当事者でもない人の言う「復讐は何も生まない」|構造考察#21
記事のネタ探しの最中、ふと、10年以上前の出来事を思い出した。
本当に恥ずかしいのだけれど、当時とんでもない人と交際してて、その人との別れ方がよろしくなくて、SNS上でやや荒れていた。
そんなとき、第三者の顔見知りのメンヘラが、「復讐は何も生まないよ」と発言してきて、腸が煮えくりかえるような気持ちになったのを憶えている。
何も理解していない第三者が、人の会話でオナニーしていくなよって。
※そもそもの話、私は復讐するなんて一言も言っていない…。
■このエピソードの本質は
「復讐は何も生まない」が正しいか間違いかではなく、なぜ人は、当事者でもないのに「復讐はやめろ」と言いたくなるのか?ということ。
いつも通り構造で考えてみて、少なくとも以下3つは考えられそうだ。
① 自分の価値観を普遍化している
「私は復讐しない」を「人類の正解」にしてしまっている。相手の事情より、自分の道徳観を優先している。
② 問題解決より自己演出
当事者を助けることより、「私は冷静で大人です」というポジションを取ることが目的。だから相手が救われるかは二の次。
私が腹立たしかったのも、まさにここだった。
「反対意見」そのものが嫌だったわけではない。当事者でもないのに裁定者のポジションを取り、相手の感情を理解する前に教訓を語り始める。その「私は一段上から見ています」という空気こそが、不快の正体だった。
つまり、その人は「復讐は何も生まない」と言うことで、精神的に成熟していること、冷静であること、憎しみに囚われていないことを演出していた。そして私という当事者が、勝手にその演出の舞台に使われた。だから腹が立った。
③ 感情を処理した経験が浅い
「怒りを出す」というプロセスを知らない。だから「早く忘れなよ」「前向こうよ」で済ませようとする。
■『復讐は何も生まない』と言う人は
本当に相手を救おうとなんてしていない。これは、「依存先を増やせ」「許した方が楽だよ」「前向きになろう」「どっちもどっち」みたいな、「万能アドバイス」にも通じる構造のように思う。
相手を理解するコストを払わず、一般論だけ置いて帰る。
だから受け取る側は「それ、今欲しかったものじゃない」と感じる。
こういう時に人が欲しいのは、少なくとも「立派な教訓」なんかではないはずだ。
■人を自分の人格アピールの舞台装置にする人
これは、今回のケース以外にも当てはまることのように思う。
例えば、
・人を説教の材料にする人
・人の失敗を利用して自分の優秀さを見せる人
・誰かの不幸で「だから私は○○してる」と語り出す人
・「私は許せる人間です」をアピールするために被害者へ許しを勧める人
全部、「相手そのもの」ではなくて、相手を自分の演出の道具にしている。
■今回考察をして気づいたこと
私の考察は、一見テーマがバラバラに見えるが、比較的共通したものを追いかけている。
「人は、他者を一人の人間として見ているのか。それとも、自分の欲求を満たすための道具として見ているのか。」
「恋愛考察」「人間観察」というより、「人が人を道具化する瞬間」の構造考察。
ということで、今後も「人を道具として扱う構造を見抜き、それを言語化すること」を続けていくつもりなので、よろしければフォローお願いいたします。
