者はいるか」と、捕霧七は静かに、しかし通る声で問いかけた。
人々は互いに顔を見合わせた。しばらく沈黙が続いた後、一人の老人が遠慮がちに進み出た。
老人の名は甚兵衛(じんべえ)といって、この界隈で長く小物問屋(こものどんや)を営んでいる人物だった。
「……あの熊には、見覚えがございます」と老人は言った。「去年の秋、両国(りょうごく)の見世物小屋に出ておりました熊に、そっくりでございます」
両国は、隅田川に架かる両国橋の西詰(にしづめ)に広がる盛り場(さかりば)で、江戸随一の歓楽街である。ロンドンで言えばコヴェントガーデンとテムズ南岸の見世物街を合わせたような場所だ。相撲(すもう)の興行から見世物小屋、曲芸、食べ物屋台まで、ありとあらゆる娯楽が集まっていた。
「その見世物小屋の名は」と捕霧七は訊いた。
「松五郎(まつごろう)という男が仕切っておりました。今年に入ってから、小屋をたたんだと聞きましたが……」
「松五郎。よし、三太、行くぞ」
「今からか」
「証拠は鮮度が命だ」と彼は言った。ロンドン時代のホームズがよく使った言葉を、江戸弁に置き換えてそのまま使うのは、相変わらずの癖だった。
松五郎の住まいは、浅草(あさくさ)の裏手、寺の門前に連なる長屋の一角にあった。
浅草は、浅草寺(せんそうじ)——江戸で最も有名な寺の一つで、観音様(かんのんさま)を本尊とする——を中心に栄えた門前町で、参詣(さんけい)客目当ての商売が軒を連ねる。ロンドンの教会周辺の商店街に似ているが、規模も賑わいも江戸風に派手で活気がある。
松五郎は四十がらみの、がっしりとした体格の男だった。かつて力持ちの見世物でもやっていたのか、腕は異様に太く、首も短く、どこか熊に似た風貌だった——もっとも、そんなことを口に出す勇気は私にはなかったが。
「あの熊のことでございますか」
話を聞くと、松五郎はひどく沈痛な顔をした。
「あれは私が三年、手ずから育てた熊でございます。名を『三郎(さぶろう)』と申しまして……ご覧の通りの大きな奴でしたが、気性はおとなしく、私の言うことをよく聞いてくれる、まるで子どものような奴で……」
「いつ、いなくなった」
「先月の晦日(みそか)——月の終わりの日——に。小屋をたたんで、三郎を売り飛ばすしかないかと悩んでおったところへ、ある男が訪ねてきまして。いい値段で買い取ると言うのです。仕方なく引き渡したのですが、その後すぐに三郎が死んだと聞かされまして……なぜあのような場所に……」
「買い取った男の名は」と捕霧七は煙管の雁首(がんくび)を回しながら訊いた。ホームズのパイプを回す仕草が、煙管に置き換わっても全く同じリズムで行われるのは、少々滑稽でもあり、妙に頼もしくもあった。
「徳之助(とくのすけ)と名乗っておりました。どこかの口入屋(くちいれや)——ロンドンで言えば仲介業者——の手代(てだい)風の男でございました」
「顔の特徴は」
「細身で、左の眉の上に古い傷跡がありました。年の頃は三十前後かと」
捕霧七の目が細くなった。私はその変化を見逃さなかった。彼が目を細めるとき、すでに頭の中では何かが組み上がり始めている。
その夜、捕霧七は長屋の一室で、いつになく沈黙がちだった。
彼は煙管を吸い、時折立ち上がって部屋の中を歩き回り、また座って目を閉じた。部屋の片隅には、近頃仕入れた薬草(やくそう)の束が吊るしてあり、その青草の香と煙管の甘い煙が混じって、なんとも奇妙な香気が漂っていた。ロンドン時代の実験室の試薬の匂いに、通じるものがある。
「捕霧七さん」と私は声をかけた。「何か見えてきたのか」
「三太、この事件には三つの奇妙な点がある」と彼は目を開けずに言った。「第一に、なぜ熊の死骸をわざわざあの場所に運んだのか。第二に、なぜ火をつけたのか。第三に——これが最も重要なのだが——熊の傍らにあった藁の下に、小さな木の札(ふだ)が一枚、押し込まれていた」
「え? それは……」
「お前には黙っていたが、私は現場でそれを回収した」
彼は懐(ふところ)から、焦げ跡のついた小さな木片を取り出した。表面には墨で、「丑三郎(うしさぶろう)」という名前が書かれていた。
「丑三郎……松五郎の言っていた『三郎』とは違う名前だ」
「そうだ。熊の名は三郎。しかしこの札の名は丑三郎。これは熊の名ではない」
「では、人の名か」
「その可能性が高い」と捕霧七は言った。「しかも、わざわざ熊の死骸の下に隠すように置かれた。これは警告か、あるいは——告発だ」
翌朝、私たちは担当の同心(どうしん)、貝塚忠次郎(かいづか ちゅうじろう)を訪ねた。
同心とは、町奉行所(まちぶぎょうしょ)に属する下級役人で、実際の捜査や取り調べの実務を担う。奉行所の長官である町奉行(まちぶぎょう)は旗本(はたもと)クラスの武士が就くが、同心は下級武士で世襲の職であり、岡っ引きのような民間協力者を束ねながら、江戸の治安維持に当たった。ロンドンで言えば、レストレード警部のような立場、と私はいつも頭の中で翻訳していた。
「丑三郎という名の男を知っているか」と捕霧七は単刀直入に訊いた。
貝塚同心は顔をしかめた。「知っている、というより——最近行方が知れなくなった男だ。神田の蔵(くら)を束ねていた番頭(ばんとう)格の男で、少し前から姿を消している。雇い主はどこかの大店(おおだな)——江戸の大きな商家——で、店では病気と届け出ているが、実態はわからん」
「その雇い主の名は」
「津国屋(つのくにや)惣兵衛(そうべえ)。材木問屋(ざいもくどんや)を営む、両国の大店だ」
捕霧七は静かに頷いた。
「三太、もう見えてきた」と彼は私に言った。「しかし、もう一つ確かめることがある。松五郎の熊を買い取った男——徳之助なる人物だ。あの左眉の傷跡に、覚えがある」
「覚えが? お前が?」
「私ではない」と捕霧七は言った。「此の界隈でそういう特徴の男を、先日誰かが私に話してくれた。誰だったか……」
彼は再び目を閉じた。
そのまま三分ほど、完全な沈黙。
そして目を開けると、立ち上がった。
「甚兵衛の小物問屋だ。あの老人のところへ行く」
甚兵衛の店は昨日と変わらず静かに店を開いていたが、老人の顔には、前日より明らかに憔悴の色が濃かった。
捕霧七が左眉の傷の話を持ち出すと、老人はしばらく沈黙した。そして、ゆっくりと、重い荷を下ろすように口を開いた。
「……実は」と甚兵衛は言った。「その男は私の甥(おい)の縁者で、津国屋の丑三郎の友人でございました。丑三郎は——去年の暮れから、津国屋の帳簿(ちょうぼ)に不正を発見しまして、それを主人の惣兵衛に訴えようとしていたのですが……訴える前に、忽然と姿を消してしまったのです」
「不正の内容は」
「材木の仕入れにからむ横領(おうりょう)でございます。相当な額になると聞いております。それを揉み消すために——丑三郎が……」
老人は目を伏せた。
私には、もうわかっていた。
熊の死骸は、ただ火事場の混乱の中に紛れ込んだのではない。誰かが意図して、あの場所に運んだ。そして熊の下に札を置いた。「丑三郎」という名前を、発見されることを期待して。
それは、声なき告発だった。
「捕霧七さん」と私は言った。「丑三郎は……」
「おそらく、もう生きていない」と彼は静かに言った。「しかし誰かが、その死を無駄にしたくなかった。だから、衆人の目に必ず触れる場所に——あの巨大な熊の死骸を使って——名前を残した。熊は注目を集める。人は集まる。そして才覚ある者がいれば、気づく」
「それが……私たちに気づかせようとしていた、ということか」
「違う」と捕霧七は首を振った。「あれは誰かに気づかせようとした、というより——丑三郎自身の最後の意地だ。横領を知って、訴えようとして消された男の、最後の抵抗だ。自分の名前だけでも残そうとした。おそらく、熊を買い取った徳之助という男が、丑三郎の最後を知る何者かで——彼が密かにその意志を果たそうとしたのだろう」
老人が静かに涙を拭った。
その後の展開は、貝塚同心の仕事だった。
津国屋の帳簿が調べられ、惣兵衛の横領が明るみに出た。徳之助と名乗った男は、丑三郎の兄であり、弟の最後を知った上で、松五郎から熊を買い取り、あの火事の混乱に乗じて死骸を運んだのだった。
丑三郎の遺体は、津国屋の裏手の蔵の床下から発見された。
惣兵衛は北町奉行所(きたまちぶぎょうしょ)に引き渡された。
秋も深まった頃のある夕方、私と捕霧七は長屋の縁側に並んで、空を見ていた。
両国の方角から、夕市(ゆういち)の賑わいがかすかに聞こえてくる。
「熊というのは」と捕霧七は煙管を吸いながら言った。「大きく、力強く、それでいて、人に飼われると従順になる。奇妙な生き物だ」
「人間に似ているな」と私は言った。
「ああ」と彼はうなずいた。「飼い慣らされた強さは、時に本来の強さを忘れさせる。しかし丑三郎はそうではなかった。力のない者が、力ある者の横暴に抗おうとした。声は出せなかった。しかし名前だけは残った」
「名前が、証拠になった」
「証拠は、言葉を持たない者の最後の声だ」と、捕霧七は静かに言った。
夕日が、両国橋の向こうに沈んでいった。隅田川の水面が橙色に染まり、どこかの寺から、夕暮れを告げる鐘の音が、ゆるやかに広がっていった。
【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
暖炉の炎が、いつも通りに揺れていた。外はまだ二月の午後で、霧が窓ガラスを薄白く曇らせている。
ホームズは椅子に沈んで、両手を組んで天井を眺めていた。
「ホームズ」と私は言った。「また江戸に行っていたようだ」
「行っていた」と彼は言った。「今度は熊の話だった」
「聞こえていたのか」
「夢の中では、何もかも聞こえる」ホームズは組んだ手をほどいて、私を見た。「ワトソン、一つ訊いていいか。声を持たない者が真実を残そうとするとき、人はどんな手段を選ぶと思うね」
私は少し考えた。
「……できる限り、目立つものを使うだろう。人が集まる場所に、人目を引くもので」
「その通りだ」とホームズは言った。「言葉は消える。記録は書き換えられる。しかし、誰もが振り返るほど大きな何かを使えば——それは残る。たとえ焼けても、消えない名前が、残る」
窓の外に、馬車が一台、霧の中を通り過ぎていった。
ホームズはゆっくりと立ち上がり、バイオリンケースに手をかけた。
「ワトソン、今夜は少し弾いてもいいか。江戸の鐘の音を、思い出しながら」
「どうぞ」と私は言った。
やがて、ベイカー街の居間に、静かな旋律が流れ始めた。それはホームズの奏でる音楽の中で、私がかつて聞いた中で最も穏やかなものの一つだった——まるで、遠い川の音に応えるように。
本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および
岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)
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