【ホームズ捕物帳】第二十六話:茅場町の女行者の冒険〜 The Adventure of the Kayabachō Prophetess 〜
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ホームズ捕物帳 ~ロンドンの名探偵、江戸に転生して岡っ引きになる
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)
第二十六話:茅場町の女行者の冒険
〜 The Adventure of the Kayabachō Prophetess 〜
【冒頭:ロンドン時代】
一八九三年、二月のことである。
ベイカー街の居間は珍しく昼間から薄暗く、空は鉛色の雲に厚く覆われていた。ホームズは炉棚に肘をつき、煙草の煙をたなびかせながら、手紙の束を丹念に検討していた。
「ワトソン」と彼は唐突に言った。「信仰というものを、どう思うかね」
私はちょうど医学雑誌を読んでいたところだったので、少し顔を上げた。「それは医者に問うには難しい質問だ。私は患者の回復に際して、時おり説明のつかない力の存在を感じることがある。しかし——」
「だが科学者としては認めかねる、と言いたいのだろう」ホームズは薄く笑った。「正直な答えだ。私が問いたいのは信仰の真偽ではない。信仰を道具として使う人間の心理だ」
「詐欺師のことを言っているのか」
「言い方は悪いが、本質はその通りだ」ホームズは手紙の一枚を私に向けた。「この依頼を見たまえ。依頼人は著名な聖職者の権威を語る人物に多額の金を注ぎ込んでいる。証拠もない、根拠もない。あるのは、その人物が放つ『霊的な何か』への盲目的な信頼だけだ」
「それが偽物だと?」
「偽物かどうかは今はわからん」ホームズは煙を吐き、目を細めた。「だが確かめる価値はある。人間が最も無防備になる瞬間というのは、恐怖と敬虔心が合わさったときだ。その隙間に入り込む者の手口は、時代が変わっても変わらない」
その日の午後、私たちはハンサム馬車でシティの依頼人のもとへ向かった。二月のロンドンは霧が濃く、ロンドン橋の上は視界が数ヤードしかなかった。橋の欄干の向こうは白い霧の壁であり、足元の石畳は濡れて黒光りしていた。
そのとき——橋の上で突然、馬が嘶いた。
霧の中から走り込んできた別の馬車と激突したのだ。私は衝撃で跳ね飛ばされ、ホームズの叫び声を聞いた——いや、聞いたと思った。
次の瞬間、私はテムズ河の冷たい水の中にいた。
そして——すべての音が遠ざかった。
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
意識が戻ったとき、私の鼻をついたのは、何か甘い煙の匂いだった。
お香というものを、私はそれまで博覧会の東洋館でしか嗅いだことがなかったが、これはそれだ、と直感した。沈香(じんこう)——あるいは白檀(びゃくだん)と呼ばれる、南方から運ばれてくる香木を焚いた、甘く深い薫香である。ロンドンの石炭の煙や馬糞と皮革の匂いとは、まったく異なる種類の香気だった。
私は畳の上に横たわっていた。
身を起こすと、窓の外に江戸の屋根並みが見えた。軒を重ねる木造の家々と、その向こうに薄青い空。町人たちが行き交い、売り声が風に乗ってくる。私がここに来るたびに思うのだが、江戸の朝というのはひどく賑やかだ。豆腐売り、納豆売り、物売りたちの声が、まるで都市そのものが呼吸しているかのように響いてくる。
「三太」
捕霧七の声がした。
振り返ると、彼は行灯の明かりの下で何か白い粉を小皿の上に載せ、指でこすりながら、じっと見ていた。ロンドン時代に化学の実験をしていたのと、まったく同じ所作である。江戸では試薬の代わりに灰や炭や草木の汁を使うが、彼の目の光は変わらない。
「また始まったのか」と私は言った。「今度は何を調べている」
「この粉の成分だ」と彼はそっけなく答えた。「香の灰の中に交じっている。それだけだ」
そのとき、表の戸を叩く音がした。
訪ねてきたのは、神田の同心(どうしん)——岡崎源之丞(おかざき げんのじょう)という役人であった。
江戸の町の治安を担う「町奉行所(まちぶぎょうしょ)」には、行政と司法の両方を兼ねる長官である「町奉行(まちぶぎょう)」がおり、その下に「与力(よりき)」「同心(どうしん)」という役人が連なっている。ロンドンで言えばスコットランド・ヤードの警部と巡査に当たるが、江戸では南北二つの奉行所が月ごとに交代で全市の事件を担当するため、その守備範囲は広大だ。
岡崎同心は四十がらみの、ぎゅっと眉根を寄せたような顔をした男で、捕霧七とは旧知の仲である。彼が顔を見せるときは、決まって難しい案件を携えてくる。
「捕霧七どの」と岡崎は言った。「茅場町(かやばちょう)に少々厄介な女が出ております」
茅場町は日本橋(にほんばし)川の東岸に位置する町で、問屋や薬種商が軒を連ねる商業地区だ。「厄介な女とは」と捕霧七は粉から目を離さずに訊いた。
「女行者(おんなぎょうじゃ)でございます。年は十七か十八の美しい娘で、公家(くげ)の冷泉家(れいぜいけ)の出と名乗り、祈祷(きとう)を業として、信者から多額の寄進を受けております」
岡崎はそこで声を低くした。
「当節、勤王(きんのう)の浪士どもがあちこちで跳梁しておりましてな——」
私が江戸に来てまだ日の浅かった頃、捕霧七が教えてくれたことがある。文久年間というのは、江戸の幕府(将軍を中心とする政府)と京都の朝廷(天皇を中心とする宮廷)とのあいだに激しい政治的緊張が走っていた時代だ、と。「尊王攘夷(そんのうじょうい)」——天皇を尊び、外国を打ち払え——という思想を掲げた浪士たちが各地で活動し、幕府の役人はその動向を絶えず警戒していた。今のロンドンで言えば、アイルランドの過激派が王都で暗躍しているような情勢、と私なりに理解している。
「その女行者が、勤王の浪士に資金を流しているのではないかと」と捕霧七は言った。問いではなく、確認だった。
岡崎は頷いた。「子分の調べでは、葺屋町(ふきやちょう)の紙屋の息子、久次郎(きゅうじろう)という若者が、その女にたぶらかされて、わずか一月ばかりのあいだに二、三百両もの大金を運び込んだらしゅうございます」
二、三百両——江戸の貨幣は複雑な体系を持っているが、一両はおおよそ現代の数十万円に相当する。三百両と言えば、中流の商家が三年かけて積み上げるほどの金額だ。
「しかし確たる証拠がない」と岡崎は続けた。「祈祷所はお会式(おえしき)——十月十二日の日蓮宗の祭礼——の前日に取り壊される予定で、それまでにどうにかせねば、女は姿を消してしまいましょう」
捕霧七はようやく粉から目を上げた。
「久次郎という若者は、今どこにいる」
「それが——失踪いたしました。お会式の前日から、姿が見えないのです」
その言葉に、捕霧七の目が静かに光った。
岡崎が去ったあと、捕霧七はしばらく煙管(きせる)を膝に乗せたまま考えていた。
煙管というのは、ロンドンのパイプに相当する喫煙具だが、形がまるで違う。細長い金属または竹の管の両端に、雁首(がんくび)と呼ばれる金属製の小さな皿と、吸口(すいくち)がついているだけで、胴が短いため一服が短い。捕霧七は考えるとき必ずこれを手に取るが、火をつけることは半分も満たない。ロンドン時代のパイプと同じ習慣だ。
「三太、女行者というものがどういう存在か、知っているか」と彼は言った。
「修行者、ということだろうか。宗教的な——」
「そうだ。江戸では、仏の力や神の力を体に宿した存在として祈祷を行う者を『行者(ぎょうじゃ)』と呼ぶ。男が多いが、女が行者を名乗ることもある。優れた霊能を持つとされる公家の娘が江戸に下ってきた、などという触れ込みは、信者の心に最も深く刺さる言葉だ」
「つまり——詐欺師の可能性がある」
「可能性ではない」と彼は言った。「詐欺師だ。問題は、何が目的か、だ。金か、それとも政治か」
捕霧七は立ち上がり、着物の袖を整えた。
「祈祷所を見に行く。三太、一緒に来い」
茅場町の祈祷所は、間口三間ほどの古びた借家に設えられていた。
表には注連縄(しめなわ)が張られ——神聖な場所を示すための縄のことで、ロンドンの教会の扉に掲げられる聖印に相当する——白木の小さな鳥居が立てられていた。私たちが近づくと、すでに十数人の信者らしき男女が戸口の前に列をなしていた。
「随分な賑わいだな」と私は言った。
「評判が立つのは早い」と捕霧七は応えた。「特に、信じたい人間が多い時代には」
私たちは信者を装って列に加わった。
内部は薄暗く、香が濃く焚かれていた。この香気が、先ほど捕霧七が調べていた粉と同じ種類だと、私は直感した。奥の間は几帳(きちょう)——絹を張った仕切りの衝立で、貴族の邸宅などで使われる間仕切りだ——で区切られており、その向こうに人の気配があった。
やがて、几帳の内側から声が聞こえた。
若い、しかし落ち着いた声だった。
「次の御方を」
信者が一人ずつ奥に通される。私たちの番になったとき、捕霧七は几帳の前で足を止め、静かに腰を下ろした。
几帳の向こうに、女の影が浮かんでいた。
白い衣に身を包み、高く結い上げた黒髪に神具の玉飾りをつけた、若い女だった。公家風の化粧——白粉(おしろい)で顔を白く仕上げ、眉を細く描き直した——が、その顔をどこか人間離れした印象にしていた。なるほど、これは効果的だ、と私は思った。薄暗い中で香に包まれ、白く浮かび上がるこの顔を見れば、信仰の薄い者でも圧倒されるだろう。
「お困りのことがおありとか」と女は言った。
「久次郎どのの行方を知りたい」と捕霧七は静かに言った。
几帳の向こうで、ほんの一瞬——気配が固まった。私はそれを感じた。捕霧七はもちろんそれを感じたうえで、先を続けた。
「久次郎どのの親御さんから頼まれた者です。心配しておられる」
「……知りません」と女は言った。声の揺れは、わずかだった。しかし捕霧七には十分だったはずだ。
「左様ですか」と彼は言い、静かに立ち上がった。「では失礼いたします」
外に出ると、私は思わず訊いた。
「あれだけですか」
「いや、十分だ」と捕霧七は言った。「三太、今の女の部屋を見たか」
「見た。白木の祭壇に、幣束(へいそく)があって——」
「もっと細かく見ろ」と彼は少し苛立たしそうに言った。しかしすぐに表情を和らげた。「几帳の内側の隅に、書き付けの束があった。薄い紙を折りたたんだもの。あれは信者への祈祷の言葉ではない。文書だ。そして、あの香——」
彼は懐から小さな紙包みを取り出した。いつのまに取ったのか、と私は驚いた。
「あの祈祷所の香は、尋常な沈香ではない。麻(あさ)の実を混ぜて焚いている。微量だが、長く嗅いでいると感覚が弛緩し、心が開きやすくなる。信者が通い詰めるうちに判断力が鈍るのは、信仰の深まりではなく、この香のせいだ」
「それは……」
「ロンドンのあの薬物屋の手口と同じだ」と彼は静かに言った。「方法は東西で変わらない。人の心の隙間に入り込む方法は、いつの時代も、どの場所でも」
その夜、捕霧七は子分の一人を呼んで、紙屋の久次郎の足取りを調べさせた。
翌朝になって報告が入った。久次郎は失踪の前日、深川の方にある小さな船宿(ふなやど)に一人で泊まったらしい、ということだった。船宿とは、水路の多い江戸で、荷船や渡し船を手配するかたわら旅人に宿を提供する施設で、ロンドンのテムズ河岸のドックサイド・インに近いものだ。
「深川か」と捕霧七は言った。「三太、支度しろ」
深川(ふかがわ)は、江戸の東部、大川(おおかわ)——隅田川のことだ——の対岸に広がる水辺の町で、材木問屋や鳶職人、船大工たちが多く住んでいた。武家地や商家の多い城下とは少し違う、荒削りで生気ある町の空気があった。
船宿の主人は最初渋ったが、捕霧七が十手(じって)を静かに卓上に置くと、すっと顔色が変わった。十手というのは、岡っ引きが腰に差す一尺ほどの鉄の棒で、横に小さな鉤(かぎ)が出ている。これを持つ者は、町人を取り調べる権限を持つと広く知られているため、見せるだけで相手の態度が変わることが多い。ロンドンで言えばスコットランド・ヤードの手帳を示すようなものだ。
「若い男が一人で泊まったはずだ。紙屋の息子、久次郎という」
「……おりました」と主人は言った。「一晩泊まって、翌朝、女と一緒に出て行きました」
「女?」
「年は二十前後の、色白のきれいな——なんといいましょうか、公家風の身なりの」
捕霧七は私を振り向いた。
「彼女が自ら久次郎を引き取りに来た。面白い」
「どういうことです?」
「久次郎は自分の意志で失踪したのではない。連れ去られたのだ」と彼は言った。「ただし——暴力によってではなく、言葉によって。おそらく彼は、祈祷所の女に何か『使命』を与えられた。どこかへ行き、何かをせよ、と。そしてその指示に従って動いている」
「では今、どこに?」
「それを探る。ただし急がねばならん。お会式の前日というのは、明後日だ」
翌日の朝、事態が動いた。
捕霧七のもとへ、子分の一人が血相を変えて駆け込んできた。
「親方——久次郎が見つかりました。日本橋の橋の下で、気を失って倒れているのを、魚河岸の者が見つけました」
「生きているか」
「生きております。ただ、正気が戻っておりません。ぼんやりして、人の言葉が入らないようで——」
私は医師として直感した。薬だ、と。
捕霧七も同じことを考えていたらしく、現場に駆けつけると、真っ先に久次郎の呼気を嗅いだ。彼が私に向かって頷いた。間違いない。私も確認した——かすかだが、あの祈祷所で嗅いだ香と同じ気が、彼の衣から漂っていた。
久次郎は二十二、三の若者で、柔らかな顔立ちをしていた。紙屋の息子らしく、手は白く、指が細い。正気がないとはいえ、体に外傷はなかった。ただただ虚ろな目をして、空を見ていた。
「久次郎どの」と捕霧七は静かに声をかけた。「女行者から、何かを届けるよう言われましたか」
久次郎の唇が、かすかに動いた。
「……届けた」
「何を、誰に」
「……文を……橋の西詰の——」
そこで言葉が途切れた。
しかし捕霧七は十分だと見たらしく、立ち上がった。
「三太、久次郎を彼の家に送り届けてくれ。回復するはずだ。あの香の効果は長くない。私は橋の西詰へ行く」
「一人でですか」
「一人で十分だ」と彼は言った。「ただし、捕まえてくるのは私の仕事ではない。証拠を確かめて、岡崎どのに渡す——それが私の仕事だ」
その日の夕刻、捕霧七が戻ってきたとき、彼の顔には珍しく疲労の色があった。
しかし目は澄んでいた。
「わかった」と彼は言った。
久次郎が届けた文は、特定の旅籠(はたご)に滞在していた浪士たちへの連絡文書だった。勤王の浪士たちが江戸で動く際の資金調達ルートと、次の接触場所が記されていた。女行者はその運び屋として、信者である久次郎を利用していたのだ。
しかし捕霧七の調べでわかったのは、それだけではなかった。
「女の身元を探った」と彼は言った。「公家の冷泉家の出、というのは嘘だ。実際は、京都の寺の女中の娘で、幼い頃から神事の場に出入りし、祈祷の作法を覚えた。本人に霊能などというものはない。ただ——」
彼は少し間を置いた。
「才能はある。演技の才能が。信者の心の動きを読んで、相手が聞きたい言葉を言う才能が」
「それは……」
「ホームズの能力と、方向が逆なだけだ」と彼は静かに言った。「私は事実から人の内面を読む。彼女は人の望みから、事実らしいものを作り出す。どちらも、人の心の読み方の話だ」
私は何も言えなかった。
捕霧七は岡崎同心に、集めた証拠をすべて渡した。文書の写し、香の成分の分析、久次郎の証言の要旨。女行者は翌朝、信者を装った役人たちによって祈祷所ごと押さえられた。
名前はお縁(おえん)という、十八の娘だった。
お会式の前日、私と捕霧七は日本橋の橋の上に立っていた。
江戸の橋は、ロンドンのテムズ橋とは全く趣が異なる。石造りではなく木造で、欄干も木の柱だ。橋の上では様々な物売りが店を広げており、通行人が絶えない。橋のたもとには掲示板——「高札(こうさつ)」というものが立てられており、幕府の布令(ふれ)や禁制が書かれた板が掲げられる。これはロンドンの官報掲示に近い。
「お縁という娘を、どう思う」と私は訊いた。
捕霧七はしばらく橋の下を流れる川を見ていた。秋の川面は光をはじき、遠くに荷を積んだ猪牙舟(ちょきぶね)の影が動いていた。
「哀れだ」と彼はついに言った。
「哀れ?」
「才能を間違った方向に使わされた。あの娘は——おそらく自分から進んで浪士の使い走りになったわけではない。誰かに最初に目をつけられ、使われた。そしてその術中で、どこかで本人も信じるようになってしまったのかもしれない——自分が本当に何か特別な使命を持っていると」
「信じる、というのは——」
「人間を最も強く動かす力だ」と捕霧七は言った。「証拠も論理も、信仰には勝てない。だからこそ、その力を操ろうとする者が現れる。それはロンドンにいようと江戸にいようと、変わらない」
橋の向こうから、お会式の太鼓の音が、低く遠く聞こえてきた。
秋の江戸の空は高く、雲が薄く伸びて、夕暮れの光が街道の石畳——いや、土の道を——橙色に染めていた。
「捕霧七さん」と私は言った。「あの香のことだが——あれがなければ、久次郎はもっと早く正気に戻れたのか」
「そうだ。だが」と彼は言った。「香がなくても、あの娘の言葉だけで、多くの者は引き寄せられただろう。それが——人の心というものだ」
私は黙ってうなずいた。
橋の下で、川が光りながら流れていた。
【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
暖炉の火が赤く揺れていた。ホームズは机の前に座り、さまざまな薬品の瓶を並べて、何かの粉末を指に取って嗅いでいた。
「ホームズ」と私は言った。「また奇妙な夢を見た」
「江戸の夢かね」と彼は振り向いた。「私もだ」
「君も見たのか」
「毎回見る」とホームズは言った。「しかしワトソン、今回のことを考えてみたまえ。信仰を道具にする者がいる。その手口の核心は何だと思うかね」
「相手の心の隙間を突くこと——だろう」
「正確には——相手が信じたいものを用意することだ」ホームズは瓶を一つ手に取り、光にかざした。「人は証拠を求めていない。安心を求めている。恐ろしいとき、迷っているとき、自分を救ってくれる何かが目の前に現れたら——論理など吹き飛ぶ」
「それは君が最も軽蔑するものだ」
「軽蔑はしない」とホームズは言った。それは珍しい言葉だった。「それが人間というものだ。ただ——その弱さを悪用する者を、私は許さない。それだけのことだ」
窓の外に、二月の霧が出ていた。
ホームズはもう一度、指の粉末を嗅ぎ、静かに笑った。
「面白いことに、あの江戸の香と同じ成分が、ロンドンでも催眠剤として使われた記録がある。人間は洋の東西を問わず、同じ方法を思いつくものだ」
「それは——やはり、人間の心が同じだということかな」
「そうかもしれん」とホームズは言った。「そしてそれが、われわれがどこにいても仕事を続ける理由でもある」
暖炉の火が、ゆっくりと爆ぜた。
本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および
岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
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