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スポイルされる男性性に「愛」を問う

また図らずもXで「女湯レポート」について語られているのを見てしまった。
いろいろな思いが湧き上がってきたので、こちらのNote でそれについて言及されている方の記事も幾つか読ませていただいた。

結論からいえば、私も「女湯レポート」は辞めていただきたい。
というか、そういった目的の方にはそもそも利用しないでいただきたい。

差別だとかジェンダーフリーだとか、そういったことを加味しても、そもそもそういった「個人の裸」というプライベートなもの、そういったことはこんな公の場で堂々と語るべきことではないし、それを我慢できないほど強い自己承認欲求を持っているなど、はっきりいって異常だ。

そういったことは「品性に欠ける」行いであり、女性としては下の下であると私は思う。
属性として同じ「女性」を名乗らないでほしいとすら思ってしまう。

彼らのうちの全てがこういった品性に欠ける人間であると言っているわけではない。
彼らのなかには本当に悩み、苦しんだことで「性転換」という選択肢をとった方もいるだろう。
けれどそんな痛みを知る方が、こんなレポートなど書くだろうか。

私は身体女性であり、彼らと共有できるものは多分、少ない。
けれど普通と少しズレた感性、世界観を持ったことで随分と遠回りしたし、苦しんでもきた。
けれど「私を認めなさいよ」など言ったりはしないし、それをダシに承認欲求を満たそうなど思ったこともない。恥ずかしくてできない。

「自分のアイデンティティを解放する」
これはとても大事なことだ。
けれど、彼らを見ているとそれは建前にすぎないように思う。第一にどうしてこんなに「女性」というものの解像度が低いのだろう。

女性同士がお互いの身体におけるプライベートな部分をじろじろと見ない、無闇に触らない、というのは暗黙のルールである。
それを「元男性」である彼らは理解ができない。
だから量産型のライトノベルで、女性のキャラクターが女性同士でお互いの胸を揉み合うなどという陳腐極まりないシーンが出てきてしまう。
そしてその理解のまま、現実でも女湯にやってきてレポートを書いてしまう。

これが彼らが「体は女性、魂は男性」であることの何よりもの証明であるとはいえないだろうか。

🐧🐧🐧

私も当初、まだ彼らに対しての解像度が低かったときには「性転換手術を済ませているならいいんじゃないか」など漠然と思っていた時期があった。

言いようのない不気味さはどこかで感じていたものの、もう「親にもらった大切な体にメスを入れるなんて」という時代ではない。
私は耳だけでピアスホールは5つもあるし、若い時分にボディピアスのホール(へそ)も作った。
娘は今どきのティーンエイジャーらしく「整形したいなぁ」など不用意に漏らすときがあるけれど、目ぐらいであればうるさく言うつもりはない。
だから究極の手段として「性転換手術」もありなのかもしれない、とは思っていた。

けれど、これや他の「女湯レポート」を見ると、どうやら彼らのエネルギーのベクトルは全く違っているらしい。

私がこんなに耳にたくさん穴を開けているのは、「そのスタイルが好きだから」である。
今は4つ、小さめのフープピアスが並んでいる。
右に2つ、ひとつは黒でひとつはシルバー。
左も2つでこれはどちらもシルバーだ。

美容整形についても依存しすぎて中毒状態になっている人もいるものの、基本は「自分をより好きになるため」に行う、前向きな自分のためのエネルギーだ。
本当に悩んで苦しむ人が最後の手段としてとる「性転換手術」もこれにあたるだろう。

けれどこの「女湯レポート」を書いて、嬉々としてネットに上げてしまうような人たちのエネルギーは、多分全く違うベクトルを持っているのではないか。

彼らは本当に「女性になりたい」のだろうか。
それならば、どうしてその視点に身体的女性に対しての尊重も敬意も全く感じられないのだろうか。

確かにメスを入れ、女性ホルモンを投与して外科手術で作った体は美しいだろう。
けれどそれは「女性としての人生を生きてきた美しさ」ではないよね。
ただの男性向けのエロアニメに出てくるような、どこかの量産型のグラビアアイドルのような、
はたまたゲームのなかのCG で作られた美少女のような。
「誰かの『性欲』を煽るためにイメージされたポルノ的な美しさ」だ。

いつかXでトランス女性を公表したアカウントが「私たちは身体的女性より美しいので、身体的女性に性的な興味などない(だから女湯を利用する自由は与えられるべきだ)」など宣っているのを見たときがあった。

彼が(敢えて「彼」とよばせてもらう)身体的女性より美しいかどうか、性的興味があるどうかなどどうでもいいのだ。
女性たちが彼の女湯の利用を拒むのは、その「尊重と敬意のなさ」が原因だ。
百歩譲って、分からなくてもいい。
「暗黙のルール」を受け入れることさえできるのなら。ただそれさえも受け入れられない。

「私は美しいから」
「私は興味がないから」
それはあなたの都合でしかない。

自分のルールでしか動けないものに、公共の場を利用する権利はないだろう。
それはどの場所だって同じだ。
燃えるゴミの日に資源ゴミを出せば、当然誰かから苦情がくる。
仕事にしても自分のルールだけで仕事をしていたら他者との連携は全くとれなくなるし、その結果として確実に誰かに迷惑がかかる。

そういったことを理解できないのもまた「体は女性」「魂は男性」の証明であるといえよう。

我々は彼らが我々より美しいから嫉妬しているのではないのだ。勘違いも甚だしい。
我々が感じているのは「恐怖」だよ。
長い間、当たり前のこととして守られてきた暗黙のルール。それを理解もしなければ受け入れる気もない「エイリアン」の登場。
そんなものと一糸も纏わない無防備な状態で入浴しなければならいこと。

それは恐怖も感じるだろうね。

🐧🐧🐧

最近の日本人男性の凋落ぶり、被害妄想の強さ(いわゆるミソジニスト、インセルと呼ばれるひとたちの挙動だ)はとうとう海外の人たちまでもが知ることになってしまったらしい。

はっきりいって嘲笑されている。
なんとも情けない国になったものである。

この国においては全員ではないものの、そういったミソジニスト、インセルといったカテゴリーに入る人、またそれを拗らせたことでトランス女性になってしまった人も含めて、
相手を「消費すること」が男性側(または男性性側)の「愛」であり、
相手の「消費を受け入れること」が女性側(または女性性側)の「愛」である

と、勘違いしている人が、かなり多いのではないだろうか。

けれどその「愛」の原型となるべきエネルギーは鬱屈したまま持て余されている。
だから受け入れ側である女性に対し、捻じ曲がったベクトルでそれは向けられる。

そもそも勘違いしたその「愛」は受け入れられるわけなんかないのだ。
勉強ばかりで女性に関わる機会のなかった人、また誰かに傷つけられたことで関わる勇気を失くした人もいるかもしれないけれど。

彼らは思うのだろう。
「消費されて喜ぶべきはずの『女性』がどうして嫌がるんだ!」

彼らにとって相手を「消費すること」こそが「愛」の表現だ。
だからこそ「現実の女性を消費させてもらえないこと」は人権侵害にまでなってしまうのだし、ここまでの被害妄想を産むのだと私は思う。

昨年だったか、X で「女体にありつく権利」とまで宣うものまで出てきた。
このことなど、その極みといえるだろう。

だからこそ、彼らはその身体にメスを入れることまでして「合法的に女性を消費する」という行いをするのではないか。
いわば、「消費する側」から「消費される側」にその位置を移すことで、「自分自身も消費される」と同時に「女性を消費しよう」という目論見である。

外側を整えても、結局、内包するロジックは男性のままなのはそれが原因ではないだろうか。
それを潜在的にキャッチしているから、女性たちは彼らを断固拒否するのである。

とはいえ、欲で狂って前が全く見えなくなっている頭には、これを説明しても理解などできないだろうけれど。

🐧🐧🐧

この国の戦後教育はそういった男性性のなかに含まれる「攻撃性」や「凶暴性」というものを絶対悪として「母性」で蓋をし、見ないようにしてきた傾向があったように感じる。
つまり、男性性は戦後教育によってスポイルされ続けてきたように私には見えるのだ。

その受け皿になったのが、ポルノ業界であり、アダルトエンターテイメント業界であるともいえると思う。
彼らには「消費すること」以外の愛を教えることなどできない。それだけの知性も感受性もないのだから。

臭いものに蓋をし、性教育の情緒的な部分をみな彼らに押し付けてきたことの、その反動が一気にきたのが、この「今」になるだろう。
本来そこを担うべき役割だった父親たちは戦争で亡くなっていたり、高度経済成長、バブル経済などによる長時間労働のために、家庭からその姿は消えていた。
そのツケが回ってきたのである。

健やかな男性性とは一体、どういったものだろうか。

男性性に分類されるのは、分析、評価、判断、論理、攻撃、支配、決断力、積極性などである。

日経新聞

いってみれば「外向き」のエネルギーということになるだろう。

対して女性性の定義は以下の引用の通りである。

女性性に分類されるのは受容、包容力、共有、調和、安定、直感、感覚、感性、柔軟性などだ。

日経新聞

彼らにとっての「女性性」とは相手のなかに「自分のために用意されていて当然」のものであり、また彼ら自身の「男性性」はそれを消費、捕食するためのただのツールである。

女性は彼らの即物的な欲を満たすための装置であり、ただの耐久消費財だ。
昭和の男性たちが行っていた、コンパニオンを入れた社員旅行の醜態や、東南アジアでのおぞましい買春ツアーなどをみればそれがよく分かる。

けれど男性だからといって、男性性しか持ちえないのではないし、女性もまた然りである。
ひとりの人間の中にそれはどちらも存在していて、そのなかで揺らいでいるのが人間である。

彼らは自分のなかにある女性性を見つけることができない。
かといって、男性性もうまく扱えない。
だから男性性で相手の女性性を消費または利用しようとする。

とはいえ、女性たちのなかにも男性性は存在するのだ。だから拒否する。受容するばかりが女性ではないのは、それが理由だ。
でも彼らはそれが理解できない。
結果、このような状態になるのである。なんと愚かしいことだろうか。

手っ取り早く、すぐそこにあるものを消費する。
または身体的ポテンシャルの差にものをいわせて消費する。
動物ですら求愛行動はする。
つまりはそれ以下である。

🐧🐧🐧

本来「愛」とは循環であり、共鳴、また共存でもある。
相手を強くし、自由にするもの。
そのことで自分も満たされて強くなり、より自由になっていくものだ。
そういった善い循環を「愛」とよぶのである。
間違ってもお互いに依存し、消費しあいながら食い尽くされていくことを「愛」とよぶのではないよ。

これははっきりいって、この戦後の日本社会が犯した最大の過ちであると私は思っている。
少子化も未婚率も、全てはそこに起因するといっていいだろう。

「消費の愛」は、中身がからっぽでなにも入っていない。
スカスカで「相手になにかしてもらうこと」そればかりだ。そうか、だからスカスカなのか。

男性もそうだけれど、残念ながら女性にもその傾向は最近、見られる。
いわゆる「白馬の王子様願望」である。
だから「推し活」や「乙女ゲーム」などが流行るのだろう。

いい大人が安っぽい量産型の異世界転生アニメを見て「おれも転生したい!」など宣ったり、推し活はしているものの、リアルでは全くそれに叶った男性はいなかったり。
それがこの国の「現実」である。

きっと人口はまだまだ減るだろう。
それがこの一億総幼稚化の結果であり、それは私たちの責任ではない。

いつかの未来、もしもこの国の「かたち」とまでとは言わないとしても「人」だけでも残っていれば。
どうか「愛」は善き循環であり、光そのものであるということ ── そのことが、伝わっていてほしいと願うのみである。


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