見出し画像

不登校支援──“本音と想い” 20本の記事を書いてきて。

改めて、私が書き始めた理由

私がnoteを始めたのは、この20年間で見てきた“不登校支援”という世界の風景を、一度言葉にしておきたいと思ったからだ。
この間、塾講師、学校の通常学級、別教室、フリースクールなど、さまざまな場で子どもたちと関わってきた。

実際に不登校の子どもと「支援」という形で関わるようになったのは8年ほど前だが、それ以前から、私は引きこもりの経験や生きづらさを抱えた当事者として、不登校や引きこもりの集まり、講演会、親の会などに20年近く通い続けてきた。


最近になって「まとめたい」と思うようになったのは、積み重ねてきた経験を通して、見えてきたことと、わからなくなっていったことの両方が増えたからだ。
支援者として活動するほど、情報や理論はあふれ、考えれば考えるほど頭の中が混乱していった。
本やネットで知識を集め、親や子どもの声を聞けば聞くほど、何が本質なのかわからなくなる。


同時に、世の中にあふれる「支援の言葉」に対して、強い違和感を持つようになった。
不登校という一つの現象だけで、多様な人間を語ることはできない。
目の前の子どもを「不登校の子」というカッコでくくることに、どんな意味があるのだろう。

理論や知識は大切だ。
けれど、実際に子どもを前にしたとき、私がいちばん大切にしてきたのは——
一度、自分の頭を“空”にすることだった。


理論や知識で見ようとすると、つい自分の理解の枠に押し込めてしまう。
ただ一人の人間として、その子をよく見て、興味をもち、対等に話す。
何が好きで、何を考えているのか。
そして、自分は何を感じ、どう思っているのかを正直に伝える。

これは「支援」でも「教育」でもない。
不登校の子であろうと、学校に通う子であろうと、大人であろうと、私はいつも、同じように人と向き合いたいと思っている。

だからこそ、人を何かの言葉でラベリングしたり、“する/される”の関係性には敏感になる。
私自身、そういうふうに扱われるのが何より嫌だった。
肩書きや立場ではなく、一人の人間として接してくれる人に、私は信頼を感じる。


“言葉のやさしさ”の裏側で──現場が見えなくなるとき

今の不登校支援を見ていると、「子どもの問題」というよりも、大人たちの語りの題材になっているように感じることがある。
当事者、元当事者、保護者、専門家、支援団体、ビジネス関係者──それぞれが「不登校とは」「支援とは」を自分の立場から語る。

ネットを開けば、そんな動画や記事がいくらでも並んでいる。
理論やパターンがわかりやすく整理され、「なるほど」と思えるところもある。
けれど、どこか整いすぎていて、子どもの姿を感じない。


「不登校は人それぞれ」「正解はない」と言いながら、気づけば「これが正しい関わり方だ」「不登校は悪くない」といった新しい“正しさ”ができていく。
過度に不登校を賛美するような語りも見られ、社会的成功者が元不登校だと、そのことに拍車をかける。

不登校をめぐる言説は、いま大きく二つに分かれて見える。
ひとつは「エネルギーが溜まるのを待ちましょう」「無理して学校に行かなくてもいい」という、“見守り”の流れ。
もうひとつは、不登校を「解決すべき問題」や「病理」と捉え、学校復帰を目標に据える流れだ。


こうやって、不登校についてさまざまな意見が出ること自体は、本来は良い傾向なのかもしれない。
けれど、どこか大人たちの中でだけの、妙な“過熱感”を感じる
最終的には、目の前の子どもを見ていくしかないのだが、最近では、どちらの言葉もいつの間にか自分の論を正当化する方に力が向き、また、自分の周りのごく一部の成功例にだけ目を向け、子どもを見ていない気がするからだ。


焦る親や当事者に向けて、わかりやすく、やさしく、理論的にまとめられた言葉があふれている。
「安心」を売り、「正しさ」を売る。
そんな空気の中で、不登校はいつの間にか“商品”になってしまったように感じる。

「不登校でも大丈夫」「エネルギーが足りないだけ」「ありのままでいい」──どれも間違ってはいない。
だが、どこに行っても “判を押したように” 繰り返されている。


また、「不登校を数週間で解決します」とあからさまに商品として売り出しているところもある。
その言葉を語る人たちは、その意味をどこまで考え、相手がどう受け取るかまで想像しているのだろうか。
一般化された“やさしい言葉”は、その場では救いになるが、すぐに現実の問題にかき消される。
「もしかしたら違うかもしれない」という怖さを抱えながら語る人は、どれほどいるのだろう。
私はそこに強い違和感を覚える。


現場で見えなくなっているもの

この“言葉の熱”は、ネット空間だけにとどまらない。
親の会や学校など、具体的な現場にも、「正しいノウハウ」として広がりつつある。

かつての親の会は、互いに胸の内を少しずつ出し合い、アドバイスよりも経験を語り合い、それぞれが自分を見つめ直すような、静かな「場」だった。
しかし近年は、「ハウツー」や「情報提供」を中心にした会が増えている。
人が集まる会は、「不登校の子にはこう接しましょう」「この通信制高校は卒業しやすい」といった、具体的でわかりやすい話が主流になる。


専門家や通信制学校、フリースクール、企業、公的機関などが関わり、効率的で整理された“支援の形”が商品として並べられる。
もちろん、それ自体が悪いわけではない。
だが、そこにも「する/される」の関係が透けて見える。
不登校支援が商品化し、消費社会の一部になっている

「正解がない」と言われながら、実際には“よりよい対応”“効果的な関わり方”が提示される。
その言葉に救われる人もいる一方で、「その子を見ていないのに、断言するようなことを言って平気なのか」と思うこともある。


学校の現場も同じだ。
会議や研修では「合理的配慮」「個別支援」「エネルギー」「見守り」といった言葉が並び、先生たちはそれらを使って議論する。
不登校への理解が進んだように見える。

だが、実際に子どものもとを訪ね、共に過ごす人は少ない。
「声かけが大事」と言われたら、文字通り、一言声をかけて帰る。
「見守る」と言われれば、本当に見ているだけの先生も少なくない。
その言葉が何を意味するのか、一度立ち止まって考えてほしい。


「子どもを支援したいなら、まず隣に座ってみればいい」
話を聞き、表情を見て、時間を共にしてほしい。
私が学校現場で感じた一番の違和感は、子どもを良く見ない、話もしてない、共に過ごしていないのに、支援や生徒のことが綺麗な言葉で語られることだった。


いまの不登校支援は、言葉も制度も整い、一見進歩したように見える。
しかし、言葉や制度ほど、実際の子どもが見えているとは思えない。
多様性といいながら、今度は**誰かがつくった「正しい支援」という名の“枠”**の中に、子どもたちが静かにあてはめられていく
私が感じているのは、そんな構造的な違和感と危機感である。


立ち止まる中で

二十本の記事を書いてきて、今、少し立ち止まっている。
何かをまとめるというより、今の自分の本音をいったん書き留めておきたくなった。


今の正直な気持ちを言えば、私は「支援」という言葉があまり好きではない。
その言葉には、どこかものものしさや、押しつけがましさ、上から目線の響きを感じてしまう。
もちろん、支援が必要なケースもある。
だが、不登校においては、支援というよりも、人と人がもっと緩くつながり、対等な関係で共に過ごす時間や場をつくることの方が大切だと思う。


それは、不登校か登校かにかかわらず、すべての子ども、いや大人にも共通することだと思っている。

もう一つ、本音を言えば、私は「学校に行ける・行けない」ということに、あまりこだわりがない。
それよりも、子どもがもともと持っている「興味」や「生きる力」、「知りたい」という気持ちが保たれ、毎日を楽しく過ごし、人とつながれる場があることの方がずっと大切だと思う。


学校はそのための手段のひとつであるべきだが、いつの間にか「学校に通うこと」自体が目的化してしまっている。
しかし現実として、その「場」が学校以外にはなかなか見つからないのが今の社会だ。

多様な生き方ができると言いつつ、進学や就職など人生の多くの選択肢は、いまだに“学校というレール”の上にある。
少なからず学校を見てきた立場から言えば、学校は「合う子には良いが、合わない子には本当に息苦しい場所」だ。
特別に良い場所でも、悪い場所でもない。一長一短のある、ひとつの場所にすぎないと思う。


「集団の中で社会性を学ぶ」とよく言われるが、その集団の中で歪んでいく子も、病んでいく子も多い。
教室によっては、見えない序列や能力の比較、一部の目立つ子が幅を利かすこともあり、グループ内の力関係などが渦巻いている。
正直いって、なかなか複雑な場だ。
そんな中に多感な時期の子がひしめきあっている。
そういう人間関係を学ぶことも大切だと言われたらそうなのかもしれないが、人によっては、社会性どころか“生きる気力”すら失ってしまうこともある。


あの空間では、一日中ほとんど自由がなく、一人になることも難しい。
決められた時間に決められた行動をして、狭い空間でご飯を食べる。
正直、私も昼の時間は一人で食べたい人間だ。
生徒と一緒も、職員室も、落ち着かない。
休み時間も、一人になりたいと思っている。
こうした「集団の中での自由のなさ」は、学校という空間の根本的な構造であり、合わない人にとっては耐え難い息苦しさとなる。


二十本の記事を書いてきて、今、改めて思うことがある。
支援も、学校も、社会も、すべてが複雑に絡まりあっていて、簡単に「これが正しい」「これは間違い」と分けられるものではない。
知れば知るほど、逆に「わからない」ことばかりが増えていく。


そして、その**「わからない」ことが、実は一番大切なのではないか**とも感じる。

今、世の中に溢れる「正しさ」や「解決策」は、人々が抱える「焦り」に付け込み、この複雑な現実を一般化して商品として消費しているように見える。

この過熱した空気の中で、目の前の子どもを本当に見ているのかと思う。

私も何もわからないのだが、この違和感だけは大切にしていこうと思う。


次回予告

次回は、これまでの記事をまとめ、これまでの軌跡を振り返りながら、自分の中で見えてきたことを整理していきます。

いいなと思ったら応援しよう!