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【ホームズ捕物帳】第三十二話:深川の海坊主奇談〜 The Hound of the Deep Waters 〜

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ホームズ捕物帳 ~ロンドンの名探偵、江戸に転生して岡っ引きになる

著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)


第三十二話:深川の海坊主奇談

〜 The Hound of the Deep Waters 〜


【冒頭:ロンドン時代】

一八九一年、八月の終わりのことである。

ロンドンはめずらしく晴れ渡っていたが、テムズ河の水面だけは相変わらず濁った褐色を湛え、橋の下に陰影を落としていた。私、ジョン・H・ワトソンは、ホームズとともにタワー・ブリッジのたもとを歩いていた。夕刻の川べりには魚臭い風が吹き、波止場の荷役人夫が荷物を積み下ろす騒々しい音が響いていた。

「ワトソン」と、ホームズは唐突に言った。「河の怪物というものを、君は信じるかね」

「河の怪物?」と私は繰り返した。「ネッシーのようなものか」

「それより身近なものだ」ホームズは橋の欄干から身を乗り出して、黒い水面を見下ろした。「伝説の怪物というのは、大抵において、人間が作り出す。恐怖が形を持ったとき、それは怪物と呼ばれる。しかし実際には——」

「実際には?」

「怪物の正体を追えば、必ず人間に行き着く」

私がその言葉の意味を問い返そうとした、その瞬間だった。

岸壁の石段を降りようとした私の足が、夕暮れの光の中で濡れた苔を踏み滑った。私は体勢を崩し、ホームズの腕を掴んだ。二人してテムズの冷たい水の中へ転落したのは、あっという間の出来事であった。

八月とはいえ、テムズの水は底冷えがした。水面へ出ようともがいたが、橋脚の引き波に引き込まれ、やがて意識が遠のいていった。

そして——いつものように——気がつくと、私は別の場所にいた。


【本編:江戸での事件】

——和登三太の語り——

目が覚めると、生魚と潮と、それから何か別のもの——堀の泥のような、独特の湿った匂いが鼻を突いた。

体を起こすと、私は木の桟橋の上に横たわっていた。

あたりを見回せば、夕暮れ色に染まった水面が四方に広がり、そこかしこに荷を積んだ平底の舟が繋がれている。水際には蔵が建ち並び、荷揚げ場には縄で縛られた荷物が積み上げられていた。ロンドンのドックランドにも似た光景だったが、煉瓦と石ではなく、木と漆喰でできた蔵の白壁が、夕日を受けて橙色に染まっていた。

「深川(ふかがわ)だ」

隣に、捕霧七が座っていた。

相変わらずの鋭い目で水面を眺めながら、煙管を懐から取り出してゆっくりと吸い口を咥えている。着物の腰には十手が差してある。

深川——それは江戸の東の外れにある水の町であった。隅田川を渡ったその先に広がる低地で、縦横に掘割(ほりわり)が走り、材木を扱う商人や魚河岸に関わる者、廻船(かいせん)問屋などが軒を連ねている。ロンドンで言えばドックランドや川下の波止場に近い、ごった煮のような活気に満ちた地区である。

「三太」と、捕霧七は煙管の煙を吐き出しながら言った。「今夜、仕事がある」

「どんな」

「海坊主(うみぼうず)が出るそうだ」

私はしばし言葉を失った。

海坊主——それは、日本古来の海の怪物の一種である。丈高く、漆黒の体を持ち、夜の水面から突然現れて船を転覆させると言われている。ロンドンのクラーケンや人魚伝説に当たるものだが、こちらはより禍々しい。

「怪物の話か」と、私はようやく言った。「我々の仕事は岡っ引きではないか。怪物退治は……」

「怪物の正体を暴くのが仕事だ」と、捕霧七はさえぎった。「同じことだよ、三太」

その言葉が、さっきテムズ河畔でホームズが言った言葉と寸分違わぬ響きを持っていたので、私は奇妙な眩暈を覚えた。


事の発端を話す前に、少し深川という土地のことを説明しておかなければならない。

江戸という都市は、徳川将軍家が統治する武家の首都であるが、その実態は商業都市でもあった。特に深川は、町人(ちょうにん)——商工業に従事する庶民階級——が暮らす地区で、武士よりも職人や商人の気風が強い。

掘割(ほりわり)は江戸の水運の要である。ロンドンの運河にも似ているが、こちらは荷物の運搬のみならず、生活排水も流れ込むため、夏ともなれば独特の匂いを放つ。その代わり、新鮮な魚介類がそこかしこで売られ、深川のアサリ飯(めし)は江戸名物のひとつとなっている。

その深川の掘割に、ここ十日ほど、奇妙なものが出没しているというのだった。

夜半過ぎ——江戸では丑三つ時(うしみつどき)と呼ぶ、夜中の二時から三時のあいだのこと——、掘割の水面に巨大な黒い影が現れる。背丈は一丈(いちじょう、約三メートル)を超えるかと見え、頭だけが水面から突き出て、全身は黒々としている。声は発さないが、じっとこちらを見ているという。

これを見た船頭が三人おり、一人は腰を抜かし、一人は熱を出して寝込み、一人は深川から夜逃げ同然に去ってしまったという。

事の次第を知らせてくれたのは、深川の材木問屋「楠屋(くすのきや)」の番頭、亀吉(かめきち)であった。


亀吉が私たちの長屋を訪ねてきたのは、その日の昼下がりのことだった。

四十がらみの男で、日焼けした顔に細かい目が鋭く光っている。深川生まれ深川育ちと見えて、話す言葉も江戸っ子特有のテンポが良い。ロンドンで言えばコックニー訛りの話者に近い印象だった。

「捕霧七の旦那、お頼み申します」と亀吉は言った。「うちの若旦那が、あの化け物に取り憑かれてしまいまして」

「取り憑かれた?」と私は訊いた。

「いえ、幽霊みたいにではなく——その……若旦那が海坊主を見てから、すっかり怖じ気づいてしまいまして、仕事に出ることもできないんでございます。このままでは家業が立ち行かなくなると、お内儀(かみ)さんに頼まれまして」

捕霧七は煙管を膝の上でくるくると回しながら、目を細めた。ホームズがパイプをいじる仕草そのものである。

「若旦那の名は」

「竹造(たけぞう)と申します。二十七になりまして、まだ所帯を持たずにおります」

「楠屋の商売は材木が主か」

「さようで。上流から木を筏(いかだ)で流してきて、こちらで貯木(ちょぼく)して各所へ売り捌きます。材木は重い商売でございますから、舟が命でして。舟を扱う人間が怖じ気づいては、どうにも……」

「竹造が海坊主を見たのは、何度か」

「一度きりでございます。ですが、そのたった一度が、よほど恐ろしかったと見えて——」

「いつのことか」

「十日ほど前の、丑三つ時でございます」

捕霧七はうなずいた。煙管の雁首を静かに煙草盆(たばこぼん)の縁で打ちつけて、灰を落とした。

「夜の掘割を、若旦那はなぜ一人で出歩いていたのか」

「そ、それが……」亀吉はわずかに口ごもった。「その夜に限って、こっそり外に出ていたようで……私どもにはよくわかりません」

捕霧七はそれ以上は追わなかった。しかし私は、彼の目がわずかに光ったのを見逃さなかった。


その夜。

私と捕霧七は、深川の掘割沿いに立った。

蒸し暑い夜だった。江戸の夏は湿気が強く、夜になっても気温は下がらない。蚊取り線香——蚊を追い払うために螺旋状に巻かれた香を焚くもの——を手に持った行商人が昼間は通るが、夜の掘割沿いはひっそりとしている。

水面は暗く、月のない夜だった。提灯(ちょうちん)——和紙に竹の骨組みを通し、内部に蝋燭を灯した手持ちの照明——の光が、黒い水にうつって揺れている。

「捕霧七さん、何かわかったのか」と私は小声で訊いた。

「だいたいはな」と彼は答えた。「あとは確かめるだけだ」

「どういうことだ」

「三太、海坊主というのは何だと思う」

「怪物、ではないのか」

「一丈を超える黒い影が夜の水面に浮かぶ——それが何であるかを考えるのが、われわれの仕事だ」

私は水面を見つめた。提灯の明かりが届く限りでは、何も見えない。黒い水が静かに揺れているだけだ。

「待て」と捕霧七が突然言った。

私は彼の視線を追った。

掘割の対岸——材木を積み上げた蔵の陰——に、黒いものがあった。

丈が高く、人の形をしているようだが、しかしどう見ても人間の背丈ではない。水面から頭一つ分以上が突き出て、全身は暗い色に包まれている。月のない夜の闇の中で、それはたしかに怪物のように見えた。

私の心臓が跳ね上がった。

「あれは——」

「落ち着け、三太」と捕霧七は静かに言った。「よく見ろ。あれは水面から出ているのではない。材木の上に立っているのだ」

言われて目を凝らすと——なるほど。蔵の陰に積み上げられた材木の上に、黒い人影が立っている。材木が高く積み上げられているため、あたかも水面から巨大な生き物が浮かび上がっているように見えるのだ。

「しかし、なぜそこに」

「それを確かめにいこう」


私たちは掘割沿いの道を回り込んで、蔵の裏手に回った。

黒い人影はすでに消えていた。しかし、捕霧七は素早く材木の山の周囲を調べた。荷縄の切れ端、下駄の跡、そして——。

「三太、これを見ろ」

彼が指差したのは、材木の陰に隠された小さな荷物だった。油紙(あぶらがみ)で几帳面に包まれた、人の頭ほどの大きさの荷である。

「開けてよいか」

「開けろ」

紐をほどいて油紙を広げると、中には白い粉のような薬草が詰まった紙袋がいくつかと、小さな帳面(ちょうめん)——記録を記す手帳に当たるもの——が入っていた。

捕霧七は帳面を手に取り、素早くめくった。

「三太」と彼は静かに言った。「楠屋の若旦那、竹造は、なぜ丑三つ時に掘割沿いを歩いていたのか、わかったぞ」


翌日。

私たちは亀吉を呼び、さらに竹造本人と話した。

竹造は青白い顔をした、どこか線の細い若者だった。父親である楠屋の主人の強引な商売のやり方が嫌いで、幼い頃から読書を好む性質だったという。しかしそれが、今回の事件と深く関わっていた。

「竹造さん」と捕霧七は言った。「あなたが夜中に掘割沿いを歩いていたのは、誰かと落ち合うためではなかったか」

竹造はびくりとした。

「それが——」

「隠さなくてよい。あなたの命には関わらない。しかし真実を話さなければ、海坊主の正体も明かせない」

竹造はしばらく迷ったあと、ようやく口を開いた。

「……塾の先生のところに通っていたんです」

「塾?」

「蘭学(らんがく)の塾です。オランダ語を教えてくれる先生で——でも父が大反対で、表向きには行けないものですから、夜中にこっそり……」

私は思わず納得した。

蘭学——これは、オランダ語を通じて西洋の学問を学ぶことを指す。江戸時代の日本は鎖国(さこく)政策を採っており、外国との通商はオランダと中国に限られていた。そのオランダ商館を通じて伝わってきた医学・天文学・地理学などを、オランダ語の原書で学ぶのが蘭学である。ロンドンで自然科学を学ぶことに近い立場と言えようか。

しかし、商家の若旦那が蘭学を学ぶのは、保守的な親の目には「家業をないがしろにする道楽」に映りやすい。竹造は夜中に人目を避けて通っていたのだ。

「その夜、帰り道に、あなたは海坊主を見た」と捕霧七は続けた。

「はい……あんなものが本当にいるとは思っていなかったから、もう腰が抜けそうで」

「無理もない」と、捕霧七は珍しく同情的な声で言った。「しかし実際には、怪物ではなかった」

「えっ」

「材木の山の上に人が立っていたのだ。夜の闇の中で、材木の陰から頭だけが浮かび上がるように見えたのを、海坊主と見間違えた。さらに恐怖が記憶を誇張した——人間の心理というのは、恐れているものをより大きく見せるものだ」

「では、あの材木の上に立っていたのは……」

「それが問題だ」


捕霧七の推理はこうだった。

材木の陰に隠されていた荷物——あの薬草の袋と帳面——は、抜け荷(ぬけに)の証拠だった。

抜け荷とは、幕府(ばくふ)の定めた交易規則を無視して行われる密輸のことである。ロンドンで言えばスマグリング——密輸——に当たる。江戸時代の日本では、輸入品には厳格な規制が設けられており、特に薬品類は幕府の管理下に置かれていた。

楠屋の材木蔵は、川沿いにあるという地の利を活かして、密輸品の中継地として使われていたのだ。

「しかし」と私は言った。「楠屋の主人が関わっているのか」

「主人ではない」と捕霧七は答えた。「亀吉だ」

亀吉は驚いたふりをしたが、捕霧七の次の言葉で顔色が変わった。

「あの帳面に記されていた取引の日付を見れば、楠屋の主人が江戸を離れていた時期と重なる。主人の目を盗んで、番頭が独断で行っていたのだ。材木蔵の鍵を持つのは番頭だけだったからな」

「し……しかし、なぜ私が海坊主に見せかける必要が——」

「見せかけたのではない」と捕霧七はさえぎった。「あれは偶然だった。あなたが深夜に荷物を動かしていたところを、竹造さんが見てしまった。あなたは竹造さんが怖じ気づいて逃げ帰ったと思い、うまくいったと胸をなでおろした。しかし竹造さんが恐怖で倒れ込み、以来外に出られなくなったことで、かえって騒ぎが大きくなってしまった」

亀吉は青い顔で黙り込んだ。

「竹造さんを怖がらせようとしたわけではない。しかし密輸の証拠を隠すために、そのままにしておいた。違うか」

「……違いません」

亀吉は長い溜め息をついて、うなだれた。


「一つ聞かせてくれ」と、亀吉を南町奉行所の役人に引き渡す手続きを済ませた後、捕霧七は私に言った。「竹造は正直な若者だ。蘭学を学んで、西洋の医学や天文学に興味を持っている。あの薬草の袋の内容が何か、彼ならばわかるだろう」

「なぜそれを確かめたい?」

「密輸された薬草が毒であれば、亀吉の罪は重くなる。しかし薬であれば——やや話が変わってくる」

後日、竹造に確かめたところ、例の薬草は、蘭学者の間で痛み止めとして研究されていた、毒性のない植物の一種だということがわかった。亀吉は大きな富を得ようとしたのではなく、老いた母親の頑固な痛みを和らげる薬を、蘭学の伝手を通じて手に入れようとしていたのだという。

「なんと」と私は言った。「それでは、亀吉はただ母のために……」

「規則を破ったことには変わりない」と捕霧七は静かに言った。「しかし、動機を知ることは大切だ。裁くのは奉行所の役人の仕事。我々の仕事は真実を明らかにすることだ」

深川の掘割は、夕暮れの光の中で静かに水を湛えていた。

材木を積んだ筏が、ゆっくりと流れていく。その上に立つ人夫の黒い影が、確かに遠目には大きく見えた。

夜の闇の中で、人の目はどれほど多くのものを作り出すのか——。

「捕霧七さん」と、私は言った。「海坊主は、人の恐怖が作り出したのだな」

「そうだ、三太」彼は静かに答えた。「怪物は、いつも人の心の中にいる。外にいるのは、ただの人間だ」

「……それは、ロンドンでも江戸でも変わらない」

「変わるものか」

どこか遠くで、納涼船(のうりょうせん)の三味線(しゃみせん)の音が聞こえてきた。江戸の夏の夜に、細い弦の音が水面を渡ってくる。その音は、なぜか私に、ホームズがベイカー街の暖炉の前でバイオリンを奏でる姿を思い起こさせた。

竹造はその後、父に正直に打ち明けて蘭学の塾に通うことを認めてもらったと、亀吉に代わって礼を述べに来た際に教えてくれた。若者の目には、新しい光が宿っていた。


【結末:ロンドン時代】

気がつくと、私はベイカー街の居間にいた。

暖炉はいつもの赤い炎を揺らし、ホームズは肘掛け椅子で足を組んで、化学の雑誌を読んでいた。テムズ河の水の匂いが、まだわずかに体に残っているような気がした。

「ホームズ」と私は言った。「奇妙な夢を見た」

「深川の夢かね」とホームズは言った。目は雑誌に向けたままだった。

「……また君も見ていたのか」

「見ていた」ホームズは雑誌を閉じて、私を見た。「ワトソン、怪物というものは、暗闇と恐怖があれば、どこにでも生まれる。しかし光を当てれば——」

「ただの人間の影になる」と私は続けた。

「その通り」ホームズは珍しく、満足げに頷いた。「母親の痛みを癒やしたかった男が密輸をし、蘭学を学びたかった若者が夜中に歩き、それが組み合わさって海坊主が生まれた。実に人間らしい怪物だとは思わんか」

「悲しい怪物だ」

「いや」とホームズは言った。「温かい怪物だ」

窓の外、ロンドンには夜霧が漂い始めていた。ガス灯の光が丸く滲んで、街を柔らかく包んでいる。テムズ河からの風が、どこかで深川の掘割に似た湿った匂いを運んできた——気がした。

ホームズはおもむろにバイオリンを取り上げ、低く穏やかな旋律を奏で始めた。まるで、遠い川の上で聞いた三味線の音に、静かに応えるように。


本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および
岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。


著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)

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