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#未来の当たり前にしたいこと──「当たり前をひとつに決めない」伊豆育ちとイギリス人夫の暮らしから

未来の当たり前にしたいのは、『当たり前をひとつに決めなくてもいい社会』だ。

「当たり前」という言葉が、昔からあまり好きじゃない。

日本では、「みんなそうしてるよ」「普通はこうでしょ」とセットで使われることが多い。
そのたびに、目に見えないレールの上に乗せられるような息苦しさを感じてきた。

2025年は、昭和元年から数えて「昭和100年目」の年らしい。
この100年のあいだに、社会にはたくさんの“当たり前”が生まれた。
便利になったことも、守られてきたものも、きっと数えきれない。

でも私は、未来の当たり前を考える前に、一度だけ立ち止まってみたい。

「そもそも、それって本当に当たり前なの?」


伊豆の田舎で覚えた、“当たり前の圧”

私は、伊豆の田舎で育った。

川の水は透きとおっていて、山を少し登れば温泉が湧いている。
蛇口をひねれば、当たり前のようにきれいな水が出てくる地域だ。

学校では、みんな同じ制服を着て、同じような髪型で、同じような進路を目指す。
「女の子なんだから」「普通はこうするものだよ」という言葉もよく聞いた。

お風呂といえば、浴槽にたっぷりお湯を張って、
体や髪を洗うときもシャワーを流しっぱなし。
皿洗いも、洗剤をたっぷり泡立てて、キュッキュッと音がするまで流すのが“きれい”の基準だった。

そんな環境で育った私は、
「水はきれいで豊富なもの」「ジャブジャブ使うのが普通」という感覚を、
疑いもせずに“当たり前”として身につけていった。

一方で、みんなと同じ方向を向くことを求められる空気には、
ずっと小さな反発も抱えていた。
心の中でこっそりと、

「本当に?」「それって誰が決めたの?」

と問いかけていた。


イギリス人夫との「水バトル」が教えてくれたこと

そんな私が、40歳を過ぎてから結婚した相手は、イギリス人の夫だ。

一緒に暮らしはじめて、いちばん最初にぶつかったのは、
大きな価値観の違いでも、宗教でも、政治でもなかった。
お風呂と皿洗いだった。

ある日、夫がお風呂から出てきたあと、バスタブをのぞいて驚いた。
お湯が、ほとんど張られていない。
「これ…足湯?」と思うくらいの水位で、さっさとシャワーを切り上げている。

皿洗いもそうだ。
スポンジでサッとこすったあと、水を出したかと思うと、あっという間に蛇口を止める。
よく見ると、皿のふちに、うっすらと洗剤の泡が残っていた。

「ちょっと待って、それ、まだ泡ついてるよね?」
「え? ちゃんと流したよ?」
「いや、ほら、ここ。ヌルヌルしてるじゃん」
「それくらい大丈夫だよ。水、もったいない」

その「water is precious」という一言に、
私の中の“伊豆の当たり前”がガタッと揺れた。

私にとって、水は「きれいで豊富なもの」だった。
彼にとって、水は「大事に使わなきゃいけない資源」だった。
同じ蛇口から出てくる水を前にして、見えているものがまったく違う。

正直に言えば、最初のころの私は「水をケチってる」と思っていたし、
彼のほうも「そんなにジャブジャブ流して、もったいなくない?」と本気で不思議そうだった。

でも、一緒に暮らしていくうちに、

  • 実家では、水道代や光熱費にかなり気をつかっていたこと

  • 子どものころ、ホースの水を出しっぱなしにして怒られた思い出があること

  • イギリスでは、日照やインフラ事情もあって、暖房やお湯の使い方が日本と違うこと

そんな背景が、ぽろぽろと出てきた。

そこから先は、「どっちが正しいか」の話ではなくなった。

「伊豆の当たり前」と「イギリスの当たり前」が、たまたま同じ家の中に同居しているだけなんだ。
そう気づいた瞬間から、私たちのやりとりは、少しだけやわらかくなった。

「泡はちゃんと流したいけど、水も大事にしたい」
「じゃあ、ボウルに水をためて、その中で最後にサッとすすぐのはどう?」

ふたりの当たり前を混ぜて、新しいやり方をつくっていく。
その小さな実験が、日常のあちこちに増えていった。


当たり前からこぼれ落ちてきたから見えるもの

私は、伊豆の田舎で“当たり前の圧”を感じながら育ち、
フリーランスの放送作家として、常識にしばられない働き方を選んできた。

結婚したのも40歳を過ぎてからで、相手は外国人。
子どもはいない。
日本でよく語られる「当たり前の女性の人生コース」からは、けっこう外れている。

企画の仕事をしているときも、
「視聴者はこういうのが好きでしょ」
「主婦はこういう生活をしているはず」
といった“テレビの当たり前”に、違和感を覚えることがある。

そんなとき、私の出発点はたいてい同じだ。

「そもそも、それって当たり前なの?」

伊豆で育ったこと。
当たり前のレールから少しずつ外れてきたこと。
イギリス人の夫と暮らしていること。

その全部が、私を「当たり前の外側」に立たせてくれた。
そこから世界を見ていると、
“みんなのための当たり前”から、静かにこぼれ落ちていく人たちの姿が、どうしても気になってしまう。


この100年で増えた“当たり前”の数だけ、
「そこからこぼれ落ちた人」もいたと思う。
次の100年は、当たり前の数を増やすより、
“当たり前じゃなくても生きやすい”世界を少しずつ広げていきたい。

伊豆の水と、イギリスの水が、同じキッチンで混ざり合うように。
それぞれの「普通」がそのまま残っていても、
一緒に笑って暮らしていける未来を、私は「次の当たり前」にしたいと思っている。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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