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種子 ── 今どきの【表現の自由】を考える。

テレビでアニメが流れている。
いわゆる量産型の異世界転生アニメだ。
手酷いいじめにあって、引きこもりのニートになってしまった男性主人公(テンプレ通り)が、異世界に転生しチート能力を得て(ここもテンプレ展開)理想通りの自分自身のスペック、理想通りの人間関係を手に入れて生き直す(見事なまでに完全なテンプレ展開)というあらすじのもの。

主人公はやがて恋をする。
そこでそのヒロインとあらゆる意味で結ばれ、結婚するのだけれど、そこからが「悪夢」である。

ここは異世界なんだよね。
なのに「結婚」イコール、女性が男性に対し「無制限の消費と所有を許容し、肯定するものであり担保するもの」という文脈から逃れられていない。

だからこういう作品は「ナーロッパ」なんて言われるんだろうな、とため息をつきながら私は観ていた。

異世界なのであれば、もっと自由な発想で婚姻関係を捉えてもいいだろう。
魔法が使えて、剣も使えて、物理法則を無視した世界なんだから。それでもその「本能」に関わる部分はそれなのだ。

すごく売れた作品だ。
構成もしっかりしてるし、物語の展開に緩みもない。頭の良い誰かが書いた作品であることは分かる。
それでもここはそれなのだ。

主人公は性犯罪者スレスレの行動を普通に物語のなかで行う。ヒロインに対してのみではなく、特定多数の女性にである。
日常で行われていそうな、バレなければスルー、でもバレれば大騒ぎになるであろう行動だ。

それを知らない「無垢でまだ男性を知らない、清らかなヒロイン」は彼を全肯定し「消費されること、及び所有されること」ですらも女性の喜びである、として振る舞う。

さすがにそこまで観て頭が痛くなってきたので、観るのを止めて離席した。

何が辛いって、女性の「処女性」に対する拘りである。
「清らかな処女であるべし」と「消費し、所有されることを喜びとすべし」というこの2つの矛盾したメッセージに、家父長制独特の強力なダブルバインドを感じる。
簡単に有り体もなく言ってしまえば「女性はみな自分専用の娼婦たれ」というところなんだろう。

私はこの作品は高校生や中学生などのティーンエイジャーが観るものなのかと思っていた。
ところが蓋を開けてみると、実際にこれに熱狂したのは40代からの中高年層の男性たちがボリュームゾーンであるらしい。

うーん、やっぱりその異世界転生の「異世界」って、本当の意味での異世界ではなくて、ある意味「生身のリアルな女性と向き合うのが怖くてできない人」(ミソジニスト、インセルなども含めた)の「女性」や「世界」に対しての夢や理想をめいっぱい詰め込んだ「夢の世界」なんだろうね。

そこにいる「エルフの女の子」とか「半獣半人の女の子」などが彼らの頭のなかに「女性」としてインストールされていて、その結果としてリアルな現実の女性に対して「僕たちの見てきたものと違う!」など言ってしまうから、彼らは嫌がられるんだろうなど思うなどした。

結論から言えば。
異世界に転生したとしても、したいのは結局「家父長制の再生産」であるらしい。

せっかく「異世界」という舞台があるのだからその文脈は手放せばいいのに、そこから離れられない辺りが、この作家の限界なのだろう。
ほとんど全てのラノベ作家にいえることでもあるのだけれど、だからこそこれらの作品は「純文学」には格上できない。
ただのジャンクなエンターテインメントでしかない理由はそこにあるのだろうと、そう思う。

結局その物語の最後は主人公は3人の妻をもち、そのそれぞれに子供を産ませる結末となっている。
けれどヒロインである女たちはそれも納得ずくであるようだ。

していることは戦前のこの国で行われていた、いわゆる「妾」「二号さん」と呼ばれるものと何ら変わらないのである。

この物語は「家父長制」という悪しき慣習を「異世界」という舞台で復活させている。
そして「それ気持ちいいよね」というのが主要なメッセージであり、それによって読んだものに何かを考えさせることも、新しい視点を持たせることもできていない。

╭(°ㅂ°)╮╰(°ㅂ°)╯

とはいっても、所詮はエンターテインメントである。そこまで求めるのも「おかしい」のだろう。

そういった程度の低いエンターテインメントは男性向けに限らない。

女性向けのそれにおいても「加虐されること」「消費させること」「支配させること」を美徳とするようなものは数多い。
「支配すること」を「支配せずにはいられないこと」また「消費すること」を「消費せずにはいられないこと」として、逆支配の倒錯した構造として描くものもあるけれど、所詮はそこ止まりである。

問題は読み手の一部がそれを「これがリアルである」と認識してしまうこと、また「リアルもそうあるべきである」と誤認してしまうことにある。

それなりの人生経験を積んだ成人なら分かりそうなものだろうけれど「そこを逃げ場として入り込んだまま」「自己憐憫に向き合うことなく、他責ばかりをしてきた者」に関しては「気持ちよすぎてそこから出られない」になるのだろう。

それに、ある程度の人生経験を積んだとしても、今のこの世界は厳しい。
3年先がどうなっているかも見えないし、性別やコネクションといったものから発生する「ガラスの天井」は、今も私たちの行く手を遮っている。
頭の上には暗く重い雲が垂れ込めて、その「ガラスの天井」の上で何が行われているのか、私たちが果たしてなにに忠誠を誓わさせられているのか、それすらも分からない。

まともな人間だったとしても、そのエアポケットのようなそれにはまり込んでしまえば、なかなか出る気にはならないのだろう。

それに、その消費と所有の文脈はそのライトノベルやゲーム、アニメには限らない。
この国全体がある意味そうであるともいえる。
海外からも指摘されているポルノ文化(この世界のポルノビデオの60%が実に日本製だ)
2000年代初頭、いわゆるセクシュアルハラスメントに相当するような行為は普通に衆人環視のなかでも横行していたし、結婚制度そのものも令和になって大分変わりつつあるとはいえど、まだその文脈は根強く残って消えない。

だからこそ、いい歳をした大人がこんな物語を「理想的なファンタジー」としてしまうこと、またそういうものを量産していくこと、その罪は重い。

人を思うこと、愛することは「あの人を消費したい」「あの人を支配したい」ではないはずだ。
それはただの「欲」でしかない。
けれどそこがみんなごちゃごちゃになっている。

「消費させてもらえない」「支配させてもらえない」から「愛がない」ではないはずなのだ。

「真実の自分自身を生きている誰か」を見つけること、それに呼応するようにしてまた「自分自身もまた、自分自身のなかの真実をいきていくこと」そのことにこそ、愛の本質はあるように思う。
支配することでその誰かの人生に乗っかって生きていくのではなく、消費することで癒され、ケアされ続けながら生きていくことでもない。

そのことをこのジャンクなエンターテインメント── 程度の低いアニメやライトノベル、ポルノビデオなどが「性欲」でマスキングして、本来の「愛の在り方」を見えなくしてしまっているのではないだろうか。

╭(°ㅂ°)╮╰(°ㅂ°)╯

ここで私が書いているこのような文章は「ウケない」
耳に優しくもないし、甘くもないし、依存性もないからだ。

むしろ指摘されて腹を立てる人は反対にいるのかもしれないよね。
ニコチンの煙草やフェンタニルのようなドラッグは身銭を切ってでも買う。甘いケーキやスイーツ、ジャンクフードは飛ぶように売れる。
でも癖のある口に苦い薬はそれと比べたら遥かに売れない。
それと同じことなんだろう。

例えば
「性犯罪を『寂しさに負けた可哀想な人がする、やむを得ない犯罪』として肯定するように描くこと」
「弱いものにする加虐を『様式美』として描くこと」
また
「弱いものは強いものに『支配されるべき』『消費されるべき』として描くこと」

これらは「表現の自由」を加味して考えたとしても大罪だ。
どんなロジックで指摘されたとしても、私はそこを譲ることはできない。

それを読んだ、あるいは観た100人のうち、そのなかのひとりが何らかの犯罪行為に手を染めるかもしれない。
模倣はしなくても、そういう人間の誰もが持っている残虐性、加虐願望にタッチして誘発してしまう可能性は十分にある。

そのひとりが10人に対して犯罪行為を行ったならば、その文章は間接的に10人を傷つけたともいえるのだと思う。
「考えすぎ」の声もあるかもしれないけれど、今ここに書いたこの考えを否定する材料もまたないわけで、それはフェアではない。

そう考えてみれば、反対にこのような「ウケない文章」だって ── リアクションのない誰かをも含めて100人が読んだとして、そのなかのひとりが1週間後に無差別銃撃事件を起こして10人くらいを一気に殺害し、自死するつもりだったとする。
そのひとりがたまたまこれを読んで、何となく気が変わって、銃撃を止めるかもしれない。

そうすれば、この文章はその10人の命を救ったことにもなるだろう。もちろんこれも間接的に、だけれど。
当人たちも含めると11人だ。

文章を書く、絵を描くなど、この世界に対して何らかのリアクションを起こすこと ── それはこの世界という土壌に何かを撒くことにもよく似ている。

「他者を消費し、支配することを肯定する」というそれは、土壌をそのように汚し、そこから育った植物はその毒をその実にたっぷりと溜め込むだろう。
植物が重金属を溜め込むのと同じことだ。

これからの表現者たちは何をその土壌に撒き、どういった植物を育てるのだろうか。
それとも撒いただけで、何が育っているのかなど見もしないのだろうか。

だからこんな文章を書くこと ── それにも必ず意味はあると。

私は私が育てたものを、見届けたいとそう思う。
たとえそれが世界を覆うような大樹にならなくてもいいのだ。
通りすがった誰かの心に少しの影を落として、その考えの舵取りを少し、変えること。

── それによって変わる未来。

例えば、月から地球へ向かって出発する宇宙船は、出発したときにたった1° がズレただけで、
到着地点は驚いたことに地球5つ分もズレてしまうと ── そんなことを、どこかで聞いた。

そのちょっとしたズレを正してやること ── それこそが私の「文章を書く」目的であり、本懐だ。

撒くならば、たとえ苦かったとしても、その土壌を整え、微細な狂いを正せるような何かを。

そこに到達できる日を、いつかの夢に見ながら私は足元に種を撒き続ける。








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