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分かっていない日本人。

またネット上で変なゲームが話題になっているのを見つけてしまった。

今度のゲームは「死刑囚の少女を『即処刑』できてしまうボタンを前に5日間過ごす」というものである。
アニメのある特定のファン層が好みそうな少女のイラストが泣きそうな顔でこちらを見ている。

夏にもこんなゲームが炎上していたな、と思い出した。
確か「ラブドール」という設定になっている少女にゴミを食べさせることで、その知能を上げて育成していくというゲームだったと思う。

そのゲームの嗜好的な異常性を指摘する人と、指摘される人との議論のなかで「これは少女ではない、ラブドールである以上、加虐にはあたらない」と抗弁している人を数多く見た。

けれどそのゲームのなかで、その「ラブドール」は動いているし、話しているし、ものを食べている(ゴミとはいえど)
これで「少女ではない」は詭弁であると思うよ。

このゲームにも同じようなものを感じたのは、そのプレイヤーが「即処刑」にできる、言い換えれば生殺与奪の権利を握っているともいえる、その対象が「少女」であるということだからだろうか。

確かに何か性的な行為をするわけではない。物理的に加虐するわけでもない。
けれどこれに対して憤っている人たちはたくさんいる。それは何故なんだろうか。

そういうことについて、少し考えてみようと思う。

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これは最近になってネットで様々な人たちが言語化し、可視化されてきたことだけれど、日本社会にはとても根深いジェンダーバイアスが今なお存在し、そういったエンターテイメントはそのジェンダーバイアスと見えないところで手を繋いでいる。

分かりやすいところではアダルトビデオだし、各種風俗産業だ。
そしてエロ要素を多分に含んだゲーム、アニメであり、児童ポルノである。
そしてそれはここまで様々な方面から指摘を受けつつも、今なおそのジェンダーバイアスと切り離すことができずにいる。

この手の話になると必ず出てくるのが「表現の自由」である。
制作サイドはこの「表現の自由」の範疇のなかに自分たちの作品があると思って作っているのだろう。

日本はこの規制が諸外国に比べて甘いと言わざるをえない現状がある。
「許容範囲内である」から「萌え絵」が生まれ、不要なエロ描写の多いアニメやゲームが日の当たる場所を闊歩している。

現状「未成年としての象徴」である、女子高生や少女たちを性的消費する文化や、パパ活と呼ばれるいわゆる「援助交際」有り体なくいえば「買春」
その根本的な要因はそこにあるように思う。

制作サイドが「当然あるべきお楽しみ」として世間に発信するそれは、あくまでも「絵空事」であるはずだ。
けれど受け取る側においては「現実と絵空事の区別がついていない」

つまりは制作側が生み出したそのコンテンツが「この国の倫理観を汚している」
と考えることもできると思う。

「少しくらいはいいだろう」
「許容範囲だろう」
その積み重ねがこの「表現の自由」のハードルをどんどん下げてきた。

「表現の自由」とはそういった対象に使われるべき言葉ではない。
そういった種類のクリエイター、またはその創作物を享受する側が使うそれは、ただの「堕落」である。
そういった要素を入れなければ「売れるコンテンツ」は作れないという現状、またそれに対しての言い訳として「表現の自由」が用いられていることは否めない。
享受するほうも同様である。

つまりは「創るべきではない」

以前に似たようなテーマについて書いたときに、「表現の自由で守られるべきものを規制せよというのは、かのナチス・ドイツが退廃芸術として焚書にしたものと同じである」という指摘を受けたことがあった。
私自身はあくまでもゾーニングをせよといった主旨で書いていたつもりであったが、言葉が足りなかったのかもしれない。

けれど、退廃芸術としての括りが狙うのは、あくまでも「思想統制」「プロパガンダ」であり、個人の性的な倫理観に干渉するものではない。
ここでこの指摘をした方のそれは、いわば退廃芸術の矮小化であるということは否定できないだろう。

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次に、それを指摘する人たちは、どういった論理や感情で指摘しているのか考えてみたいと思う。

その性行為も加虐描写もない、ただ意味のないエロ描写が入るだけの作品。
またさっきの少女を「処刑するだけ」のゲーム。
ラブドールとしての少女に「ゴミを食べさせる」ゲーム。
よく見てみると、それを娯楽とすることの裏から、強い支配欲と加虐の欲望が浮き出ている。

弱いもの、力で劣るものを支配したい。
そういったものたちの無防備な部分を掌握して支配したい。
ゴミを食べさせるなど、他から見れば加害でしかない。
この場合、本人たちがどういった意図かなどはどうでもいい。あくまでも他から見た印象の話をしている。

それが良いか悪いか。
よく胸に手を当てて、考えてほしい。

あなたが愛すべき、弱く小さいものたちを、彼らに引渡したい、また引き渡して安心して眠ることができるだろうか?

できないよな?

………だから、この手の作品は不快感が強いのだ。

誰もが愛するものにおいては、健やかに暮らしてほしいと願う。
男女の間だけではない。親子だって、友との間だって、それは同じだ。

けれど、そういった娯楽があること。
それを娯楽として好む「顔の見えない誰か」が存在すること。
それは、怖いから。
だから彼らは抗議するのだ。
そういった娯楽をなくすこと、それができないならば、せめてゾーニングを徹底せよと。

明日、愛するものが何らかの理由でそういった憂き目に遭うかもしれない。
その恐怖。

この娯楽を守ること ── これを「表現の自由」と私に言い、これに抗議する人たちにとっての恐怖の再現を、ただただのべつまくなしに垂れ流すことで小銭を稼いでいる人たちには、きっとこれは想像できないだろう。

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このことについて往々にして言われるのは、この手の娯楽は「必要悪」であるということだ。
彼らの言い分では、アダルドビデオや風俗産業を含むこれらの娯楽がなくなることで、性犯罪は増加するだろうということが実しやかに語られる。

けれど、そのソースはない。
そして反対に「支配欲」またその充足に対しての「学習」として強化してしまう可能性もあるといえるだろう。

性暴力と身体的暴力は、物理的な「見える暴力」である。
けれどそうではないもの ── 登場人物は誰も気にしていないけれど、チラリと見える少女の下着だたとか、不自然な女性の体の露出、また必要以上に誇張された胸元などの性的なパーツの表現。

また、力のない弱いものの生殺与奪の権利を奪うこと、その「気持ちよさ」を示唆する娯楽。

「ゴミを食べさせる(ことでラブドールという名目の少女を育成する)」など、尊厳を否定すること、管理することでその「支配欲」を満たせると示唆するもの。

これらは全て「倫理的な暴力」にあたるだろう。

殴ってもいないし、猥褻でもない。
であれば、なにをしてもいいのか。
規制はない、そういった意味では「可」である。

けれどその手のゲームやアニメは、着実にそれを観ている日本人たちの倫理観を侵している。
どうか、これを喜んで遊んでいる自分の姿が外から見ると「どのように見えるのか」一度、考えていただきたい。
確実にそのモラルもプライドも、地に堕ちているとはいえないか。
だって、それは謂わば弱いもの虐めでしかないのだから。

そして最近、私が恐ろしいと思ったのは、全てのコンテンツが「それ」になりつつあることだ。
男性向け娯楽だけの話ではない。
女性向け娯楽においてもそういった傾向をもつ作品は増えつつある。

例えばゾーニングの全くできていない、過激な内容を含む少女漫画やBL作品。
また実在の歴史人物をモチーフとしたアダルトコンテンツの恋愛ゲーム。
この場合は「支配欲」ではなくて「被支配欲」であり、「加虐の願望」ではなく「客体化したい願望」であるのだろう。

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最近、他の炎上した事件の顛末を見て、思ったことがある。
日本人は幼稚化しているとは聞いたことがあったけれど、ああこれか、と。
(長くなってしまうので、この件についての言及はしません)

冒頭で話題に載せた「ゴミをラブドール(という名目の少女)に食べさせる」ゲーム。
死刑囚の少女を『即処刑』するボタンを前に5日間を過ごすゲーム。

これらは「支配・被支配」の関係を美化し、扇情的に表現することでゲームとしている。

この2つのゲームに限らず、そういった「支配・被支配」を扱ったコンテンツはかなり多い。
けれど、そのどれもが美化はすれど昇華は全くできていない。
ただ気持ちよくなって終わりである。
それはどうしてだろう。

「足枷」と「錨」は似ているようで、明確に違っている。
「評価されること」と「客体化されること」も、表面上は似ているけれど、全く違う。
「誰かを愛すること」と「誰かを客体として、欲を満たすこと」も同じである。

そういったことの区別が、最近の日本人は付かなくなってきている。
その程度の感性だから、そういった炎上してしまうようなゲームを作り、またその意味などを考えもせずに遊んでしまうのだろう。

これはいわば思想汚染に近い状態であり、各々が充分に留意していかなければ、やがてこの国は「それを理解している人たち」と「全く分かっていない人たち」の二極化が進んでしまいかねない。

特に制作サイドにおいては、自分が制作している作品が「倫理的な暴力」に抵触していない
か ── 国や自治体の規制はなかったとしても、自主規制として、どうかそのことを頭に置いてほしいと、そう私は願っている。

私は10代の少女の母親である。
娘と同世代の少女が「倫理的な暴力」に晒されるコンテンツなど、はっきりいって唾棄すべきものであり、見たくなどない。

10年先、この国のエンターテイメントがもう少しマシになっていることを祈る。

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