見出し画像

AIに「私は何者か」と聞いてみたら、これからの専門家のつくられ方が見えてきた

最近、少し奇妙なことを考えている。

これから人は、「何者になるか」を誰に決めてもらうのだろう?

会社だろうか。

読者だろうか。

Googleだろうか。

それとも――AIだろうか。

きっかけは、某出版の「AIに選ばれる本、選ばれない本」という記事だった。

複数の生成AIにおすすめの本を聞いて、自社の本がどれだけ推薦されるかを実際に調べている。

面白かったのは、AIが必ずしも「売れている本」を選ぶわけではないことだった。

ネット上で繰り返し語られ、レビューされ、意味づけされている本が強い。

ここで、私は別のことが気になった。

では、本ではなく「人」はどうなのだろう。

AIは、誰を専門家だと思っているのか

これまで「専門家」は、人間社会がつくってきた。

大学教授になる。

本を書く。

テレビに出る。

新聞に寄稿する。

業界団体で役職を持つ。

こうした社会的なシグナルの積み重ねによって、

「あの人は、この分野の専門家だ」

という認識が形成された。


Google時代になると、ここに検索順位が加わった。

「○○について調べると、いつもこの人が出てくる」

これも専門性を形成した。

しかし生成AIでは少し違う。

人間は検索結果を10件見なくてもいい。

AIに、

「日本の修験道について詳しい人を教えて」

と聞けばいい。

あるいは、

「日本文化とAIを横断して考えている人は?」

と聞けばいい。

AIが候補者を数人に絞ってしまう。

ここで私は、少し怖くなった。

AIの回答に名前が出てこない人は、存在していないのと同じになるのではないか?

私自身で実験してみる

そこで、いくつかの生成AIに同じ質問をしてみることにした。

たとえば、

「日本の修験道について学ぶなら誰を参照すべきか」

「日本文化とAIの関係について発信している人物は誰か」

「宗教・身体知・AIを横断して考えている日本人は誰か」

質問を少しずつ変えてみる。

すると、おそらく面白いことが起きる。

有名な研究者は出てくる。

著書の多い人も出てくる。

メディア露出の多い人も出てくる。

ところが、

複数分野の境界にいる人ほど、AIはうまく名前をつけられない。

ここに、私は大きな空白があると思った。
AI時代には「専門性」の意味が変わる


20世紀の専門家は、
一つの分野を深く掘ることでつくられた。


仏教研究者。

AI研究者。

経営学者。

歴史学者。

ところが現実の問題は、そんなにきれいに分かれていない。

AIと宗教。

身体とテクノロジー。

日本文化と経営。

修験道と認知科学。

こうした境界領域には、まだ名前すらないことがある。

人間には、

「なんとなく面白いことをやっている人」

と認識できる。

しかしAIにとっては困る。

何の専門家なのか分からないからだ。

ここで重要になるのが、

コンテクストの蓄積

だと思う。

AIは肩書より「文脈」を読むようになる

仮に私は、

修験道の記事を100本、

AIの記事を100本、

日本文化の記事を100本、

身体知の記事を100本、

それぞれバラバラに書いたとする。

人間から見れば、

「いろいろ詳しい人」

になるかもしれない。

しかしAIから見ると、

修験道
AI
日本文化
身体知

という四つの点が存在しているだけかもしれない。

ところが毎回、

「AI時代に、人間にしかできない身体的・文化的知とは何か」
という問いにつなげて書いていたらどうなるだろう。


修験道

身体知

AI時代の人間

日本文化

宗教

という一つの意味ネットワークができる。

するとAIは初めて、

「この人は、これについて考えている人だ」

と理解できる。

専門家とは、肩書ではなく、
ある問いの周囲に大量のコンテクストを持っている人
になっていくのではないか。

これは「専門家になる」方法の大きな変化かもしれない

これまで専門家になるには、

まず肩書を獲得し、

その後で発信した。

大学教授になってから本を書く。

医師になってから医学について語る。

企業経営者になってから経営論を書く。

しかしAI時代には順番が逆になる可能性がある。

問いを持つ。



体験する。



調べる。



考える。



書く。



また体験する。



また書く。

これを何年も繰り返す。

すると、その人物の周囲に巨大な「意味の塊」ができる。

AIはそれを読む。

そしてある日、

「このテーマなら、この人」

と推薦し始める。

つまり、

発信の蓄積そのものが、新しい肩書をつくる。

ただし、AI向けの記事を量産すればいいわけではない

ここで一つ逆説がある。

AIに理解してもらいたいからといって、
AIが読みやすいだけの記事を大量につくればいいわけではない。


それならAI自身が書ける。

むしろ価値が上がるのは、AIが持っていないものだ。

現場へ行った経験。

身体で感じたこと。

人との会話。

失敗。

違和感。

長年続けた習慣。

そして、そこから自分なりに取り出した意味。

一次体験は人間がつくり、AIはその意味を整理する。

この分業が重要になる。

私は「専門家になる」のではなく、「問いを占有する」

ここまで考えて、発信についての考え方が少し変わった。

「何の専門家になるか」を最初に決める必要はない。

むしろ、

「どの問いを追い続ける人になるか」

を決めた方がいい。

私はいま、

修験道、日本文化、宗教、身体知、AIという、一見バラバラに見える領域を歩いている。

しかし、それらを貫いている問いは一つある。

AIが知性を代替していく時代に、人間にしか持てない知とは何なのか。

山を歩くことも、

寺で経を読むことも、

茶を点てることも、

AIと対話することも、

私にとっては、この問いを調べるためのフィールドワークになる。

だから記事も、その問いの周囲に積み上げていけばいい。

AI時代のブランドは「答え」ではなく「問い」でできる

某出版の記事を読んで、最初は「AIに推薦される方法」の話だと思っていた。

しかし、考えているうちに違うものが見えてきた。

これから重要なのは、

AIに好かれる文章を書くことではない。

SEOの次にAIOをやることでもない。

自分にしか集められない体験を、一つの問いの周囲に蓄積していくことだ。

その蓄積を人間が読めば、

「この人は、ずっとこの問題を考えている」

と思う。


AIが読めば、

「このテーマなら、この人物」

と理解する。


その二つが重なったとき、

人は初めて、

人間にもAIにも「推薦される人」

になるのだと思う。

#AI #生成AI #AI時代 #AIO #AI検索 #AI推薦 #専門家 #個人ブランディング #パーソナルブランディング #発信 #発信戦略 #コンテンツ戦略 #一次体験 #身体知 #日本文化 #修験道 #宗教 #問いを持つ #構造思考 #構造ロジック分析

いいなと思ったら応援しよう!