『僕とパパ 約束の週末』 なぜ親子はブンデスリーガの全チームを見に行くことにしたのか
私には、息子のスタジアムデビューを計画していた過去がある。
初めてのスタジアムは、茨城県立鹿島サッカースタジアムと決めていた。
その体験は劇的でなくてはならず、感動的でなければならないと思っていた。
この映画でも、
「推しのチームはゆりかごにいる時から決まってるのに、推しチームが決まってないなんて、こいつゆりかごから落ちたに違いない。ワハハ」
とクラスメイトに馬鹿にされるシーンが出てくる。
ドイツの場合、推しチームは生まれ故郷だったり、今住んでいる地域の地元チームと相場が決まっている。
私は都民だけれど、推しチームは「FC東京」でも「東京ヴェルディ」でも「町田ゼルビア」でもなく、『鹿島アントラーズ』である。
よって息子が最初に足を踏み入れるスタジアムは、茨城県立鹿島サッカースタジアムでなければならないのである。
(この話にはオチがあって、スタジアムデビューの日を、今か今かと算段している間に、妻に国立競技場(確かヴェルディVSジュビロ戦だと記憶している)に連れて行かれてしまったのである)
私の場合、行くべきスタジアムは一つに決まっていたが、この映画の主人公「僕」は、ドイツ国内のプロサッカーチーム、つまりブンデスリーガ1部から3部の全56チームを見に行くことになったのであった。
なぜ、すべてのスタジアムを見なければならないのか。
その答えは、この映画を見るとたちどころに理解することができる。
主人公の「僕」は自閉症なのだ。
自閉症については、多少知ってはいるつもりだったが、映画をみると、知識の生半可さを恥じるほかなかった。
自閉症と言っても現れる症状は一様ではないから、誰かひとりの症状を知ったからといって、自閉症が分かったなどと考えてはならないのである。
偏見から自由でいるためには、知らなくてはならないし、
日々認識を改めていかなくてはならない。
映画の冒頭で、学校に行く僕が、バス停のいつものベンチにおばあさんが座っていたためパニックに陥るシーンが出てくる。
「息子に席を譲ってもらえないか」と頼まれたおばあさんは、その依頼を断る。
「空いている席に座ればいいではないか」
というのである。
まったくもってもっともな主張で、おばあさんに落ち度はない。
バス停に先に来て、空いているベンチに座っていただけなのだ。
どいてくれなどと言われる筋合いはない。
そして、おばあさんは息子がパニックに陥って右往左往している父親(パパ)に、
「きちんと躾をなさい!」
とアドバイスすらするのだ。
今度はパパがブチ切れる番だった。
「この子は自閉症なんだ! たった50センチ、横にずれてくれたっていいじゃないか! それだけのことじゃないか」と。
このように自閉症児の潔癖さ、いや融通の効かなさは、行く先々でトラブルを引き起こす。
「まあ、いいじゃないかそれくらい」
が通用しない不便さにパパはてんてこ舞いだ。
劇中、何度も「解決して!」と金切り声をあげる「僕」に、
「自分で解決しろよ!」という言葉が喉元まで出そうになった。
解決できない問題に悩むのがこの病の特徴だと言うのに。
健常者は多数派で、「まあ、いいじゃないか」と言われれば、
「まあ、いっか」と譲ることができる。
それゆえに、自閉症と相対した時には「多数派の寛容」が問われるし、自身のネガティブ・ケーパビリティ(問題を解決せずそのまましておける力)も問われる。
少年は、ネガティブ・ケーパビリティがゼロになってしまう病に苦しんでいるのだ。何一つ曖昧なままにはできないのが自閉症の大きな特徴だ。
相手に妥協を求められない時、自分はどこまで寛容でいられるのか。
仕事にかまけて、息子の世話を妻任せにしていた「パパ」は、息子にきちんと向き合う覚悟を決め、仕事でも異動を願い出て息子と向き合うという決断をする。
そして、ドイツ国内すべてのプロチームのスタジアムを見に行くことになるのだが、ちょっとやそっとで、僕のルールに則った推しチームは見つからない。
「僕」が決めたルール、例えば、
スパイクが派手ではないとか、
円陣を組まないとか、
サステナブルであるとかetc
実話を元にしたこの物語、パパと全てのサッカーチームを見て確かめる約束は、現在もまだ続けられているそうだ。
「僕とパパ」は、行く先々でトラブルを起こし、困難に耐え、社会と自分の軋轢に耐えるということを繰り返しているだろう。
「なんでそんな些細なことが、我慢できないのだ」
と思われることだらけだろう。
だが、「些細なことが我慢できない」病が自閉症なのだ。
自閉症について、積極的に知ることが大切だと思うし、寛容でいることが求められる。
冒頭で紹介したバス停のベンチでのエピソードのように、
後からやってきて「そこは僕の席だ!」と喚き散らす子供に、笑顔で席を譲ってやる寛容さが必要なのだ。
相手は、些細なことを蔑ろにできない病を患っていると知ることも必要だ。
そして、そうした人と共に社会を構成していると気付くことも必要なのだ。
そういう意味において、映画というエンターテインメントで、自閉症のひとつの特徴や、付き合い方が楽しみながら知ることができたことは、とても有意義だった。
他方、多数派である健常者は、人は自分と同じであるべきだ!と考える傾向がある。
自分とは、
病気が原因で違っていても、
宗教が原因で違っていても、
国籍が原因で違っていても、
人種が原因で違っていても、
自分と違うと言うだけで、「あいつらはおかしな奴らだ」と考えがちである。
学校でのいじめから、外国人差別まで、私たちは異質であるものをそのままにしておくことが苦手だ。
私たちは多数派なので、「相手が間違っている」と考えがちだ。
「自閉症はわがままだ」
というように。
自閉症患者は多数派から見れば異端に見える。
些細な違いが容認できない自閉症。
自分と違うものは排除したいと考える健常者。
異質なものを異質なままにしておく能力=ネガティブ・ケーパビリティを育てよう!
それがダイバーシティの第1歩だ。
この映画は、そんなことを伝えてくれているような気がする。
予告編です。関心を持たれた方はどうぞ。
