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この家で、夏を囲む

にぎやかな午後の、そのあとで。

この家に、夏のにぎわいが集まりはじめる。

一、兄の持ち込み

グラスの縁に浮かんだ水滴が、テーブルの上をゆっくり滑っていく。冷房は効いているのに、昼前の光だけが強すぎて、窓の外だけが違う季節のように白く見えた。

律は指先をグラスの冷たさに預けてから、麦茶を口に運んだ。喉を通り過ぎたあとになって、ようやく部屋の温度を思い出す。

向かいで、創矢のスマートフォンが振動していた。手に取り、画面を見て、それから律へ一度だけ視線をよこす。

口の形だけで、名前が読めた。

——航。

創矢が通話を受ける。補聴器越しに拾えるのは、遠くで細かく揺れる気配だけだ。声の中身までは追えない。それでも創矢の表情に仕事の硬さがなかったから、急ぎの用件ではないのだろうと分かる。

短いやり取りのあと、創矢はキッチンへ向かった。冷蔵庫から麦茶を出し、律のグラスへ少しだけ足す。氷が触れ合う音は届かなくても、透明なかけらが揺れて光るのは見えた。

「今日、航たち来るって」

グラスを戻しながら、創矢が言う。

律は顔を上げた。

「玲奈さんと美琴ちゃんも」

そこまでは、すんなり唇が読めた。

創矢は両手で小さな円を描き、指でその中心を示して、ぐるりと回してみせる。律は少し瞬きをした。

——流しそうめん。

たぶん、そう言ったのだ。

創矢が頷き、「卓上のやつ買ったらしい」と、今度はテーブルの中央へ置く高さを手で示す。庭先に竹を流す大がかりなものではなく、食卓の上で囲める小さな夏らしい。

律はテーブルの中央へ目をやった。いま置かれているのは、グラスと小さな観葉植物、読みかけの本とスケッチブックくらいで、五人分の器を並べるには少し心許ない広さに見える。

人が増える。会話も増える。

重なる口元を追うのは、いつだって少し忙しい。

けれど、ここは外ではない。椅子の位置も、光の入り方も、冷蔵庫の開く向きも知っている。疲れたら目を逸らせる場所があり、少し遅れても合流し直せる空気がある。

創矢は急かさなかった。グラスの水滴を指で拭いながら、律が自分で答えを見つけるのを待っている。

律は読みかけの本へ手を伸ばし、スケッチブックと一緒に抱えて、テーブルの中央を空けるように横へ寄せた。

その動きを見た創矢の口元が緩む。

「準備、手伝って」

言いながら、テーブルの上へ手のひらを向ける。

律は小さく頷いた。それだけで、十分だった。

食器棚から取り皿を出し、ガラスの小鉢をいくつか選ぶ。重ねた皿の白さが眩しくて、光の強い昼らしいと思った。創矢は薬味の器を並べながら、律が手を伸ばしやすい位置へさりげなく物を寄せてくれる。声で指示するのではなく、置かれた物の向きや空いたスペースで知らせる。それが、この家ではもう当たり前になっていた。

キッチンの足元を、音羽の小さな気配が横切る。ラグの端で止まり、こちらの様子をうかがっているらしい。律が屈んで手を差し出すと、音羽はためらいがちに近づき、指先へ鼻先を寄せて、すぐに離れていった。まだ完全には輪の中心へ入らないところが、この子らしい。

小皿と箸が並んでいくにつれ、昼の光を受けた部屋の見え方が少しずつ変わっていく。

今日はここに、いつもより多くの視線と笑いが集まる。

そのことを、律は少しだけ意識していた。嫌ではない。むしろ、創矢の家ではなく自分たちの家として、この部屋が誰かを迎える形になるのが、どこかくすぐったくて、少しだけ嬉しかった。

すぐに言葉にする必要はない。

食卓の中央へ視線を戻し、律は最後の小鉢をそっと置いた。

二、集まる午後

インターホンの光で、チャイムが鳴ったのだと分かった。

律が廊下へ出ると、音羽も少し遅れてついてくる。けれど玄関の手前でぴたりと足を止め、角からこちらを覗くだけに留まった。知らない相手ではないのに、大きな気配がいくつも一度に入ってくるのは、まだ少し緊張するのかもしれない。

ドアを開けて最初に見えたのは、白地に細いくすみ赤の線が入った開襟シャツだった。

「お、律」

航の口元が大きく動く。片手に大きな箱、もう片方に食材の袋。後ろには玲奈と美琴。玲奈は深いベリー色のトップスの上から髪を軽く払い、美琴は透明の大袋を抱えて、その中で西瓜が緑の縞を見せていた。

「お邪魔します」

玲奈の唇はせかせかとは動かない。見える位置へ少し顔を寄せ、落ち着いた速さでそう言ってくれる。

美琴も手を上げた。

「きたよ」

短い言葉なら、輪郭まで追える。

律が体をずらして中を示すと、三人はそれぞれ荷物を抱えたまま上がり込んできた。航は真っ先に「創矢ー」と呼んだらしい。声の響きは拾えなくても、遠慮のなさは口元だけで十分伝わる。

リビングでは、創矢がキッチンの前から顔を上げていた。

「早いな」

「暑いから、だらだら外いたくなくて」

そこは、はっきり見えた。

玲奈は靴を揃えてから、音羽のいる方へ目を向ける。すぐに近づかず、少し距離を残した位置で膝を折り、掌を上へ向けた。その慎重さのおかげか、音羽は逃げずに、様子を見たまま静かに鼻をひくつかせている。

美琴もしゃがみかけたが、音羽の目線が泳いだのを見て、すぐに膝を伸ばした。

「まだ、こわいね」

玲奈の横顔が笑っている。

律はそのやり取りを見てから、ダイニングテーブルへ視線を戻した。創矢が、航の持ってきた箱を中央へ置く。テープを剥がして蓋を開けると、透明な楕円形の水路が何段かに分かれて入っていた。思っていたよりちゃんとしていて、航が得意そうな顔をする理由も分かる。

「どう? いいだろ」

口元を追う前から、そういう顔だ。

創矢は説明書を開き、数秒眺めたあと、呆れたように航を見た。

「お前、これ初めて使うんだろ」

「初回をここに捧げる」

玲奈の肩が揺れ、美琴が吹き出す。音としては届かない笑いでも、表情だけで十分に伝わるものがあった。

薬味の準備が始まると、部屋の中の色が少しずつ増えていく。青じそ、ねぎ、みょうが、梅肉。つやのあるトマトまで玲奈が取り出し、「そうめんにも合うから」と説明してくれたらしい。大きな言葉は追いきれなくても、トマトを指し、そうめんの器を指すだけで、だいたいの意味は分かった。

律も食器棚からグラスを出し、小皿を運ぶ。テーブルの端に置こうとしたとき、すぐ隣で創矢の手が動いた。説明書をどけ、コードをよけ、皿の置き場所だけを自然に空ける。律はそこへ皿を置き、空いた指先で創矢の袖をひとつまみした。

——短い、礼の代わり。

創矢はそれを受け取るように目を細め、何も言わず冷蔵庫の方へ戻っていく。必要以上に手を貸さないことも、ここではちゃんと優しさのうちだった。

玲奈は二つの小鉢を両手に持ち上げ、どちらをこちらへ置くかと眉で尋ねてくる。片方に梅肉、もう片方におろし生姜。律は梅の方を指した。玲奈は頷き、そのまま律の近くへそれを置く。

美琴は箸の束を持ち上げ、「何膳?」と数を聞いているらしい。律は人差し指を立て、もう片方の手を軽く開いた。

——五。

美琴が「あ」と口を開ける。自分が一本足りなく数えていたことに、いま気づいたようだった。

五人分の器とグラスが並んだ食卓は、もう二人きりのものではなくなっていた。中央には透明な水路。周りには色の違う薬味。氷の入った麦茶のグラス。少し身を乗り出せば誰かの器に手が届きそうな距離に、人の気配がひとつずつ増えていく。

電源が入り、水路の水が巡り始める。音は聞こえなくても、テーブルへ置いた指先に細かな振動が伝わってきた。一定の流れが、食卓の中心で目に見える形になっているのが、少し面白かった。

航が満足げに胸を張り、創矢は相変わらず呆れた顔をしている。その二人のあいだで、律は小さく息をついた。

もうすぐ、この卓上の小さな水の流れに、白い麺とたくさんの会話が乗ってくる。

流れる白い麺の向こうで、視線も笑いも行き交っていた。

三、流れる輪の中で

最初のひと束は、やはり航が流した。

箸で持ち上げた白い麺が水へ落ち、透明な流れに乗って円を描く。美琴の箸が勢いよく伸び、玲奈が少し遅れてそのあとを追う。創矢はすぐには箸を入れず、律の前を麺が通るのを見ていた。

律も構えたが、最初の一回は遅れた。白い束は目の前を過ぎ、創矢の方へ流れていく。それでも創矢は取らない。流れは一周し、もう一度こちらへ戻ってきた。

——今度は、掴めた。

つゆへ落とし、梅肉を少しだけ乗せて口へ運ぶ。冷たさが先に広がり、そのあとで梅の酸味が舌の奥に残った。熱を持っていた体の内側が、少しだけほどけていく。

玲奈が梅の小皿と律の器を交互に指し、首を傾げてみせた。律はもう一度、梅肉を箸先ですくってみせる。それだけで伝わったらしく、玲奈の目元がやわらかくなった。

次の麺が流れ始めると、航と美琴が同時に箸を入れ、また何かを言い合う。途中から玲奈も混ざり、口元がいくつも重なって動いた。さっきの取り合いの続きらしいと、なんとなく分かる。誰が少しずるをしたのかも、表情でおおよそ見当がついた。

けれど、言葉の細かいところはすり抜けていく。

箸を持つ手が少し止まった。流れていくそうめんの白さだけがやけに鮮やかで、輪の中心がほんの少し遠く見える。

そのとき、隣からつゆの器が寄せられた。

創矢の手だった。押しつけるのではなく、ただ、ここにあると知らせる程度に、律が取りやすい位置へ置いてくれる。目が合うと、創矢は何かを確かめるように軽く眉を動かした。

——大丈夫か、とは言わない。

入るか、抜けるか。決めるのは律でいいと分かっている顔だった。

律は箸の先へそうめんを巻き取り、梅肉を少し足す。食べながら、もう一度みんなの顔を見た。航は相変わらず大げさに何かを訴え、美琴は負けじと箸を構え、玲奈はそれを面白がっている。途中から創矢も笑っていた。

輪の全部を同時には拾えない。それでも、拾えるところから自分で入っていけばいい。

そう思えたとき、航が空になりかけた皿を持ち上げ、流しそうめん器の上流側を指さした。次はどうだ、と誘っているらしい。添えられた手の動きは簡単で、律にも分かりやすかった。

すぐには返事をしない。水路を巡る白い筋を見つめる。流す側へ回れば、今度は自分が輪の中心に立つことになる。見ているだけではなく、みんなの箸が向かう先を、自分の手で作る位置だ。

律は器を置き、椅子を少し引いた。脚が床を擦る振動が、足裏へ伝わってくる。それを見た航が、すぐに場所を空けた。

「少しずつでいいぞ」

口元と、添えられた手の動きで分かった。

律は麺をひと束すくい、最初は少なめに水へ落とす。白い細さがすぐ流れに乗り、美琴が一番に取った。玲奈がそのあとを追い、航は「俺の分残せ」とでも言うように口を尖らせる。

次は少し多めにする。今度は航の前で勢いよく箸が動き、その向こうで玲奈が呆れたように笑った。

そして、もうひと束。

——創矢の前へ流す。

創矢は一度目では取らなかった。流れに乗った白い束がその前を通り過ぎ、一周して戻ってきたところで、ようやく箸を入れる。

その一拍の待ち方が、律にはよく分かった。自分の手から出たものが、ちゃんと相手へ届くまでを見せてくれるような、そんな待ち方だったからだ。

「ありがと」

創矢の唇がそう動く。

律はそのまま、最後のひと束を水へ落とした。

白い麺が五人のあいだを巡る。流れが止まらないうちに、会話もまた別の方向へ転がっていく。すべてを拾いきれなくても、自分が流したものをみんなが取っていく景色は、思っていたよりはっきりと胸に残った。

そのあとも、麺は何度も流れた。トマトをつゆに落としてみたり、青じそを多めにしてみたり、玲奈が持ってきた西瓜を食後に切り分けたり。美琴が「次は何流す?」とふざけてミニトマトを持ち上げ、航が本気でやりそうになって玲奈に止められる場面もあった。

途中、言葉が重なって口元を見失うこともあった。笑いが広がっても、どの瞬間にそうなったのか分からなくなることもあった。

それでも、そのたびに誰かが必要以上に説明し直すわけではない。玲奈は見える位置で短く言い直し、美琴は身振りを足し、航は簡単な手の動きを添える。創矢は輪の流れを止めず、ただ律が選び直せる余白だけを、隣にそっと置いてくれる。

そうしているうちに、午後の光は少しずつ傾き、麦茶の氷も小さくなっていった。五人分の器が並ぶ食卓は、昼の熱をどこかへ追い出したみたいに、やさしい涼しさを帯びていた。

みんなが帰ったあと、部屋の静けさだけが少し近くなった。

四、静けさが戻る

片づけの時間になると、さっきまで狭く見えていたテーブルが、急に広く感じられた。

空いた器を重ね、水路の部品を外し、濡れたパーツをキッチンへ運ぶ。航は箱を組み立て直そうとして向きを間違え、創矢に何か言い返しながらまたやり直している。玲奈は最後まで手際よく布巾を動かし、美琴は西瓜の種を気にしながらも、嬉しそうに最後の一切れを頬張っていた。

昼のにぎわいはそのまま続いているのに、もう終わりへ向かっているのが分かる。帰り支度の動きは、少しだけ早い。

美琴が「また来るね」と言ったらしい。短い言葉は読めた。律が頷くと、美琴はそれだけで満足したように笑う。玲奈は冷蔵庫の方を指し、余った梅肉をそこへ入れておいたと伝えてくれた。航は最後まで「もっと長い流しそうめん器でもよかったな」と名残惜しそうな口元をしていたが、創矢と律の二人に揃って首を横へ振られ、ようやく諦めたらしい。

玄関の扉が閉まる。鍵のかかる音は分からなくても、創矢の手元と、その直後に薄くなった気配で、部屋の境目が閉じたのだと分かった。

さっきまで何人もの顔があった廊下に、もう二人と一匹しかいない。補聴器越しに残っていたざわめきまで、一緒に遠のいていく。

律はその場に立ったまま、数秒だけ動かなかった。静かになった、というより、部屋の輪郭が急にはっきりした気がした。昼間は誰かの肩越しに見ていた壁や照明が、いまは真っ直ぐこちらへ返ってくる。

創矢が振り返った。

「疲れた?」

ゆっくり動く口元。律は少し考えてから、手のひらを床と平行にして、小さく揺らした。

——少しだけ。

創矢は笑って、それ以上は聞かなかった。

「じゃあ、残りだけ片づけよう」

キッチンには、まだグラスが二つ残っていた。律がそれを流しへ持っていくと、創矢は布巾を手に待っている。洗ったグラスをそのまま渡せば、受け取った手が自然に水滴を拭い取っていく。

並んで立つ距離は近いのに、昼間のような忙しさはもうない。蛇口から落ちる水の動き、ガラスの表面を滑る指先、布巾が吸っていく薄い透明の筋。そのどれもがゆっくりで、部屋の空気もそれに合わせて落ち着いていった。

最後のグラスを拭き終えた創矢が、律の方へ半歩だけ近づく。

「今日は頑張ったな」

言葉そのものより、口元のやわらかさが先に届いた。

律は返事の代わりに視線を落とし、キッチン台の角へ指先を触れる。褒められるためにやったわけではない。それでも、流す側へ回った瞬間を思い出すと、胸の内側が少し温かくなった。

創矢は何も急かさないまま待っている。その待ち方に押されるように、律はようやく顔を上げ、小さく頷いた。

「……ん」

短い声は、家の中だから出せる。

創矢の目元がさらにやわらいだ。

「えらい」

大げさな褒め方ではなかった。軽く頭を撫でる手も、すぐに離れていく。子ども扱いしない程度に、でも確かに甘やかす触れ方が、律には心地よかった。

片づけが終わると、リビングには間接照明だけが残った。ラグの上で、音羽が一度伸びをし、また丸くなる。昼のあいだ遠くから見ていた気配も、夜になると少し近くへ寄ってきた。

ソファへ座ると、体の芯に残っていた疲れがゆっくりほどけていく。創矢も隣へ腰を下ろした。昼のティール色は、夜の灯りの下ではもっと深く見える。並んでいても何かを話さなければいけない感じがないのは、昼のあとだからかもしれないし、相手が創矢だからかもしれない。

テーブルの上には、片づけきれなかった西瓜の小皿だけが残っていた。ひと口大に切られた赤が、夜の中では少し暗く見える。

創矢がそれを取って一つ口に入れ、「甘い」と言ったらしい。律にも勧めるように、皿ごとこちらへ寄せてくる。

一つ摘まんで噛むと、昼の熱を閉じ込めたまま冷やされたような甘さが広がった。そのまま二人でいくつか食べる。言葉のない時間が続いても、不思議ではなかった。むしろ、にぎやかな午後のあとには、その静けさがよく似合っていた。

五、にぎやかな午後の、そのあとで

「楽しかった?」

創矢がそう尋ねたのは、西瓜の最後のひと切れを食べ終えたあとだった。口元は、律が見ていることを確かめてからゆっくり動く。それだけの配慮が、夜になるとやけにやさしく見えた。

——楽しかった。

答えはとっくに決まっていたのに、律はすぐには頷かなかった。昼の景色がまだいくつも残っている。流しそうめんの水路、重なる箸、玲奈が寄せてくれた梅の小皿、美琴の大きな身振り、航の得意げな顔。そして、その全部のそばにいた創矢の視線。

会話の全部が分かったわけではない。途中で置いていかれた瞬間も、たしかにあった。

それでも、今日はそこから戻れた。誰かに引っ張り込まれたのではなく、自分で椅子を引いて、流す側へ立って、輪の中へ入り直した。そのとき創矢は、手を貸しすぎず、待っていてくれた。

そのことを思い返すだけで、胸の奥が少しだけ満ちる。

律はようやく頷いた。一度、小さく。それから、創矢の方へ体を向ける。

「……たの、しかった」

声にすると、昼間の余韻まで一緒に外へ出ていく気がした。

創矢はそれを聞いて、目を細める。

「うん」

それだけ返して、指先で律の頬へ触れた。耳まわりへかからないように、補聴器を避けて、こめかみから頬骨のあたりをゆっくり撫でる。その動きが丁寧で、律は目を伏せた。昼のあいだ、人の視線を何度も受け止めていたところへ、今は創矢の手だけがある。

「疲れてない?」

さっきと似た問いでも、今度は少し違う響き方をしていた。

律は首を横へ振った。疲れていないわけではない。けれど、その疲れより、いまこうして二人きりになれたことの方が近い。にぎやかな時間が嫌だったのではなく、そのあとに戻ってくるこの静けさまで含めて、今日はきれいだったのだと思う。

そのことをどう伝えればいいのか、少し考える。考えているあいだも、創矢は急がせない。頬に置かれた手が離れないまま待っている。

律は創矢のシャツへ手を伸ばした。ティール色の布が指先に触れる。襟元の少し下をそっとつまんで、自分の方へ、ほんのわずかに引いた。

創矢が近づく。けれど最後の距離は残されたままだった。

——昼間、輪の中へ入るかどうかを律に任せてくれたのと同じように、いまもまた、最後のひと息分は律に残している。

そのことが分かるから、甘い。選ばせてくれる近さは、ただ優しいだけじゃなくて、どこか熱を持っていた。

律は襟をつまんだまま、創矢の口元を見る。灯りの色のせいか、昼よりもずっとやわらかく見えた。

少しだけ身を乗り出す。唇が触れる。

一度目は、確かめるように浅く。離れたあとも、創矢は追いかけてこない。ただすぐ近くで見つめ返し、次を待っている。

その静けさに背中を押されるみたいに、律はもう一度近づいた。今度は少し長く重なる。昼の熱をいくらか残した唇が、ゆっくりとやわらいでいく。創矢の手が頬から耳の後ろへ回り、補聴器に触れないよう気をつけながら、その周囲だけを包んだ。大きな手のひらに支えられているのに、閉じ込められる感じはしない。

離れると、近すぎる距離に創矢の表情がある。律はまだ襟を離せなかった。

「……も、いっかい」

声にするつもりはなかったのに、口から出た。短く、少しだけ掠れた声だった。

創矢の目が、ほんの少しだけ見開かれる。そのあと、笑った。

「うん」

今度は創矢の方から、でも急がずに近づいてくる。額が触れるほどのところで一度止まり、律の目を見てから、唇を重ねる。浅いキスが一度、もう一度。触れては離れ、離れてはまた近づくたびに、昼のにぎやかさが遠くほどけていった。

律はつまんでいた襟を、今度は掌ごと握るようにする。創矢のシャツの生地が少し寄った。それだけで、もっと近くに来てほしいと伝わる。

創矢はその意味を確かめるように、唇を頬へ、目尻の近くへ、そしてまた口元へ落とした。大げさではないのに、ひとつひとつがやさしくて、丁寧で、だからこそ甘かった。

「かわいい」

創矢の口元がそう動く。

律は目を逸らしかけたが、頬を包む手の中でうまく逃げられなかった。逃がさないための強さではなく、逃げなくていいと言われているような留め方だったからだ。

そのまま肩へ寄る。創矢の胸元へ額を預けると、布越しの体温がじわりと伝わってきた。耳では拾いきれないはずのものが、触れているところからならよく分かる。息のゆるやかな上下も、胸の奥の規則正しい振動も、今は全部、律の近くにあった。

創矢の腕が背中へ回る。抱きしめる、というほど強くはない。けれど、離れようと思えば離れられるくらいのやわらかさで、ちゃんと囲ってくれる。律はその中で、ようやく肩の力を抜いた。

「今日、ここにみんな来てるの、よかった」

創矢がそう言う。

律は胸元に額を預けたまま、目を閉じた。

——よかった。たしかに、そうだった。

にぎやかな午後も、そのあとで二人きりに戻る夜も、どちらかだけでは足りなかったのかもしれない。人の輪の中へ自分で入っていった時間があって、そのあとにこうして甘やかされる静けさがあるから、今日はきれいに一日だった。

律は創矢のシャツをつまんだまま、ほんの少しだけ顔を上げた。

「……そ、や」

名前を呼ぶと、創矢はすぐに目を合わせた。

「ん?」

その返事のかたちがやさしくて、律は少し笑う。笑ったのを見つけると、創矢も同じように笑った。

それからもう一度、今度はさっきよりもゆっくり唇が重なる。長くはない。でも、離れたあとに残る余韻が深かった。

音羽がラグの上で寝返りを打つ。小さな気配が足元をかすめ、二人は同時にそちらを見た。音羽は片目だけ開けて、すぐにまた丸くなる。

その様子に、創矢が小さく肩を揺らした。律もつられて笑う。笑い終わったあと、もう一度だけ創矢の肩へ寄りかかった。昼のにぎやかさをすべて抱えたまま、夜の静けさへ戻ってきたみたいだった。

テーブルの上には、もう流しそうめん器も、五人分の器もない。けれど、そこで囲んだ夏の時間は、部屋の空気にまだ薄く残っている。

その真ん中で、創矢の腕の中にいる。

律は目を閉じ、ティール色のシャツをつまんだまま、ゆっくり息を吐いた。

にぎやかな午後の、そのあとで。

この家の夜は、二人にはちょうどいい甘さだった。

にぎやかな午後のあとに残った夜は、二人にはちょうどいい近さだった。

あとがき

最後まで読んでくださりありがとうございました。

今回は、流しそうめんを囲むにぎやかな家族の午後と、そのあとに戻ってくる二人の夜を書いてみました。

全部を聞き取れなくても、律が自分で輪の中へ入り、自分で創矢へ寄っていくこと。その両方が自然に並ぶ一日になっていたら嬉しいです。

Thank you for reading! ❤️

I hope you enjoyed this warm summer gathering and the quiet, sweet moment that followed for Soya and Ritsu.

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『サイレント・マイ・ヒーロー』
瀬尾 律/橘 創矢
オリジナル創作BL
Tomo E|Clover Room🍀


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