短編小説|元天才子役
「レンちゃん、今日もとても良くできたてたわ」
撮影所の薄暗い控室で、母はいつも私の髪にブラシをかけながらそう言った。
蓮太郎という本名よりも、「レンちゃん」という愛称のほうがずっと肌に馴染んでいた。十歳までの私は、テレビをつければどこかに映っているような国民的子役だった。
私の傍らには常に母がいた。衣装の乱れを直し、セリフのイントネーションを指導し、監督へのお辞儀の角度までミリ単位で指定する。カメラの前で私が笑顔を見せ、大人たちが拍手を送るたび、母は満足そうに細い目をさらに細めた。
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二十歳を迎える頃には、私には大手の芸能事務所から派遣された、スーツ姿のマネージャーがつくようになっていた。
「蓮太郎、もうお母様を現場に連れてくるのはやめましょう。これからは一人の俳優として自立してもらわなければ困ります」
マネージャーの言葉に、私は反論できなかった。母もまた、寂しげな、けれど物分かりの良い笑みを浮かべて身を引いた。
「そうね。これからはテレビの画面から見守らせてもらうわ。自由にやりなさい」
それが、私と母の間に引かれた最初の境界線だった。
だが、現実は甘くなかった。「元・天才子役」という肩書は、成長した私にとってただの重荷でしかなかった。オーディションには落ち続け、世間は私を忘れていき、ネットには「あの人は今」という残酷な文字が躍った。
焦燥感に押しつぶされそうになっていたある夜、実家から一本の電話があった。
「蓮太郎、苦しんでいるみたいね。次の舞台のオーディション、あえて一番泥臭くて嫌われ者の悪役を選んで受けなさい。今のあなたに足りないのは、子役時代の綺麗なイメージを自らぶち壊す『狂気』よ」
縋るようにその言葉に従った。結果、私の怪演は批評家たちから絶賛され、久々に業界の注目を集めることに成功した。
風向きが変わった。しかし、一度味わった飢餓感は私を傲慢にした。母は「今はまだ地固めの時期。作品を選びなさい」と忠告してくれたが、私はそれを無視した。
マネージャーが持ってくる仕事を片っ端から詰め込み、夜は夜の街へと繰り出した。俺はもう子供じゃない。自分の力で売れたんだ。
その慢心が命取りだった。
週刊誌による、奔放な女性関係と未成年飲酒疑惑のスクープ。
一瞬にして仕事は白紙になり、事務所からも契約解除を突きつけられた。
絶望の中で、私は這うようにして実家の門を叩いた。
母は、かつて控室で見せてくれたのと同じ、優しい笑みで私を迎え入れた。何も聞かず、ただ私が子役時代に好きだった甘いココアを淹れてくれた。湯気を見つめながら、私は声をあげて泣いた。
母は私の背中を静かに摩りながら耳元で囁いた。
「大丈夫よ、蓮太郎。やり直せばいいの。次はね、あえてすべての罪を認めて頭を下げ、半年間、小さな地方の劇団で裏方から始めなさい。泥に塗れる姿を見せるの。世間はね、転落した天才が這い上がる物語が一番好きなのよ」
母の言う通りに動いた。プライドを捨てて劇団の雑用から始めた。その姿がやがてドキュメンタリー番組の目に留まり、私は「苦悩を経て生まれ変わった実力派俳優」として、以前をも凌駕する奇跡的なカムバックを果たした。
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日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞のブロンズを抱えながら、私は確信していた。母はただのステージママではない。大衆の心理を完璧にコントロールできる、恐るべきマネジメントの天才なのだと。
事務所を独立し、母を個人事務所の代表に据えよう。そう決意して実家に戻ったとき、私は言葉を失った。
母は、自室のベッドで変わり果てた姿で横たわっていた。重い病に侵され、医師からはもう長くないと告げられた。
「蓮太郎……おめでとう。テレビで、見たわよ……」
弱々しく微笑む母の手を握り締めながら、私の全身を、これまでにない冷たい恐怖が駆け巡った。
この人が死んでしまったら、どうなる。
背筋が凍りついた。子役時代の成功も、あの悪役での起死回生も、スキャンダルからの奇跡の復活も、すべては母の言葉に従った結果だった。自分一人では、ただの一度も成功していない。母という羅針盤を失えば、私は明日からどちらを向いて歩けばいいのかさえ分からない。
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母が静かに息を引き取ったのは、それから数日後のことだった。
葬儀を終え、誰もいない母の書斎で、私は遺品を整理していた。母が私のために遺してくれた、これからのアドバイスがどこかにあるはずだと、狂ったように引き出しを漁った。
鍵のかかった引き出しの奥にあったのは、一冊の古い黒革のノートだった。
そこには、私のこれまでの経歴と、その裏での母の動向が、事務的な箇条書きでびっしりと書き込まれていた。狂喜乱舞してページをめくっていた私は、ある日付の記述に目を留め呼吸を忘れた。
『二月十六日。蓮太郎が私の手を離れ、生意気な口を利くようになった。このままでは私から離れていってしまう。一度、完全に叩き潰す必要がある。
週刊誌の馴染みの記者に、蓮太郎の飲酒と女性関係の写真を匿名でリーク。これで彼は一度破滅する。その後、私が優しく救い出す。そうすれば、彼は二度と私なしでは生きられなくなる。私を神と崇めるようになるだろう。完璧な依存関係の完成』
手元が震え、ノートが床に落ちた。
あのスキャンダルを仕組んだのは……私を奈落に突き落としたのは、他でもない、私を優しく抱きしめた母だった。
呆然と立ち尽くす私の視線が、床に開いたまま落ちているノートの、さらに先のページへと向かう。そこにあったのは、未来の予言などという生ぬるいものではなかった。それは、母が死んだ後、私がどう行動するかを完全に予見した「蓮太郎の取扱説明書」だった。
『私が死んだ後、蓮太郎は必ずパニックを起こし、このノートを探し出す。そのノートに書いてある通りに適切に対応すれば、私が肉体的に消滅した後も、蓮太郎は大丈夫よ』
部屋の中は、静まり返っていた。
私は床に膝をつき落ちたノートを拾い上げた。指先はもう震えていなかった。
最後のページを開くと、小さな薄型のボイスレコーダーが貼り付けられていた。その再生ボタンを、親指で静かに押し下げる。
「レンちゃん、今日もとても良くできたてたわ」
スピーカーから流れたのは、ノイズ混じりの、聞き慣れた母の硬い声だった。
私は何も言わず、ただ、部屋の隅にある姿見の前に歩み寄った。鏡に映る自分の顔を見つめる。
そして、口角を両手の指で引き上げ、十歳の頃に何千回と繰り返した、あの完璧な「レンちゃん」の作り笑顔を張り付かせた。
鏡の中の私は、一切の感情を失った目で笑っていた。
私はノートを机の上に開き、母の遺した「次の指示」をじっと見つめた。そして、ペンを握ると、明日やるべき仕事の項目の横に、淡々と、黒いチェックマークを入れていった。
明日も、明後日も、何年後だって、私はこの再生ボタンを押す。私が道に迷わないように。
「レンちゃん、今日もとても良くできたてたわ」
