礼とは、自分と相手の中の「神」を呼び起こす技である
神社で神前に立つ。
礼に則って姿勢を整え、頭を下げ、神を拝する。
そこに鏡がある。
鏡とは不思議なものだ。こちらが向き合えば、必ずこちらを映し返す。
観照 🔄 反照。
わたし 🔄 神。
「かがみ」から「我(が)」を取れば「かみ」になる―象徴として見ると、実に面白い。
神を拝んでいたはずなのに、鏡によって自分自身へと視線が返ってくる。
では、そのとき「礼」は何をしているのだろう。
礼には「型」がある。
姿勢を正す。頭を下げる。言葉を整える。順序を守る。
型とは、いわば目に見えない敬意を運ぶベルトコンベアのようなものだ。
敬意そのものは見えない。
だから人間は、それを型に載せる。
内なる敬意・神性
→ 型
→ 礼として顕れる
→ 相手へ伝わる。
しかし、礼は一方向では終わらない。
礼を受けた相手からは、返礼がある。
わたし ──礼──→ 相手
わたし ←─返礼── 相手
礼をもって相手に接すると、自分の内なる敬意が顕れる。同時に、「あなたを尊い存在として扱う」という働きかけによって、相手の側にある敬意や尊厳も引き出される。
だから礼とは、
自身の神性を顕現させると同時に、相手の神性をも顕現させる「型」
と考えることもできる。
そして返礼によって、その働きはこちらへ戻ってくる。
神性 → 礼 → 他者の神性 → 返礼 → 自身の神性
循環するのである。
これは神前でも同じ構造として見ることができる。
礼をもって神を拝する。
神前には鏡が置かれている。
神前を拝すれば鏡に向かう。
神を観照するはずだった視線が、鏡によって自分へ反照される。
そこで問われるのは、神がどうであるかではない。
自分は、どう在るのか?
礼によって自己を整え、神を拝し、鏡によって自らを鑑み、また自己を整える。
孔子のいう、
「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」
も、この視点から見ると興味深い。
心が動き、礼によって立ち、やがて内と外が調和していく。
礼とは単なるマナーではない。
礼とは、自らの内なるものを顕し、相手の内なるものを呼び起こす、関係の型である。
だから、
礼 🔄 返礼
その最も深いところでは、
神性 🔄 神性
が起きている。
礼を尽くすとは、相手を小さく扱わないことでもある。
そして相手を尊い存在として扱うその所作によって、自分自身の在り方もまた整えられていく。
つまり、礼とは、互いの神性を顕すことでもある。
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