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3.11 あれからから15年。忘れないでおきたいこと。震災ボランティアの体験。


2011年3月11日から、もう15年が経つのですね。

Facebook に「思い出」機能があって、「過去のこの日」つまり「過去の3月11日」に投稿した記事を見ることができるのですが、15年前の今日はあの地震のことを短く報告していました。

当時の私は、転職活動中で、実家に住んでいて、近所でバイトをしていて、つまり時間や金銭面で余裕があったので、あの地震が起きてから間もないうちに、震災ボランティアに行こうと決めていました。

震災ボランティアについては、1995年の阪神淡路大震災のときにも経験していて、被災地でのボランティアの必要性を学んだと同時に、ちょっと簡単には言い表せない過酷さがあることも知っていました。

慎重に情報を集めて、安全に参加できる仕組みだと感じた「都民ボランティア事業」を利用することにしました。東日本大震災が起きてから約1か月後の、4月下旬に参加しました。

事前に分かっていた概要としては、次の通りでした。

期間は1週間。宿泊・食事付き。必要装具は都が負担。都庁前から大型バスでの送迎あり。被災地の活動は泥かきや瓦礫撤去が想定される。

Facebook を振り返ってみると、ボランティアに出発する日と、ボランティアから帰ってきた日に、それぞれ短い投稿をしていました。「いってきます」と「無事に帰りました」という感じですね。

「近いうちに報告レポート書きます」というような投稿もしていました。でも、そのあと報告レポートを書いた形跡はなく、気づけば15年が経っていました。

何かを書きたかった気持ちは今も鮮明に覚えていて、一方で、どうしても書けなかった。書きづらかった。書く気力が持てなかったのでした。被災地での体験は、被災者じゃなくても、やはり過酷でした。

15年に特別な意味はないけれど、あの時の震災ボランティアの体験について、今の私が覚えていること、忘れないでおきたいことをここに書き残しておきます。メモを残すような気軽さでやってみます。




当時の「都民ボランティア事業」については、検索すると情報が出てくると思います。この先に私が書くことは、あくまで私の記憶と気持ちに基づいたものなので、公式の事実と異なることがあるかもしれません。また、ここにも書き残すつもりはない事柄もあります。どうぞご承知おきくださいませ。


時系列とか関係なく、思いつくままにつらつらと書いてみます。エピソードに簡単な見出しをつけてみるので、気になるエピソードだけ読んでいただいても構いません。目次からどうぞ。




一番忘れることができないのは無力感

従事した活動で多かったのは、泥かきでした。津波で被災した地域に入って、依頼があったお宅の敷地の泥かきをしました。泥かきといっても、泥だけではなく、津波によって流されてきたありとあらゆるものが対象でした。

泥(と、ありとあらゆるもの)は、土嚢袋(どのうふくろ)に入れていきます。二人一組になって、ひとりが土嚢袋を手で広げて持ち、もうひとりがスコップですくった泥を入れていきます。

泥かきは果てしない作業でした。やってもやっても終わらない。ショベルカーなどの重機が入ることのできない狭いところを、私たち人間の手で担うわけですが、どの現場でも「途中まで」しかできなかった記憶があります。

正味5日間の作業日程のうち、泥かきに従事したのは3日程で、さらに作業時間自体はひとつの現場につき2時間程度だったはずです。もっと少なかったかもしれない。それでも長いきつい時間だった記憶があります。

とにかく果てしなかった。私たちが少しでも多く泥かきしないと、ここの人たちはいつまでも大変な状況から抜け出せないという、大きな焦りもあったけれど、私たちがどれだけ頑張っても終わらないのではないかという、圧倒的な無力感のほうが記憶に残っています。

ウジを初めて見た

泥かき作業のなかで、一番過酷だったのは食べ物の残骸の始末でした。津波の被害を受けた魚介類の缶詰工場近くの現場に入ったのですが、その周辺の様子は本当に悲惨でした。

食べ物らしきものには、ほとんどみんなウジが湧いていました。白くて大きなウジがぎゅうぎゅうに集まっているのを見ました。『はだしのゲン』を思い出しました。

私はウジを見るのは初めてのことでした。ウジが湧いているものは、ひどい臭気を放っていました。それらもとにかくスコップですくって、土嚢袋に入れていきます。ウジごとまとめて。

泥かきの作業の途中には、何度か吐き気に襲われました。交代交代で、少しずつ休憩を取るようにしないと、続かない作業でした。4月の東北はまだ少し寒かったけど、汗みどろになりました。いつのまにか、涙も流れていました。

私と一緒に組んでいた、私よりも力もあって、気力もありそうな男性も、例外ではありませんでした。汗みどろになって、涙を流して、弱音も吐きながらも、お互い頑張ろうと励まし合って泥かきをしました。

私たちが現場に入ったのは4月でしたが、その後5月以降に入ったボランティアたち(そしてもちろん被災者の方々)は、大量のハエと闘うことになったと聞きました。

口に出せない恐怖

上記に、泥かきの対象は「津波によって流されてきたありとあらゆるもの」と書きましたが、それらは恐怖の対象でもありました。

墓地が近くにあったというお宅の庭には、卒塔婆の残骸がいくつも流されてきていました。聞くことはできませんでしたが、お骨もあったらどうしようと内心緊張しながら、作業を進めました。

また、とある現場では、わずか数ブロック先の区画で、自衛隊が津波被害に遭ったご遺体の捜索に当たっていました。

私たちボランティアは立ち入り禁止区域となっていましたが、捜索の様子は遠目に見えました。誰かのご遺体が見つかると赤い旗を立て、ご遺体の一部が見つかるとまた別の色の付いた旗を立てる、という様子でした。

ご遺体を直接見ることはなかったけれど、旗が立っているのは見えてしまいました。自衛隊の方々が、長い棒を持って何かを探している様子も見えてしまいました。それを見ただけで、何とも言えない恐怖に襲われました。

泥かきの作業をしながら、ここからご遺体(またはその一部)が見つかってしまうことは本当に無いのだろうかと、口に出せない恐怖がありました。

到着してから2、3日眠れなかった

ボランティア活動の現場は、石巻市と東松島市でしたが、宿泊地は利府(りふ)にある高校でした。部活用の宿舎だったと思います。そこから車で2時間くらいかけて、現場に通っていました。

利府も被災地であることは変わりありませんでしたが、津波の被害はなかったはずです。静かな町だった印象です。宿舎として利用させていただいた高校も新しくて綺麗でした。

宿舎には広い畳の部屋がいくつかありました。参加者(確か50名くらいだった)が男女に分かれて雑魚寝しました。寝袋を持参していましたが、支給された寝袋や毛布を使うことができ、思ったより快適に横になることができました。

私は元々ガールスカウトだったので、寝袋で寝ることや、誰かと雑魚寝することは、子どもの頃から何度も経験していました。だからこそ、このボランティアにも参加できると思っていました。

でも、なぜか、私は到着してから2、3日ほとんど眠ることができませんでした。眠れたとしても、浅い眠りばかり。夢をたくさんみて、疲れが全然取れなかった。7日間のうち前半はとてもしんどかったのを覚えています。

寝心地、といった簡単な問題ではなかったと思います。

私だけに限らず、他の参加者の方も同じような感じでした。夜中に何度も寝返りをうつ人、うなされている様子の人、苦しそうにいびきをかく人。一度、悲鳴のような寝言が聞こえて、飛び起きたこともありました。

なぜだったのか、今もよく分かりません。でも、物凄く緊張していたのだろうと思います。気を張り詰めていたのだろうと思います。日中の作業が精神的にも過酷だったのかもしれません。




メモを残すような気軽さでやってみます、と書き始めてみたら、思い出すことはみんな私にとって「重い」ことばかりでした。ちょっと想定外です。

もしここまで読んで、ご気分を悪くされた方がいらしたら申し訳ないです。大丈夫でしょうか。

こうやって書いてみると、これまで15年の間に書いてこなかった理由が見えてくるような気がしました。

こうしてあの体験を言葉に残すことは、なかなかの重労働なのだなと感じています。震災ボランティアの体験でさえそうなのですから、被災者の方が体験を言葉に残すのって、これは本当に辛いことなのではないかと思います。

でも、忘れないでおきたいことは、こうやって言葉に残しておかないと、いつのまにか思い出すことができなくなってしまうものです。現に他にも何かあった気がするのですが、もはや思い出せなくなっています。

あれから、15年か。

最後に、最近読んだ本を紹介します。この本も、あれから15年の時を経て書かれた本です。

『百年の挽歌 原発、戦争、美しい村』青木理


地震や津波そのものは、私たち人間には防ぎようのない現象だけれど、世の中の惨事には私たちによるものが多くあり、私たちが防ぐことができることが多くあります。

15年前の私と違い、今の私は体力を始めとした余裕が無くなってきてしまいました。また同じような震災ボランティアをすることができるかと問われたら、できないと答えます。

じゃあ、何ができるのか。

今日15年ぶりに思い出したことを忘れないこと、『百年の挽歌』で語られた人々のことを忘れないこと。忘れないだけじゃなく、何ができるか考え続けること。




最後に、震災ボランティアに行った際に撮った唯一の写真を紹介します。

ヘルメット、ゴーグル、粉塵マスク、上下防水レインコート、長靴、軍手と防水グローブといった装備を付けて、車でボランティア現場に向かうときの様子です。



震災ボランティアの体験は良かったなどと、簡単に美談にして残したくはないなと思っています。ああいう体験は、しないで済むならしない方がいい。でも必要とされる状況があって、できると思ったらやってみるといい。




最後の最後に、この記事のトップ画像について書いておきます。

2011年の11月に息を引き取ったうちの猫さんです。震災の年は、私たち家族にとっては猫が死んでしまった年でもありました。だから、「3.11」と聞くといつもうちの猫を思い出してしまう。

でも、癒されますよね。どうか、癒されてください。


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