【ショート】 彼女の役目
―― short story ―—
彼女は、最初から名を持たない役目の中にいた。
この家では、名前よりも、整っていることのほうが大切だった。
町でもよく知られた家で、
困った人が来て、静かに帰っていく。
怒鳴り声はなく、
答えが出ない話も、追い返されることはなかった。
彼女の仕事は、
窓を開けること。
床を拭くこと。
机の角をそろえること。
それだけで、
人の声が落ち着き、
考えが進むのを、彼女は知っていた。
主人は、命令をあまりしない人だった。
必要なことだけを言い、
あとは任せる。
「きみは、この家を守っているわけじゃない」
ある日、主人はそう言った。
「人が、ここで立ち直れるようにしているんだ」
彼女は、うなずいた。
それは、彼女がずっとやってきたことだった。
しばらくして、主人は屋敷を離れることになった。
役目が変わるらしい。
「きみは、不安かい?」
彼女は首を横に振った。
「役目がなくなるなら、不安です。
でも、場所が変わるだけなら、大丈夫です」
主人は、少し驚いた顔をしてから、
笑った。
数日後、彼女は別の屋敷にいた。
少し古く、
少し散らかっていて、
人の気配が濃い家だった。
彼女は、いつも通り、
窓を開け、
空気を入れ替えた。
それだけで、
部屋の音が変わった。
午後、子どもが言った。
「ここ、なんだか安心する」
彼女は、その言葉を胸にしまった。
夕方、前の家から一通の手紙が届いた。
短い文だった。
――きみの仕事は、続いている。
彼女は手紙をしまい、
また床を拭いた。
名前は、やっぱり呼ばれなかった。
でもそれでいい、と彼女は思った。
彼女の役目は、
どこかで、
誰かが前を向けるようにすること。
それは、
なくならない仕事だった。
そしてきっと、
明日も、
大丈夫だった。
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