釣りをするなら紀州釣り
最近、30年ぶりくらいに釣りをした。
といっても本格的なものではなく、港でのサビキ釣りだ。それでも竿を出し、海を眺めているうちに、不思議な感覚が蘇ってきた。
子供の頃は釣りばかりしていた。
休日になると自転車に釣り竿をくくりつけ、友人達と海へ向かう。防波堤や河口、時には少し遠くの波止まで足を伸ばした。
今思えば大した距離ではない。しかし当時の自転車で行ける範囲は、子供にとって世界そのものだった。
地図もない。スマホもない。
それでも、
「今日はあっちへ行ってみよう」
というだけで十分な冒険だった。
釣りの中でも、当時たまにしていたのが紀州釣りだった。
和歌山発祥ともいわれるチヌ釣りの伝統的な釣法で、米ぬかを使ったダンゴを握り、その中に仕掛けを包み込んで海底へ届ける。餌はエビだった気がする。
そういえば、僕は紀州釣りで初めて「ヌカ」というものの存在を知った。
あの頃、どうやって手に入れていたのかも思い出せない。近所の米屋だったのか、精米所だったのか、それとも釣具屋だったのか。
ただ、バケツの中のヌカの匂いと、手のひらに残る感触だけは妙に覚えている。
子供の頃は見よう見まねで挑戦していただけだったが、こないだ久しぶりにしたサビキのアタリに、再び紀州釣りをやってみたい欲が重なった。
もちろん、今から始めるとなると道具を揃え直さなければならない。手元にはもう何もない。
竿やリール、バッカンやタモ網。
釣りは意外とお金のかかる趣味だ。
しかし不思議なもので、本当に惹かれているのは魚にではない気がする。
思い出すのは釣果ではなく、海の匂いだ。
自転車の荷台に括りつけた竿。
照り返しの強い防波堤。
魚臭くなった手。
夕暮れのサイレン。
そして、暗くなるまで海を眺めていた時間。
あの頃は、自転車と釣り竿さえあれば何だってできた。
お金はなかった。
スマホもなかった。
けれど退屈もしなかった。
自転車で行ける範囲が世界の全てで、その世界には十分すぎるほどの自由があった。
だから今、紀州釣りに再挑戦したいと思うのは、チヌを釣りたいからではないのかもしれない。
30年前に置いてきた時間を、もう一度拾いに行きたいのだ。
もっとも、そんなことを考えながらも、実際に始めるかどうかは分からない。
竿を揃え、リールを巻き直し、休みの日に海へ向かう。
言うほど簡単な話でもない。
気力も体力も、そして時間も、あの頃のように無限ではないのだから。
それでも構わないと思う。
必ずしも、昔好きだったものを再び始めなければならないわけではない。
ただ思い出すだけでもいい。
紀州釣りの話をして、ヌカの匂いを思い出し、自転車で走り回っていた頃の自分を懐かしむ。
その時間だって、十分に豊かな時間だ。
もしかしたら僕が再会したかったのは紀州釣りではなく、その頃の自分自身だったのかもしれない。
そして、その答えにたどり着けただけでも、30年ぶりに竿を出した意味はあったような気がしている。

