【ホームズ捕物帳】第四十四話:むらさき鯉の研究〜 A Study in Purple Scales 〜
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ホームズ捕物帳 ~ロンドンの名探偵、江戸に転生して岡っ引きになる
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)
第四十四話:むらさき鯉の研究
〜 A Study in Purple Scales 〜
【冒頭:ロンドン時代】
一八九一年、九月のある夜のことである。
ベイカー街二百二十一番地Bの居間で、シャーロック・ホームズは床に広げた大きな地図に向かって、虫眼鏡を手に何かを調べていた。テムズ河流域の地図で、支流の細かい網目が蜘蛛の巣のように描かれていた。
「ワトソン」と彼は顔を上げずに言った。「希少種の魚というものが、なぜ犯罪と結びつくか、考えたことはあるかね」
私、ジョン・H・ワトソンは読書を中断した。「希少種の魚? それは珍しい話題だ」
「希少であることは、即ち価値を持つということだ。価値があれば、人間は欲をかく。欲があれば、嘘をつく。嘘があれば、時に人を傷つける——生き物の希少性というのは、実に厄介なものをこの世に呼び込む」
「今、何かの事件を調べているのか」
「いや、まだただの仮説だ」ホームズは虫眼鏡を置いて立ち上がった。「しかし、テムズの上流で、ある種のスタージョン——チョウザメ——の密猟が続いているという話を聞いた。密猟者は夜に網を下ろし、魚を売りさばく。王室御用の魚に手を出せば、これは軽い罪では済まない。だから密猟者は、買い手を選ぶ。買い手もそれを知っている。両者の間に、秘密が生まれる」
「なるほど」
「秘密とは、常に誰かを危険な立場に置く」とホームズは言った。「秘密を知りすぎた者が、どうなるかはわかるだろう」
その夜、私たちはある依頼人に応じて、テムズの岸沿いの倉庫街へ出向いた。暗い水辺を歩いていたとき、荷馬車が急に角を曲がって突っ込んできた。御者は酔っていたらしかった。
私が最後に覚えているのは、ホームズが私の腕を掴む感触と、テムズの冷たい匂いだった。
気がついたとき、私はもう江戸にいた。
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
初秋のある夜のことだった。
神田の長屋で、私、和登三太は写楽捕霧七(しゃらく ほむしち)と並んで縁側に腰を下ろし、夜風に当たっていた。江戸の夏は湿気が重く、ロンドンとは比べ物にならないほど蒸し暑いが、九月に入れば少しずつ夜の空気が変わってくる。
「三太」と捕霧七は煙管(きせる)の煙をゆっくり吐き出しながら言った。「むらさき鯉というものを聞いたことがあるか」
「鯉なら聞いたことがある」と私は言った。「しかし紫の鯉とは?」
「江戸川と利根川の合流するあたりで、ごくまれに捕れる鯉だ。鱗が紫がかった虹色に光る。普通の鯉との違いは色だけだが、珍しいがゆえに縁起が良いとされ、武家の間で特に珍重される。一尾の値は通常の鯉の十倍を超えることもある」
「それが何か」
「今日、その鯉に絡んで、人が一人死んだ」
事の始まりを話してくれたのは、南町奉行所(みなみまちぶぎょうしょ)の定廻同心(じょうまわりどうしん)・佐々木文三郎(ささき ぶんざぶろう)だった。翌朝、長屋に顔を出したこの男は、捕霧七の旧知の役人で、腕は確かだが複雑な事件になると必ず捕霧七を頼りにくる。
「昨晩、本所(ほんじょ)の裏手の川沿いで、女の死体が上がりました」と佐々木は言った。「名はお糸。年は二十六、七。深川の水茶屋——お茶と軽食を出す小さな店——で働いていた女です」
水茶屋(みずちゃや)というのは、江戸の盛り場や寺社の境内の近くに多く見られる飲食店で、茶や甘酒(あまざけ)、団子などを出す。ロンドンのティー・ハウスに相当するが、はるかに庶民的で、座敷を持つ店では酒や料理も出す。店の看板娘が客を引くことも多く、なかには武士や商人の「旦那(だんな)」を持つ女もいた。
「死因は?」
「溺死ですが、あちこちに争った跡があります。他殺に間違いない」と佐々木は言った。「問題はその前夜のことでして——」
佐々木の話によれば、前の晩、お糸が奉公していた店の奥座敷で、ある武士の一行が酒宴を開いていた。高山伝兵衛(たかやま でんべえ)という、幕府の普請奉行(ふしんぶぎょう)——建設・修繕を担当する役所——に勤める役人で、五人の仕事仲間を連れての宴席だった。
酒が進むうちに、誰かが「江戸川のむらさき鯉を一度食ってみたい」と言い出した。他の者も口々に面白がって騒いだ。高山も「物は試しだ、是非食いたい」と言った。
酌をして回っていたお糸は、それを聞くとすっと立ち上がり、「旦那様がそれほどにおっしゃるなら、わたくしがすぐに取ってまいります」と言った。
座の者は驚いたが、冗談と受け取って笑った。しかしお糸は「どうぞしばらくお待ちを」と言い残して、座敷を出た。
それきり、お糸は戻ってこなかった。
翌朝、本所の川から死体が引き上げられた。
「高山という役人は今どこに」と捕霧七は訊いた。
「屋敷に。呼べば来ます。しかし高山自身は昨晩ずっと宴席にいたことが、他の五人の証言で確かめられています」
「では誰がお糸を殺したか、というわけだ。三太、行くか」
私たちは最初に、お糸が働いていた水茶屋を訪ねた。
店の主人・徳兵衛(とくべえ)は五十がらみの、がっしりした男だった。妻のお徳(おとく)は色の白い、四十ほどの女で、明らかに動揺していた。
捕霧七は店の中を一通り見回してから、徳兵衛に向かって言った。
「昨晩、お糸が出ていったあと、この店に誰か来ましたか」
「それが——」と徳兵衛は少し言いにくそうにした。「夜の八つ(午前二時)ごろに、一人の女が来まして」
「どのような女か」
「年は三十前後、後家(ごけ)風の——つまり未亡人のような身なりの女でした。お徳、お前が受け答えしたな」
お徳はためらいながら口を開いた。
「その女が、台所に鯉が隠してあるはずだ、とひどく迫るんですよ。確かに、お糸が出ていった後に、台所の上がり板の下に——むらさき鯉が一尾、桶に入って置いてあったんですが、そのことがなぜわかったのか——」
「女は何と言いましたか」
「『わたくしの枕元に紫の鱗が落ちていた。その鯉はわたくしのものだ、返してくれ』と——。まるで幽霊のような話をするので、こちらも怖くて——結局、鯉を渡してしまいました」
「鯉を持ち去る際、女は何か言いましたか」
「『これからはあなた方夫婦を蔭ながら守ります』と——それだけ言って、足音もなく出ていきました」
お徳の声は震えていた。
捕霧七は少し考えてから、台所に下りた。上がり板を持ち上げて、その下の空間を子細に調べた。桶の痕跡、水の滲みた跡。それから床の隅に膝をついて、指先で何かを拾い上げた。
「三太、これを見ろ」
私が覗き込むと、彼の指の先に、ごく小さな紫がかった鱗が一枚あった。確かに、普通の鯉の鱗より色が濃く、光の角度によって虹色に変わる。
「美しいものだ」と私は思わず言った。
「美しいものに人は引きつけられる。そして時に、人は美しいもののために死ぬ」と捕霧七は静かに言って、その鱗を袱紗(ふくさ)——絹製の小さな布——に包んだ。
次に私たちは、江戸川の漁師町に向かった。
江戸川は、江戸の東の外縁を流れる川で、武蔵と下総(しもうさ)の国境をなす。川沿いには漁師の集落があり、鯉や鮒(ふな)、鰻(うなぎ)などを獲って江戸の魚市場(うおいちば)に卸している。江戸の魚食文化を支える重要な供給源だ。
漁師の中に、甚兵衛(じんべえ)という古老がいた。七十近い、皺だらけの男で、長年この川で生きてきた者の目をしていた。
捕霧七がむらさき鯉の話を切り出すと、甚兵衛は顔を曇らせた。
「そいつは——あまり表向きにできない話でして」
「構わない。正直に話してくれ」
甚兵衛は周囲を見回してから、声を落とした。
「むらさき鯉はな、実は獲っちゃいけないことになってるんですよ。川の主(ぬし)とも言われていてね、昔から流域の漁師仲間の約束で——ここで獲れてもすぐ逃がす決まりなんです。祟りがあるという言い伝えもありますし、なにより、そいつを売り買いする話には、ろくなものが絡まないんで」
「しかし、誰かが売り買いをしている」
「……最近、一人、それに手を染めた者がいます。若い漁師でね、与吉(よきち)というんですが、半年ほど前から、むらさきが獲れると黙って江戸へ持ち込んでいる様子で——」
「その与吉に会えるか」
甚兵衛は困ったような顔をしたまま、対岸の小さな小屋を指差した。
「あの小屋に住んでいますが、最近は顔を見ていない。二日ほど前から姿が見えないんです」
捕霧七の目が静かに光った。
与吉の小屋は無人だった。
しかし捕霧七が丁寧に調べると、小屋の中には慌てて逃げ出した跡がはっきりあった。食いかけの飯、転がった椀(わん)、脱ぎ散らかした着物。そして隅の棚に、一冊の帳面が残されていた。
帳面を開くと、そこには取引の記録らしき走り書きがあった。日付、場所、金額。売り先として繰り返し出てくる名前——「たかやま」という仮名(かりな)。
「高山か」と私は言った。
「おそらく。しかし高山は昨晩ずっと宴席にいた。自分で獲りに来られない。だとすれば——」
捕霧七はそこで一度止まった。
「三太、もう一度考えてみよう。お糸が宴席を抜け出したのは、誰かに呼ばれたのか、それとも自ら動いたのか」
「高山が『鯉を食いたい』と言ったとき、すぐに席を立った——」
「自ら動いた、と見える。しかしなぜ、水茶屋の酌女がむらさき鯉の在処(ありか)を知っているのか。普通の女には知りようがない」
私は少し考えた。
「高山の事前の手引きがあったか、あるいは——お糸自身が、その取引に関わっていたか」
「後者だ」と捕霧七は言った。「お糸は与吉の鯉の江戸側の受け取り役だった。普請奉行の役人・高山は上客で、特に珍しい品を求めていた。お糸が仲立ちをして与吉から鯉を仕入れ、高山に届ける——その夜も、酒席で高山が鯉の話をしたのは偶然ではなく、お糸への合図だった。お糸は座を立ち、あらかじめ手配してあった鯉を取りに行った。しかし——」
「しかし誰かに殺された」
「鯉を持ちながら、川に沈められた」
捕霧七は帳面をゆっくりとじた。
「この取引を知っていた、もう一人の人物がいる」
翌日、捕霧七は与吉を探し当てた。
与吉は隣村の親戚の家に逃げ込んでいた。捕霧七が声をかけると、二十歳そこそこの、日焼けした痩せた若者が、怯えた目で私たちを見た。
「殺したのは俺じゃない」と与吉は最初から言った。「お糸さんを殺したのは——俺じゃない」
「わかっている」と捕霧七は穏やかに言った。「話を聞かせてくれ。一番最初から」
与吉の話はこうだった。
半年ほど前、与吉はむらさき鯉を一尾獲り、漁師仲間の禁を破って江戸に売りに出かけた。その鯉を買ったのがお糸だった。お糸は高山への橋渡し役として、与吉から定期的に鯉を仕入れるようになった。
しかし二ヶ月ほど前から、もう一人の人間が現れた。
お糸の元の亭主——離縁した夫・庄三郎(しょうざぶろう)だという。庄三郎はお糸が鯉の取引で金を稼いでいることを嗅ぎつけ、「分け前をよこさなければ奉行所に告げる」と脅し始めた。
「禁漁の密売だから、お糸さんも俺も、お縄になるのが怖くて——庄三郎に金を渡し続けていたんです。でも先日、お糸さんが庄三郎と大きな口論になって、もう金は払わないと言った——その翌日に、お糸さんが死んで」
「庄三郎はどこにいる」
「わかりません。あの人は居所を定めない人で——」
その晩、捕霧七は私にある役を頼んだ。
「三太、川沿いの居酒屋を回って、庄三郎という男の噂を集めてくれ。三十前後、後家風の連れをよく持ち歩く男だという話がある」
「後家風の女? まさか、徳兵衛の店に来た——」
「あの女は庄三郎が使った人間だ。鯉を取り返しに行かせたのは、証拠を消すためだ。枕元に紫の鱗が落ちていたという話は、お糸と近い場所にいた者でなければ知りえない。庄三郎はその夜、お糸を川に沈めた後、鱗が残っていることに気づいた。証拠を消すため、女を使って鯉を回収させた」
「では庄三郎はお糸に近い場所にいた——川沿いで待ち伏せていたということか」
「そうだ。お糸が鯉を受け取った後、帰り道で」
私は夜の居酒屋を三軒回った。四軒目で、庄三郎という名を知る船頭を見つけた。男は本所の賭博場(とばくじょ)に顔を出すことがある、という話だった。
捕霧七はその情報を聞くと、すぐに立ち上がった。
本所の賭博場は、表向きは煙草屋の裏手にある怪しい建物だった。
賭博(とばく)は江戸幕府が厳しく禁じていたが、完全に根絶することはできず、賭場(とば)と呼ばれる非合法の場所が各所に存在した。骰子(さいころ)を使った丁半博打(ちょうはんばくち)や、花札(はなふだ)を使った遊びなどが行われ、遊び人や侠客(きょうかく)と呼ばれる的屋(てきや)の親分などが仕切っていた。ロンドンの非合法クラブとよく似た存在だが、摘発されると主催者は島流し(しまながし)——流刑——になる場合もあった。
捕霧七は十手(じって)を懐に入れて、私を連れて裏口から入った。煙草と酒と人いきれの匂いが充満した薄暗い部屋に、十数人の男たちが骰子を囲んでいた。
捕霧七は一瞬で部屋を見渡した。
「あの男だ」
隅に座った、三十過ぎの色の黒い男——ロンドン時代なら彼はすぐさま「目の下の隈、爪の汚れ、上着の左袖の泥」などと分析しただろうが、今は江戸の所作で言った。「着物の袖口に川泥の跡。右手の甲に古い傷。漁師や船頭ではない手つきで骰子を持っているが、水仕事に慣れている」
男は捕霧七の視線に気づいて立ち上がろうとしたが、捕霧七はすでに十手を見せていた。
「庄三郎だな。神田の捕霧七だ。お糸の一件で話を聞きたい」
男の顔が青くなった。
庄三郎はその夜、南町奉行所に引き渡された。
自白はほどなく取れた。お糸が金を払わなくなったことを怒り、川沿いで待ち伏せ、口論の末に川に突き落とした——刑事事件としては単純な構造だったが、背景に禁漁の密売があったため、高山伝兵衛も調べを受けることになった。普請奉行の役人が禁漁の魚を買い続けていたことは、幕府の体面にも関わる話で、その後の処分については私たちの関知するところではなかった。
事件の後日、甚兵衛の老漁師が捕霧七に言った。
「むらさきはな、縁起が良いというより、この川の守り神なんですよ。それを売り買いするから、こういうことが起きる。この先は誰も手を出さないようにしてほしいんだが——」
「難しいことです」と捕霧七は言った。「美しいものは、いつでも人の欲を引きつける。それは魚でも、宝石でも、同じことですから」
老人はしばらく川を眺めてから、静かに頷いた。
秋の江戸川に、夕陽が橙色に降り注いでいた。
水面が光っている。どこかに、あのむらさき鯉がいるのだろうか。誰の欲も引きつけず、誰の手にも触れられることなく、ただ静かに川底を泳いでいる——そんな場所が、この世にあるのだろうか、と私は思った。
「捕霧七さん」と私は言った。「あの鱗の美しさは、本物でしたね」
「そうだ」と彼は言った。煙管を指先で持ちながら、川を見ていた。「美しいものが罪を犯すわけではない。美しいものを前に、抑えの利かなくなる人間の方が——問題なのだ」
夕暮れの川面に、何かが一瞬きらりと光った。
魚が跳ねたのか、波の反射なのか、私にはわからなかった。
【結末:ロンドン時代】
気がつくと、私はベイカー街の居間にいた。
暖炉が赤く燃え、ホームズはテムズ河流域の地図をしまいながら、椅子に深く腰を下ろしていた。
「ホームズ」と私は言った。「希少なものが犯罪を呼ぶという話は、どこでも同じらしい」
「夢の話をしているのか」とホームズは言った。しかし目は少し遠くを見ていた。「むらさきの鯉、か。美しい色だった」
「君も見たのか」
「見た。川の底に光るものがあった。手を伸ばそうとして、伸ばさなかった」ホームズは静かに言った。「ワトソン、どんな美しいものも、それを所有しようとした瞬間に、別の何かになる。野に咲く花を摘んだとき、それはもう野の花ではない。川を泳ぐ鯉を掴んだとき、それはもう川の鯉ではない」
「哲学者のようなことを言う」
「違う」とホームズは言った。「これは化学の話だ。物質は、その環境から切り離された瞬間に、性質が変わる。同じことが、美しいものにも起きる」
窓の外に、九月のロンドンの夜霧が出ていた。ガス灯の光が霧に溶けて、水面に映る灯台の光のように揺れていた。
ホームズはバイオリンを手に取り、ゆっくりと旋律を奏で始めた。川の流れのように、低く、静かに、どこまでも続いていく音楽だった。
本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および
岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
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