【ホームズ捕物帳】第四十六話:十五夜の番犬の奇談〜 The Adventure of the Full Moon Vigilance 〜
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ホームズ捕物帳 ~ロンドンの名探偵、江戸に転生して岡っ引きになる
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)
第四十六話:十五夜の番犬の奇談
〜 The Adventure of the Full Moon Vigilance 〜
【冒頭:ロンドン時代】
一八九三年、九月の夜のことである。
ベイカー街二百二十一番地Bの居間では、暖炉の火が穏やかに揺れていた。ホームズは煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら、テーブルの上に広げた地図を指でたどっていた。私、ジョン・H・ワトソンは読みかけの医学雑誌を膝に置いたまま、その横顔を眺めていた。
「ワトソン、犬を飼っている家が夜中に騒ぎを起こすとき、その原因は何だと思う」
唐突な問いに、私は少し考えた。
「吠えたのかね。それとも逃げ出したのか」
「どちらでもない」とホームズは言った。「犬が吠えなかった、ということだ。それが問題だ」
「バスカヴィルの時のような話か」
「いや、もっと単純なことだ」ホームズは地図から目を上げた。「犬が吠えないのは、見知った人物が来たからだ。見知らぬ侵入者ならば、犬は必ず騒ぐ。沈黙はすなわち、内通を意味する」
窓の外には、ロンドンの夜空が広がっていた。この夜は珍しく霧が薄く、月が大きく白く浮かんでいた。満月だった。
「あれだけ月が大きいと、何か起きそうな気がする」と私は窓を見ながら言った。
ホームズは苦笑した。「ワトソン、君もとうとう迷信に染まったか」
「そんなことはない。ただ、満月の夜は人の気が立つということが医学的に——」
その時だった。
突然、外から凄まじい馬の嘶きと車輪の軋む音が聞こえ、続いてガラスの割れる音がした。屋根裏に改造実験室を持つホームズが、新しく導入した化学薬品の搬入中に引火事故が起きたのである。
轟音とともに二階の一角が吹き飛んだ。
私たちは爆発の衝撃で部屋の外へ弾き飛ばされ——気づけば、どこか別の場所にいた。
月が、やはり大きく出ていた。
しかしそれはロンドンの月ではなかった。
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
月が出ていた。
それもただの月ではない。大きく丸く、赤みがかった橙色の塊が、江戸の空にどっかりと腰を据えていた。旧暦の八月十五日——江戸の人々が「十五夜(じゅうごや)」と呼ぶ、一年で最も月が美しいとされる夜のことであった。
私と捕霧七が江戸に転生して、はや幾月かが経っていた。
十五夜というのは、ロンドンで言えばハーベスト・ムーンの祭りに近い風習で、人々は芒(すすき)——細長い葉に白い穂をつける秋の草で、月見台に飾るための植物——を縁先に飾り、月見団子(つきみだんご)と呼ばれる丸い白い餅菓子を供えて、月を愛でる。江戸の人々にとって、十五夜は年中行事の中でも特別な夜であり、武家屋敷から長屋の庶民まで、各々の作法でこの夜を楽しむのであった。
もっとも、この夜には別の顔もあった。
「三太」と、捕霧七は縁側から月を見上げながら、煙管の雁首をくるくると回した。「十五夜には泥棒が多いそうだ」
「月が明るいからかね」
「逆だ。月が明るい夜は、人々が縁先や庭に出て月見をしている。屋内は空になりやすい。泥棒にとっては、遠くまで見通せる月明かりが、かえって好都合なこともある——特に、迷路のように入り組んだ江戸の路地では」
捕霧七は月を見ながらそう言ったが、どこか楽しそうだった。ロンドン時代のホームズが、複雑な事件の予感を前にするときの、あの目をしていた。
その翌朝、私たちのもとに相談が持ち込まれた。
相談主は、浅草(あさくさ)の東側、山谷(さんや)のあたりに住まいを持つ、藤七(とうしち)という下駄屋(げたや)の主人であった。
下駄屋というのは、木製の履き物——「下駄」——を売る商人のことである。下駄とは、底に二本の歯(木の突起)が付いた木の台に鼻緒(はなお)を通した履き物で、ロンドンの木靴に少し似ているが、爪先が出ており、雨の日でも地面から足を高く保つことができる。江戸の町人はこれを日常的に履き、歩くたびにカラコロと音を立てる。
藤七は四十がらみの、実直そうな顔をした男で、腰を丸めて長屋の縁側にやってきた。
「岡っ引きの写楽さんにお願いがあって参りました」と、彼は言った。
「聞こう」と、捕霧七は煙管を膝に置いた。
藤七の話はこうであった。
——昨夜、十五夜の夜のこと。
山谷の近く、同じ町内に住む材木商(ざいもくしょう)の大店(おおだな)、越後屋重右衛門(えちごや じゅうえもん)の家で、蔵(くら)が破られた。蔵というのは、土を塗り固めて火事に強くした収納庫で、武家・商家ともに金や大切な品を保管するために使う、ロンドンで言えば金庫室のようなものである。越後屋の蔵には、大枚の金子(きんす)——金貨や銀貨——が収められていた。
ところが不思議なことがあった。
越後屋の門の前には、大きな犬が繋がれている。名をクロといい、見知らぬ者が近づくと激しく吠えたてる番犬である。しかし昨夜、蔵が破られた間、クロは一声も吠えなかった。
「番人も、隣近所も、誰も物音を聞きませんでした。なのに今朝、蔵の錠前(じょうまえ)が壊されていて、金子がごっそり消えていたのでございます」
私は思わず捕霧七の顔を見た。
彼の目が、静かに光っていた。
「犬が吠えなかった、か」と、捕霧七はゆっくり言った。
「へえ」
捕霧七は煙管を一服やって、煙をゆっくり吐き出した。
「三太、昨夜私は何と言ったか覚えているか」
「犬が吠えないのは——」と私は言いかけて、はっとした。
「——見知った人物が来たときだ」
捕霧七は立ち上がり、着物の裾を払った。「越後屋へ行こう」
越後屋は、山谷の大通りに面した堂々たる構えの材木商で、通りに面した格子窓(こうしまど)と白壁が目を引いた。
商家(しょうか)の作りは武家屋敷とも違い、通りに面した部分が店(みせ)になっており、土間(どま)——土のままの床——に品物が並べられ、奥に帳場(ちょうば)——会計をする台——がある。さらに奥が住居(すまい)で、土蔵はその背後に建っていた。
当主の越後屋重右衛門は五十過ぎの、いかにも商人らしい丸みを帯びた体格の男であったが、昨夜の出来事で顔色が悪かった。
「あのクロが吠えなかったのが、合点が行かないのでございます」と、重右衛門は繰り返した。「あの犬は、猫一匹通っても吠えるほどで……」
「クロを見せてもらえるか」と、捕霧七は言った。
門の前に繋がれたクロは、なるほど大きな黒い犬で、私が近づくと低く唸った。捕霧七が近づくと、少し首をかしげて鼻をひくひくさせた後、おとなしくなった。
「なるほど」と捕霧七は犬の首をゆっくり撫でながら言った。「よく躾けられている。しかし——」
彼は犬の鼻先に顔を近づけ、匂いを嗅ぐような仕草をした後、少し考える顔をした。
「重右衛門どの、この犬に餌をやるのは誰か」
「番頭(ばんとう)の清次郎でございます。毎晩、夕餉(ゆうげ)の後に残り物を与えておりまして」
「番頭は何年になる」
「かれこれ十五年ほど……なにか」
捕霧七は答えず、今度は壊されたという蔵へ向かった。
蔵の錠前は確かに壊されていた。しかし捕霧七が観察したのは錠前ではなく、蔵の周囲の地面であった。
彼は腰をかがめ、土の上を指でなぞり、蔵の戸口の木枠の傷を仔細に調べた後、静かに立ち上がった。
「三太、この蔵の錠前は内側から壊されている」
私は驚いた。「内側から?」
「外から無理やり開けようとすれば、錠前の本体ではなく、金具の留め具の部分が傷つく。しかしこの錠前は本体が壊れている。つまり、一度内側に入ってから、内部で錠を外そうとしたか——あるいは最初から内側に誰かがいたか、だ」
「蔵の中に隠れていた、ということか」
「その可能性がある。しかし問題は、なぜ内側から壊す必要があったか、だ」
捕霧七は次に、蔵の中を丹念に調べた。蔵の内部は薄暗く、棚に帳簿(ちょうぼ)や文箱(ふみばこ)——書類を入れる木箱——が並び、奥に大きな木の箱が置かれていた。金子が入っていたという箱である。
彼は棚の埃の積もり具合を指で確かめ、床の板を一枚一枚踏んで歩き、天井の梁(はり)を仰ぎ見た。
やがて、彼は一つの棚の前で足を止めた。
「三太、この棚の埃を見てみろ」
私が近づくと、棚の上には薄く埃が積もっていた。しかし一ヶ所だけ、まるで何かが置かれていたか、触れられていたかのように、埃が完全に拭われている部分があった。
「いつも手が触れる場所ではない。それなのに埃がない」と、捕霧七は言った。「何かが、最近ここに置かれていた——あるいは、ここから取り出されていた——ということだ」
彼は周囲を見回し、しばらく沈黙した後、低く言った。
「重右衛門どの、番頭の清次郎に会わせてほしい」
番頭の清次郎は四十がらみの、細面(ほそおもて)の男であった。主人の重右衛門とは対照的に、どこかひょろりとした体つきで、眉が薄かった。
「昨夜は何をしておられたか」と、捕霧七は静かに問うた。
「はあ……十五夜でございましたから、裏の縁側で月見を少し。その後は早々に休みました」
「犬に餌をやったのは」
「いつも通り、夕餉の後で……夜の四つ(午後十時)頃でございましたでしょうか」
「その後は蔵の近くへは行かなかった」
「行っておりません」
捕霧七は清次郎の目を静かに見た。ロンドン時代、ホームズが容疑者を見るときの、あの鋭くも穏やかな視線——観察の視線——であった。
「清次郎どの、あなたの右の袖口に、白い粉がついている」
清次郎は思わず袖を見た。確かに、米粉のような白い粉が少量ついていた。
「これは……台所で——」
「蔵の棚に積もった埃と、同じ色だ」と、捕霧七は静かに言った。
清次郎の顔色が変わった。
「しかし証拠はそれだけではない」と、捕霧七は続けた。「犬が吠えなかった。クロはあなたを見知っている。毎晩餌をやっているあなたが近づいても、クロは吠えない。そして錠前は内側から壊された——何者かが蔵の中に最初から隠れていたか、あるいは合鍵を持っていたか、だ。番頭のあなたなら、蔵の鍵の在り処を知っている」
しばらくの沈黙があった。
十五夜の名残の空に、昨夜よりも少し欠けた月が白く浮かんでいた。
清次郎はやがて、大きく息を吐いた。
「……旦那、私が悪かった。全部、話します」
清次郎の白状によれば、事の始まりは半年前に遡った。
清次郎には、賭場(とばこ)——賭け事をする非合法な場所——で作った借金があった。江戸には「岡場所(おかばしょ)」や賭場が各所に存在し、表向きは幕府に禁じられているものの、実際には半ば黙認されていた。ロンドンのギャンブル賭場に似た存在である。
清次郎は負けが込み、借金取り(かねかし)に追われていた。そこへ、山谷界隈を縄張りとする盗っ人(ぬすっと)の一味が近づいてきた。越後屋の番頭が仲間にいれば、蔵の鍵と構造を教えてもらえる——そういう算段であった。
「あの蔵の棚に、十五夜の前日から私が隠れておりました。蔵の中に入るのは主人も知らない合鍵があって……旦那が仰った通りで」
「その棚に、隠れるための荷物を置いていた。それが後に消えた跡として残った、というわけか」
「へえ」
「仲間は何人いる」
「三人で……一人が蔵の外で見張りをして、もう一人が金を運び出して——」
「その二人の居場所はわかるか」
清次郎は少し迷った後、静かな声で答えた。
「山谷の木賃宿(きちんやど)に……まだいるかもしれません」
木賃宿というのは、江戸の最も安価な宿泊施設で、宿代の代わりに薪代(きちん)だけを払えば泊まれる宿である。旅人や日雇い労働者、素性の知れない流れ者が多く宿泊し、ロンドンのドスハウス(どん底宿)に近い存在であった。
捕霧七は私を連れて、件の木賃宿へ向かった。
山谷は江戸の北東に位置し、吉原(よしわら)——幕府公認の遊郭(ゆうかく)、すなわち女性を置いた歓楽施設——の近くにあることから、様々な人々が出入りする雑然とした町であった。路地は狭く、軒の低い木造の建物が肩を寄せ合うように建ち並んでいる。
木賃宿の主人に十手を見せると、宿帳(やどちょう)——宿泊者の名前を記録する帳簿——を見せてもらうことができた。岡っ引きには、こうした場所で帳簿を確認する権限が与えられている。
捕霧七は宿帳を素早く確認した後、主人に何事かを耳打ちした。
「三太、裏口を押さえてくれ」
私が裏口に回ると、まもなく表から騒ぎが起きた。捕霧七が担当の同心(どうしん)——下級役人——に連絡を取りつつ踏み込み、二人組を確保したのである。
月明かりの下、私は路地で一人の男と向き合い、なんとか組み付いて押さえた。ロンドンで軍医として叩き込まれた体術が、江戸の夜でも役に立つとは思わなかった。
翌夕、私と捕霧七は長屋の縁側に並んで、月見の残り団子を食べていた。
十六夜(いざよい)の月——十五夜より少し欠けた月——が静かに空に浮かんでいた。十六夜とは「ためらいながら出てくる」という意味があると、隣の蕎麦屋の主人が教えてくれた。なるほど、昨夜の堂々たる満月と比べると、今宵の月はわずかに影が差して、どこか物思いに沈んでいるようにも見えた。
「捕霧七さん」と私は言った。「最初から清次郎が怪しいと思っていたのか」
「最初からではない」と彼は言った。「犬が吠えなかったと聞いた瞬間から、内通者の存在を疑ったが、それが誰かは現場を見るまでわからなかった。蔵の埃の痕、袖の白い粉、そして錠前の壊され方——それらがすべて同じ方向を指した」
「しかし最終的に確信したのはいつだ」
捕霧七は少し笑った。
「クロを撫でたときだ。あの犬は私には少し唸ったが、清次郎には近づいた瞬間から尻尾を振った。毎晩餌をやる相手だから当然だが——そのとき私は確信した。昨夜クロが吠えなかったのは、仲間の一人がクロのよく知る人物、すなわち清次郎だったからだと」
私は月見団子を一つ口に入れた。甘い餡(あん)が舌に広がった。
「犬というのは、正直だな」と私は言った。
「人間より正直だ」と、捕霧七は答えた。「人間は嘘をつく。しかし犬は、本当に好きな相手にしか尻尾を振らない」
彼は煙管を手に取り、十六夜の月を仰いだ。
「三太、ロンドンにいた頃も、確かこんな話をしたと思うのだが」
「したな。犬が吠えなかったことが手掛かりになる、という話を」
「そうだ。あの夜もちょうど満月だった」
私は缶を見上げた。江戸の月は広い空に堂々と浮かんでいる。ロンドンは霧が多く、月をまともに見ることは少なかった。こうして月を眺めながら団子を食べるという風習は、江戸に来なければ知らなかったことだと思った。
「お前さんたち、まだ起きてたのかい」と、隣の豆腐売りが通りがかりに声をかけた。「十六夜も団子かい。太るよ」
「太ることと事件を解決することは、矛盾しない」と、捕霧七は真顔で答えた。
豆腐売りは苦笑しながら去っていき、江戸の夜が静かに更けていった。
【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
爆発の痕跡など、どこにもない。暖炉が赤く燃え、ホームズが肘掛け椅子にゆったりと沈んで、手元の書類を眺めていた。
「ホームズ」と私は言った。「また江戸の夢を見た」
「私も見た」とホームズは答えた。今夜はさほど驚いた様子もなく、当然のように言った。「どうやら十五夜の夜だったようだ」
「満月の夜に転生するのか」
「さあ。しかし今回は、いい事件だった」ホームズはふと微笑んだ。「犬が吠えなかった——あれは本当に使えるな」
「バスカヴィル以来の得意ネタだ」と私は笑った。
「ワトソン、犬という生き物は誠実だ」ホームズは書類から目を上げて、私を見た。「なにしろ、好きでもない相手には尻尾を振らない。人間はその点、いくらでも愛想を作れるが——犬にはその器用さがない。それが、犬を証人として最も信頼できる理由だ」
窓の外には、今夜もロンドンの霧が出ていた。しかし薄い霧の向こうに、丸い月がぼんやりと白く光っているのが見えた。
十五夜に近い月だった。
「来年の十五夜には、また行くのだろうか」と私は言った。
「それは月に聞いてくれ」とホームズは答えた。そして再び書類に目を落とし、また静かに、ベイカー街の夜が続いた。
本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および
岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)
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