宗教が無税な理由と、戦後の祈りの忘却について
宗教が無税な理由と、戦後の祈りの忘却について ――カトリック的まなざしから 私は最近、「宗教が無税であること」に違和感を覚えるという声を多く耳にします。 「ずるい」とか「税金逃れだ」といった言葉が、軽やかに投げかけられるたびに、胸の奥が少しだけ痛むのです。 でも、祈るということは、本当に“ずるい”ことでしょうか。 誰にも評価されず、誰にも見えない場所で、誰かの痛みに寄り添い、誰かの死を弔い、静かに神と対話する。 そんな営みを、私たちはいつから“胡散臭いもの”として、遠ざけてしまったのでしょうか。 ⸻ 宗教が「無税」である理由は、とても単純で、同時に深い意味を持っています。 それは、宗教が本来、国家の肩代わりをしてきたからです。 昔、お寺は学校でした。 教会は病院であり、孤児院であり、人生の最後を看取る場所でもありました。 神社は地域の季節のリズムと、農民の祈りを預かっていた。 国がまだ「国」としての制度を整えていなかった時代、人々のいのちと暮らしと心を支えていたのは、宗教だったのです。 だからこそ、宗教は営利企業とは区別され、税制上の特別な位置にある。 それは“得をしている”のではなく、“担っている”からなのです。 ⸻ けれど、戦後。 すべてが大きく変わりました。 私たちは、GHQという異国の力のもと、「戦争の罪」を植えつけられました。 ウォーギルト・インフォメーション・プログラムという、静かで周到な洗脳政策の中で、私たちはこう教えられました。 ――「国を信じてはいけない」 ――「伝統は危険」 ――「信仰は、愚かさ」 そうして、祈りは笑われるものになり、神父は非科学的だとされ、宗教はお金を集めるだけのものになった。 「それって宗教じゃない?」という言葉が、“小さな嘲笑”として日常にあふれるようになったのです。 この国では、信仰を口にすることが、少し恥ずかしいことになってしまった。 私はそれがとても悲しい。 ⸻ もちろん、宗教の側にも責任はあります。 仏教は葬儀を売り、キリスト教は結婚式の装置となり、 信仰は「儀式」の仮面をかぶって、深さと苦しみを忘れてしまった。 本来、宗教は最先端の知の場所でした。 宇宙を語り、死を見つめ、人の罪と赦しを論じる、深く厳しい知的空間。 そして、何よりも「愛とは何か」「人はなぜ生きるのか」に答えようとする、魂の探求の場だった。 それを放棄してしまったのなら、無税を責められても、仕方がないのかもしれません。 ⸻ でも私は、それでも、祈りを信じています。 祈りは目に見えないけれど、確かに世界を守っています。 人が人のために、誰に知られることもなく、静かに差し出す“無償の関係”。 その美しさを、もう一度、私たちの暮らしの中心に取り戻すことができたら。 宗教は再び、国家の肩代わりをし、心の居場所として、尊敬される日が来るのではないでしょうか。 科学や制度が、私たちの身体を守るなら、 宗教は、私たちの魂を守る場所であるべきだと思うのです。 その魂の声を、もう一度、私たちが聞けるようになることを、 私は今日も、そっと祈っています。
