卵焼きという名の屈伸運動
卵焼きは私にとって義務である。
ともすれば茶一色になりかねない弁当の“彩”を背負って立つ花形だ。
飽きたと言われようが、気分でないと言われようが、私は月〜金それを焼く。
土曜は夫だけなので茶一色でいい。
むしろ茶がいい。
卵焼きとは26年焼き続けても「完璧!」と自惚れる焼き上がりにするのは難しいものだ。
まずフライパン。
本来であれば銅の卵焼き鍋なんかで焼くのが理想だが、あれは弁当には向かない。
朝は忙しい。
フライパンを何種類も出していられない。
卵焼き、野菜炒め、生姜焼きという風にひとつを使い回せるかで勝敗が決まる。
私は数年そうやって使い回していた卵焼きフライパンの持ち手の中で、何かがカラカラと音を立てて転がる音を聞いた。
本体と柄をつなぐ接続部分が腐食して持ち手の中に落ちたらしい。
調理中に持ち手が外れたら危険なので買い替えることにした。
見えない接続部に不安を抱えるよりと、私は取っ手の外れるタイプを選んでみた。
これが厄介だった。
フライパンを掴む持ち手のアタッチメントが内側に飛び出して卵が巻きにくいのだ。
挙句にその接続部に卵液が付くと熱で固まり、洗っても落としにくい。
アタッチメントに卵液がくっつかないないようにしつつ、あんまり上等ではないテフロンをいなさなければならない。
それに加えて角度もなんだかしっくりこない。
テフロン加工のくせに要求が多く、適度な火加減と適度な油を引かなければすぐにひっつく。
私は呼吸を整えた。
脳内に築地の卵焼き店の焼き場が見える。
華麗な鍋さばき、自我を持ちくるりと舞う卵。
よし!
フライパンの中にある固まりかけの卵液に箸を添え、軽く膝を屈伸しつつ卵を巻い…
失敗しました。

理想は艶やかに潤った肌。
光沢があり、瑞々しく端正な。
現実は脆く危うい…あと一歩間違えばスクランブルエッグ。
だが、ここで諦めるわけにはいかない。朝の時間は一分一秒が勝負だ。焼き直す余裕など微塵もないし、やる気もない。
私は箸をヘラに持ち替え、その無残な黄色い塊をフライパンから剥がしてくっつけ、角へと強引に押しやった。
取っ手のアタッチメントという「障害物」をも無視し、U字の窪みは奮闘の印。
直角のコーナーに沿わせてギュッギュッと形を整える。
「熱こそが正義だ」
余熱で強引に固め、巻目さえ隠蔽してしまえば、お弁当箱の中では立派な「卵焼き」の顔をして収まるはずだ。
執念で形を成したそれは、私の朝の焦燥を体現したような仕上がりになった。
── 思えば、プロの職人は、本物の卵を焼く前に濡れタオルを使って巻く練習を幾度も重ねるという。
私も、初心に帰るべきではないか。
妙に出っ張る取っ手の付いた、このフライパンの癖を掴むまで、濡れ布巾で特訓すべきではないか。
そうすれば、いつか膝を使わずとも、手首のスナップだけで自我を持つ卵を操れるようになるかもしれない。
全員が玄関を出たあと、私は布巾を濡らし「自主トレ」に励んだ。
来る日も来る日も、朝な夕な。首に垂らした“手ぬぐい”で汗を抑え、フライパンを煽り、軽い屈伸と手首のスナップに集中する日々。
とうとう……膝を痛めた。
脳内で研鑽を積んだ私は、自分が選んだこの「取っ手の外れるフライパン」を忌々しく思い、彼に戦力外通告を出す決意をした。
26年のキャリアを舐めてはいけない。道具選びの失敗は、死活問題なのだ。
しかし、ここで私の「貧乏性」が鎌首をもたげる。
「まだテフロンは生きているのに? 取っ手が取れるから収納には便利なのに?」
脳内のリトルミーが囁く。
(あのキャラではない)
買い替えるのは簡単だが、このフライパンを使い倒さずに捨てるのは、主婦のプライドが許さない。
そこから、私とこのフライパンとの奇妙な共同生活が始まった。
戦力外通告は撤回。
その代わり、彼には「四角のフライパンでもできるすべて」という過酷な任務を課せよう。
野菜炒め、生姜焼き、ハンバーグ、はてはちょっとした煮物まで。
何でもかんでも、このフライパンで作る。
とにかく酷使して、一日も早く「買い替えのサイン」を出させようという、卑しい作戦だ。
どうだ!
参ったか!
しかし、憎らしいほどにこのフライパンは丈夫だった。
毎日ガシガシ使われているのに、テフロンは一向に剥がれる気配を見せない。
それどころか、何度も使ううちに、私の方があのアタッチメントの突起を気にもかけないことを覚えてしまった。
そして今日。
久しぶりに、自惚れてもいい出来栄えのものが焼けた。

悪くないだろう。
だが、明日は土曜。
茶一色のお弁当だ。
黄色を焼かなくていいという解放感に浸りながら、私はこのフライパンをちょっと粗暴に洗う。
テフロンが怪しくなるまで使うつもりではいる。
そう、使うつもり。
つもり。
ね。
ガシガシっと、ね。
