告白という形式を映像に変換する困難:オリヴィエ・アサイヤス『クレムリンの魔術師』作品評



監督・脚本:オリヴィエ・アサイヤス 共同脚本:エマニュエル・カレール 出演:ポール・ダノ、ジュード・ロウ、アリシア・ヴィキャンデル、ジェフリー・ライト 2025年 フランス 145分


原作が解決した問題を映画はどう引き受けたか

ダ・エンポリの小説における最大の発明は、告白という形式だ。「私」という語り手がバラノフの一夜の独白を聞くという枠組みが、フィクションとノンフィクションの境界を曖昧にしながら、権力の内側を語らせることを可能にした。バラノフの言葉は直接読者に届く。内面の論理、権力への加担の自己正当化、そして罪の意識の稀薄さが、一人称の告白として機能する。

映画はこの告白の構造を引き継いだ。ジェフリー・ライト演じるアメリカ人研究者がバラノフの話を聞くという枠組みを設け、フラッシュバックで過去の出来事を描く。しかしここに根本的な変換の難しさがある。小説における告白の強度は、読者がバラノフの頭の中に入り込む一人称の密度から来る。映画はその密度を映像と対話に置き換えなければならない。


ポール・ダノが体現した内面の空洞

アサイヤスはこの困難に対して、ポール・ダノという俳優を選ぶことで応えた。ダノの演技の核心は「感情を持ちながら感情を持たないように見せる」という矛盾の体現にある。バラノフは権力の機械を設計した知性の人間だが、その知性ゆえに自分が何を失ったかを知っている。その知性と喪失が、ダノの静かな目に宿っている。

原作でバラノフが語る格言的な台詞、たとえば「人民ほど血に飢えた独裁者はいない」「権威という壁の亀裂は表沙汰にしてはならない」といった言葉は、小説では内面の論理として機能する。映画でもそれらの台詞は生きているが、対話の中に埋め込まれることで、告白から説明へと性質がわずかに変わる。ダノはその変質を最小限に抑える演技をしているが、完全には防ぎきれない。

プーチンを「秘密」として扱う選択

原作小説においてプーチンはバラノフの語りの中に現れる。読者はバラノフの目を通してプーチンを見る。その間接性が、プーチンという人物の謎を保存する。

映画でアサイヤスが選んだのも同じ間接性だ。ジュード・ロウが演じるプーチンは周縁に置かれ、全面には出てこない。この選択は正しい。プーチンを正面から描こうとすれば、伝記映画の罠に落ちる。しかし間接性を映像で実現することは、小説より難しい。映画は具体的なイメージを提示せざるを得ない。ロウのプーチンが画面に現れた瞬間、観客は「これがプーチンか」という判断を下す。小説では読者の想像に委ねられていた謎が、一つの顔に固定される。

ロウはこの困難を、精密な変身よりも存在の不気味さで乗り越えようとした。権力の孤独を漂わせる佇まい、感情を持たない目。その選択は評価できるが、プーチンという実在の人物との距離感の管理が難しく、どこまでがキャラクターでどこからが印象管理かの境界が見えにくい場面もある。


エマニュエル・カレールとの共同脚本が生んだもの

原作者ダ・エンポリとアサイヤスが偶然トスカーナに隣人として住んでいたというエピソードが示すように、本作の映画化は個人的な接触から生まれた。共同脚本にエマニュエル・カレールを迎えたことも、この映画の性格を決定づけた。カレールは「ジョン・ランポール事件」や「王国」で、フィクションとノンフィクションの境界を問い続けてきた作家だ。

その組み合わせが本作に独特の文学的な密度をもたらした。対話の質は高く、権力論をめぐる応酬は知的な快楽を与える。しかし同時に、映画が文学の言語に寄りかかりすぎているという批判も生んだ。145分の中で歴史的事件がテンポよく消化されていくが、それが映像の力でではなく対話の力で処理されているという感覚が残る。

「望んでいなかった。しかし反対もしなかった」

本作の終盤、バラノフがウクライナ戦争への加担について吐く言葉がある。「望んでいなかった。しかし反対もしなかった」。これは原作小説の精神を最も正確に映画に移植した瞬間だ。

この言葉の射程は長い。バラノフ個人の告白であり、同時に現代を生きる全ての傍観者への問いかけだ。民主主義の危機を見ながら、声を上げない人間へのアサイヤスからの問いとも読める。映画はその問いを145分かけて準備し、最後にこの一文に収束させる。その構造の誠実さは、原作への敬意として機能している。

原作小説が言葉の告白という形式で権力の論理を解剖したように、映画は映像の告白という不可能に近い試みに挑んだ。完全には成功しなかったかもしれないが、アサイヤスが選んだ問いは正しかった。21世紀の権威主義はいかにして生まれたのか。その問いへの答えを、映画は冷たく知的な145分で提示している。

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