紫陽花カラー(創作話)創作大賞2024応募作品
夜更けに娘がスマホを熱心に見ていた。
何してるの?
「読み物。」
「どんなの?」
「推し活にとち狂ったヤバイ主婦の話」
思わず黙ってしまった。
推し活
とち狂う
ヤバイ主婦
おもしろそうだなぁ。
私は妄想してしまった。
第一章 転落
私が推し活を始めてから5年が経った。
当時16歳で3人組でデビューした推しは26歳になった。私のちょうど20歳年下。
あのあどけない表情をした少年は、大人の顔つきとなり益々私を魅了させた。
ここ最近ではテレビで見ない日はない。
推しを知りたくて力になりたくてすべてを捧げたくなって、出ているテレビ番組を観ることはもちろん、自分の趣味を推し活にしていた。
子供が少し大きくなると近くに住む母に子供を預けて、ライブの遠征にも飛んだ。
今までの仕事量じゃお金が足りないからと仕事を増やす。稼いだお金は夫には内緒にして、グッズ代に費やした。
それでも足りない。
でもどうしてもフォトセットはほしいし、
次のライブの遠征費が足りない。
どんなことをしても、どんな手を使っても推しに会いに行く方法ばかりを考えていた。
日々の生活の半分以上の思考は推しのことでいっぱいになり、半分で済まなくなり、自分の脳内は推しが100%を占める。
ついには子供の学資保険、生命保険に手を出し始めてしまった。
家を見渡して、ぜったいに必要な物なのに、あんなに想い出のつまったものなのに
手当たり次第紙袋に詰めて売ってしまった。少しでもお金になるならと鬼の形相となり、気がつかないうちに心も疲弊していく。疲弊しているのに、私はそれを苦だと思わない。もはや幸福への階段を万能感いっぱいで上っていく。
転落なんてものは見えていないし、するわけはないと思う。
家族にばれたら終わってしまうから、写真もうちわも押し入れに隠した。
誰もいないときにこっそり出して、笑いが止まらない。
ある日夫に詰め寄られた。
「家のお金どうなっているの?」
「何が?子供の学費がね今月高かったの」
平気で嘘をついた。
どうしよう。
通帳は底をつきそう。
夫に知られるわけにはいかない。
第二章 熱愛
お金を、家のお金を大量に使い込んでしまった。今日は仕事が休みだから証拠隠滅をしないと。
それから全財産の確認。
まるで泥棒が入ったかのように、引き出しという引き出しを開けていく。
引き出しをひっくり返して、誰もいないうちに通帳を確認しなきゃ。
計算した。150万使い込んでいる。
ファンクラブ、遠征費、グッズ代金、CD、 ブルーレイ、雑誌、本、缶バッジ、あとは推しがCMしている食料品。シールを集めると限定のプレゼントが当たるから、買い占めたんだ。ライブを思い出す。私と推しが両思いになれる唯一の場所。
次の公演も行くって決めている。
推しがよく行くレストラン。聖地巡礼。
推しが昨日食べたもの。
好きなもの。着ている服。つけているアクセサリー。
全部一緒がいい。あっ、これはこれだけは売らなかった。推しのメンバーカラーのストール。
白地に小さなスパンコールがあしらってある。
私のこと、認知してくれているかな?
軽く畳んで引き出しに戻した。
通帳も夫が絶対開けないような場所に封じ込めた。
あとは仕事も増やしたし、節約をしよう。
職場に持っていく昼食なんていらない。
子供のお弁当は?長女のあかりはバイトしているし、ここの職場では余ったお総菜を持たせてくれるからそれで、賄える。
昼休憩は車に戻って推しの歌を聴くんだ。
なんて贅沢な時間。
これでもかというくらいシミュレーションをした。
結局はお金なんだけど。まだバレてないから。
それに夫は私を許してくれる。
判断ミスだとしてもこれから考えていく。間に合う。
そんなことより、今日の夜はテレビに推しがでる。
早いところ片付けて彼のために私は頑張る。
明日は仕事だな。大丈夫。
乗り切れる。
午前中の仕事でもうくたくたになった。ただでさえ蒸し暑い6月、火を使う現場で長袖の制服に頭からすっぽり帽子をかぶって長靴をはく。
汗が頭から足までツーッと流れていっている。
「まじでヤバイね、夏どーすんのよ。」
休憩から戻ってきた同僚が私に声をかけてきた。
表情はお互いよく見えない。
暑くて声が出せず、うんと頷いた。
「あー、ネットニュースみたよ。いま人気のコウくん?熱愛でてた」
は?
なに?
聞き間違えか。
私はここではファンを公言していない。
「2番行ってきます」
何か話をしていたが、遮って休憩に入った。
心臓がバクバクして足元がおぼつかない。
破り捨てるように制服を脱いで、ロッカーに向かった。
「スマホ、スマホ」
深呼吸の途中でネットニュースのトップ画面が出てきた。
推しの名前。
女の名前。
熱愛
熱愛
熱愛
「ウソ」
ロッカーに背中を向けてしりもちをついた。
ネットニュースってさ、ウソばっかり書くんだよね。
記事なんて読んでたまるか。手にじんわり汗をかいて目を細めてちょっとだけ見てしまった。
共演にて愛を深めた。
あー、なるほどね。共演してたね。
あの、清楚な感じで売っているB級タレントか。グラビアだかコスプレだか知らないけど
うっすいコメントしてたわ。
だまされてるよ。私の推しが騙されてる。
あの女、どんな手を使って。
なんで私の推しに?他に男なんていっぱいいるよ。
「やめて!」
私の中からどす黒い感情が溢れだして止まらない。それはどんどん増幅していって、仕事なんてしていられない。
帰りたい。帰って女のインスタを確認しないと。
上司に言う。
「すいません、具合が悪いので帰ります。朝から熱があって」
許せない。浅はかな考えなのか?
そんなの知るか。
誰にも渡したくない。
第三章 攻撃
推しの熱愛。
いつかそんな日がくることを覚悟していたつもりだった。ウソだった。私の推しはファンだけを愛し、見つめてくれている。
僕は君たちのものだと、悲しませることはしない。
アイドルはファンしか愛さない。
そんな不埒であり、確信のないものを私は信じていた。
家に戻り、スマホで女を調べた。
出身地、年齢は23歳。身長158センチ。子供の頃はアナウンサーになりたくて、上京したら原宿でスカウトされた。バラエティー中心に活躍して歌うし演技もする。
インスタに飛ぶ。
今日のファッション!
ワンショルダーのトップスに薄いブルーのロングスカート。スタイルと若さに自信がある証拠だ。1枚1枚凝視していく。身体のラインに合わせてこれでもかと隠れた肉体を、みせつけられる。細くて綺麗で華奢な足首を組んで腰を少し落としたポーズで唇をキュッとあげて顎は引きぎみだ。
あんたみたいな40代半ばの女が私に勝てるの?と言われているようで虫酸が走った。
近々、CD発売に伴いイベントが行われる情報を仕入れた。CDを購入すればイベントに参加する権利が与えられる。
まだ売っているかもしれない。
点と点が、想像を越える大きな黒い岩のようになり私を突き動かした。
気がつくと、役場から17時を知らせる音楽が流れた。
あかりはバイトがあるから遅いはず。息子のハルも友達の家に寄ると言っていた。
気がつくとCDショップに向かい自転車を走らせていた。
7月某日。晴れ。13時過ぎ。
家から電車で1時間ほどの駅ビルの最上階にある屋上のイベント会場に女はいた。
一応CDは持ってきてあるから、サインを求めて握手を交わすつもりだ。
握手をする事を考えただけで胃の中から今朝食べたパンの欠片が飛び出して、その、吐瀉物は色を変え形を変え本物の化け物に変身してしまいそうだ。その、化け物が女を襲えばいい。
握手をしたら、手紙を渡す。
笑顔で、笑顔で。
いつも応援しています。
頑張って下さい。
お前が推しを騙したから、端から見たら異常だと言われるような事をしようとしてるんだよ。
推しの前にも何人かの俳優やアイドルと噂があったんだろう?
チャラついた男が多かった。
私の推しはね、あんな男達と違うんだよ。
あいつらは時に正論を述べて、時におちゃらけて女の喜ばせ方を熟知している。
計算高くそれでいてプライドもこの世界の自然に位置するどんな山よりも高く、エンタメとしての自分の立ち位置をよくわかっている。
私の推しはね、私の推しは違う。
気品に溢れ心は澄んでいて清らか。
正直で自然を愛でて動物も心から愛する。
思ってもいないのに、このワンちゃん可愛いですね!なんて言わない。
よく覚えておけ。
あんなに溢れていた行列だったのに、あと数十人で順番がくる。
吐きそうだ。ファンは9割は男性で20代から40代くらいが多いような気がする。
私が推しを好きなように、ここにいる者は女を推しているんだ。
熱愛報道を知っているのだろうか?そんなことは関係ないのか。あの細くて白くて不敵な笑みを浮かべる、男を翻弄させて、か弱さを演じる本性を見抜いているの?
あの女のかつての恋人の中には妻帯者もいたはずだ。
それを知ってもなお、会いに来たいと思うのか。
私と一緒で自分は格別だと他のそれとは違うと。
「こんにちは!こんなに暑いのに来てくださってありがとうございます。」
ハッと我に返った。
後ろに並んでいる者からの圧を感じる。
少し押されたような感覚によろけそうになりながら、踏ん張って立った。
トートバッグから出してあったCDを差し出して、ウソ偽りしかない笑顔をくれてやった。
何も気がつかないバカな女は
「わー、ありがとうございます!」と言ってささっとサインを書いてから、手を差し出してきた。
「あっ、頑張って下さい。」
精一杯の笑顔をしたつもりが目の奥は、鋭く光ってしまったかもしれない。
強く握ったら折れてしまいそうな指だ。
触れるのも憚りそうな美しい手をそっと握った。
また胃の奥から恐ろしい造形物が這い出てきそうになる。
「これ、読んでください」
「お手紙ですかぁ?うれしい」
見え透いたウソだ。えへっと首をすくめて投げるように横のテーブルに置いたのを、私は見逃さない。
黒いスーツを着た若い関係者らしき男が、私を手招きしている。時間にして45秒。
やってやった。
やってやった。
トートバッグの中でCDがコトコト鳴っている。夏のビルの最上階は焼けるように暑く、早くこの場から立ち去らないと、ビルごと溶けてしまいそうだ。
ふりかえらない。顔を見られたら。
もう女は私の顔を忘れているはず。そもそも存在していなかったことになっているかもしれない。
私は渡した手紙に
「死ね」と書いた。
夫とは大恋愛の末の結婚というわけではなかった。中学の同級生で、就職してから同窓会で再会し付き合って、この人良い父親になりそうだなぁと直感で結婚した。
そして2人の子供を儲けた。
大きな喧嘩をするようなこともなく順風満帆だと言えばそうなのだろう。
「ただいま」
高校生の長女あかりが帰って来た。
もう22時時を回っている。飲食店でバイトをしているあかりは毎日帰りが遅い。
「おかえりなさい。お風呂はいるの?」
夕飯はバイト先で済ませてきているはず。
「ハルは?」
弟を探して辺りを見回している。
「今日は友達のお家に泊まりに行ってる。
明日は土曜だから部活にそのまま行くんだって。そんなことばっかりして大丈夫なのかな?」
中学生の息子ハルは来年は受験で遊べなくなるからと、頻繁に友達の家に泊まるようになり、その度に友達の親御さんとメールでやり取りをしなければならなかった。
「ふぅん。22時半から推しのインスタライブでぇす。お風呂に直行!」
「時間ないじゃない!早く入っちゃいなさいよ」
あかりにも推しがいる。
アイドルグループの一人で、ライブやらファンミで充実した日々を送っていた。
私の推し活のことは知られてはいるが、散財についてはあまり知らないと思うので細心の注意を払っていた。
15分もしないうちにお風呂から飛び出してきたあかりは、タオルで1度頭を押さえなから長い髪を拭き始めた。
「お母さん、今度ゆっくり話すけどさ~。私大学いくのやめるわ。」
寝耳に水だった。
「え?なんで?行きたい大学あるんじゃないの?」
「うーん。げっ、こんな時間じゃん。部屋にこもりまーす」
どうしたんだろう。この時期の環境の変化?
あかりは決して成績も悪くないし、やりたいことも決まっていると思っていた。
でも、私は少しだけ安堵していた。
私が使い込んだ家のお金。子供のお金。
大学に行かなくて済むなら。
インスタライブ視聴を終えて上機嫌でリビングに戻ってきたあかりに話しかける。
「かっこよかった?」
「まじで、やばい、エモい!新曲出るってよ!ハート飛ばしまくり」
「盛り上がってるところ悪いんだけど、大学のこと」
ちょっと待ってというように手でストップをかけられ冷蔵庫から麦茶を、取り出してコップにすすいでいる。
ダイニングテーブルでお互い向かい合って話をする。
「行きたいなって思ってたのは確か。でもさ、お母さんごめん私勉強好きじゃないわ。デザイン系の専門に行きたいの。2年間ね。そっちの勉強をして、まだわからないけど将来の自分の道?決めたいの」
「そっか。わかった。じゃあお父さんに聞いてみないとね。お父さんは大学に行けって言うかもしれないけど」
「出た。」
ため息をついて麦茶を飲み干す。まだ濡れている髪を指先でくるくる回しながら私の顔を見た。
「お母さんてさ、自分の意見とかないの?
私はお母さんがどう思うかを知りたくて今話したんだよ?いっつもそうやってお父さんに聞いてみるってさ。」
暑い、と言ってイスからポンっと降りて冷房の真下に立ち、パジャマ代わりに着ているTシャツを脱ぐ。下には何も着ていない。こちらに背中を向けて無造作に投げられた推しのデザインした白いTシャツはソファーに引っ掛かっている。
「気持ちいいー。」万歳をして冷房の微風を受けている。
まだ何も知らない細身の体つき。
後ろからはよく見えないけれど胸はふっくらと丸びを帯びており、余分な贅肉はついていない。
運動はしていないが、10代特有の艶のある肌と引き締まったウエスト。綺麗だな。
23歳。あの女の年齢。
余計な事が頭を過る。いま、娘に叱咤され落ち込んでいるはずなのにあかりの半裸をみて何かがこらえきれなくなりそうだった。思わず目を背ける。
ようやく私は口を開いた。
「わかった。でもお金を払うのはお父さんだから。伝えておくね。」
あかりは振り向きもせず、今度は真っ直ぐ顔を上に上げて風を浴びている。
「おやすみ。早く寝なさい。」
ガタッとイスの音をさせて流しに飲みかけの麦茶を流した。
適当にコップを洗い、寝室へ向かった。
まだ夫は帰らない。
明日の朝にでも話せればいいけど。
もしかしたら、終電に間に合わず、会社に泊まるかもしれない。メールも来ないだろうな。
まあいいけど。
第四章 欲求
朝起きたら夫の姿はなかったが、洗面所に歯ブラシと髭剃りが無造作に置かれていた。
浴室を開けるとまだ生暖かく、誰かがシャワーを使った事がみてとれた。
タクシーで帰って来てまた家を出たのか。はっきりわからなかった。
イベント関係の仕事をする夫は繁忙期には土日はない。
私は、キッチンのやかんでお湯を沸かしながら、メールを打った。
「おはよう。お疲れさま。あかりが大学ではなくデザイン関係の専門学校に行きたいと言っています。」
数分後、返事がきた。
「本人がそう言ってるならいいんじゃないでしょうか」
まあそりゃそうなんだけど。
疲れているのが明瞭だった。時間が合うときにきちんと話をしないとダメだな。
土日に、夫の姿はなくあかりとハルもそれぞれの生活を送った。
あれから、あかりとはろくに口をきいていない。バイトにいく以外は自室に籠っていた。
明日からまた仕事が始まる。疲れたな。ソファーに横になってYouTubeを開いた。
推しの動画。
なんて癒されるんだろう。3人が歌っている。このミュージックビデオは秋も深まる涼しい時期に屋外で撮影されたと聞いている。哀愁漂うバラードにちょっとだけ形の違う衣装を合わせて聴かせる歌声は日常から切り離されて、そっちの世界へ連れて行ってくれる。私は音だけを聴きたくなってイヤホンがちゃんと耳に合わさっているのかを確かめてから目を瞑った。
推しが女と連泊愛!というスクープが入ってきたのは、有給を取って仕事を休んだ日だった。私は母と四駅先のデパートの催事場で行われている山形、宮城物産展に出向いていた。
母とは仲も良く一緒に出掛けるのは苦ではなかったが、スマホでそれを知ったとき買い物の途中だったにも関わらず1人で帰ってきてしまった。
ハルの学校から連絡があって。
私は1人で帰るから大丈夫よ。
母には申し訳ないが、いてもたってもいられなかった。
夏の日差しがとても強い。
家につくなり、冷房のスイッチを入れて手と顔を洗う。ビシャビシャと音をたてるとそれに合わせて心臓の鼓動も波打った。
電車の中で記事は大体目を通していた。
女のマンションに3泊したという見出しの週刊誌に推しは撮られていた。
暑すぎて着ていたワンピースを脱いだ。その燃えるような暑さは、気温のせいなのか怒りなのか妬みなのか嫉妬なのかよく分からない。
和室の奥にある襖を勢い良く開けて、誰にも見つからないようにしまってあったグッズの数々を取り出していく。
リビングに戻ってフローリングにばらまいた。
うちわとペンライトと、タオル。Tシャツとトレーナーとキーホルダー。
また、和室に戻って取りきれなかった宝物を今度は紙袋に放り込む。
これで全部。
写真集も雑誌も単行本も。クリアファイルもアクリルスタンドも大量のCDもブルーレイも。それをまたばらまく。
何十冊もの雑誌。
私は四つん這いになってそれらを平らにしてその上にゴロンと横になった。
丁度、目の前に去年発売された写真集が、推しが個人で出したものが落ちている。
表紙はもちろん推し。爽やかに笑ってポーズを決める推しと目があった。
「ファンサをされたのは6回。目があった回数は数えきれない。」声にだしてみる。
私は推しを撫でた。正確には愛でた。
「私の方が好きなんだけどな」
起き上がって写真集を開いてみる。
ワンピースを脱ぎ捨てた私はタンクトップ1枚になっていた。重力に逆らえない中年の身体は、あの女と比べたら、あの女と比べたら。
ねえあの女を触った?
どうやって?
あの女は恍惚の表情を浮かべた?
どんなふうに?
ふたりだけの秘密にしてることある?
離れたくないって言われた?
淫靡で淫らな行為を楽しんだ?
きれいな指細くて長いんだよね。
2個前の髪型が好きだったんだ。
ちょっとだけ今より短くて柔らかい髪質。
どんな言葉をかけた?
誰も聞いたことのない声?
私も聞きたい、
っていうより聞かせたくない。
もしかして、もしかして
愛してるって言ったの?
頭がガンガンする。
手足が痺れてくる。
顔のあらゆる表情筋がピクピクしている。
苦しい。苦しい。どこにも行かないでよ!
子宮の中なのか外なのかわからない朱色に染まった 液果 が湿気を帯びている。
そんなものとうに消え失せたと思っていた。
今気がついた。
私は推しを欲情していた。
第五章 自分
自分の気持ちを鎮めるのに、そんなに時間はかからなかった。私は主婦だ。
家族が帰ってくれば、今まで通り笑顔で迎えて夕飯を出す。
頭の中で推しとあの女がどんな姿でいようと、そんな事は尾首にも出さず生活していける。
あかりは自分から夫に専門学校に行きたいと申し出ていた。日々の仕事で疲れている夫は、一見興味がないように見えたが可愛い娘の大事な進路の事だ。
パンフレットをみせてね。と声をかけていた。
朝、仕事に行く直前で今日は可燃ごみの日だと気がついた。いつも通りの自分なんてよく言える。
次はどんなスクープがでるかわからない。
知らない間に表向きとは正反対の絶えず襲ってくる不安と緊張感に、私は蝕まれていた。心がざわついている。
毎日胃が痛い。こんなに誰かを想った事があっただろうか?
ゴミを出しに行くときに家の前の道路沿いの一軒のお宅の庭に色とりどりの紫陽花が咲いているのが見えた。
紫、青、白、薄紫、ピンクどれも美しく咲き誇っている。
少しだけ風に揺れて朝露に光りこちらを向いている。
私の初恋っていつだったけな。
小さくため息をついて、小走りでごみ捨て場へ急いだ。
うだるように暑い夏が過ぎてもなお涼しさなど戻らない9月半ば。
学校から戻り、塾へ行く支度をしているハルがベランダで洗濯物を取り込む私のところにきた。
「俺のワーク知らない?英語」
「知らないよ。色々なくなるね。ほんとに。」
「あれ?昨日までここにあったんだけど!まじで困るし」
またいつもの無くしものか。
家を出るまであと10分もないじゃないか。
リビングテーブルの上の物をザッーと片手でどけているが、新聞とカタログくらいしかなかったはず。
「あった!」
なぜか床に落ちていた英語のワークをハルはつまんでクルクルと折ってリュックにしまった。
あと5分しかないのに、今度はスマホの画面を見ている。
あぐらをかいて座り込んでしまっている。
「あのさ、たまには早く行ったら?もうちょっと」と言いかけたところで、ハルが驚いた様子で私の顔を見た。
「速報!姉ちゃんの推し結婚!相手は一般人!やばっ」
「え、ちょっと待ってよ。ほんとに?」
「ほれ」
ハルが私の目の前にスマホを差し出した。
速報ニュースとして画面に飛び出ている。
アイドルグループSSIIリーダー佐原順希 結婚。
「おめでとうございまーす。イケメンだからね、結婚するっしょ。では、いってきまーす。」
確かにあかりの推しだった。
五人グループの中で最年長のリーダー。
名前をもじって、ジュニちゃんと呼んでいた。あかりは大丈夫だろうか?
中間テスト前でバイトは休んでいる。夕方友達とファミレスで勉強するから夕飯はいらないと言われたような気がする。
激しい動悸がしてうろたえた。
自分の事ではないのに。なんて言葉をかけよう。あかりは落ち込んでいるのかな?
同じクラスの友達にも何人かで同じグループを推していると聞いたことがある。
いいや、今晩の夕飯は適当で。
あかりが戻るまで落ち着かない。
19時時頃、玄関のガシャという音で目が覚めた。ソファーでうたた寝してしまったようだ。
私は条件反射のように起き上がる。変な格好で寝ていたのか左足がじんじんと痛い。
あかりは家の中に入ってきていた。
「おかえり」
この表情が合っているのかわからなかった。いつもと変わらない風を装って迎えた。
「ただいまぁ。知ってると思いますが!私の推しが結婚しましたぁ」そう言って私の横を通り抜けていく。
バッグは洗面所の途中にある自分の部屋によっ!と投げて手を洗いに行ってしまった。
今まで横になっていたソファーにもう一度座り直してシワを伸ばしていると、あかりは持って帰ってきたらしいコカ・コーラのペットボトル片手に反対側のソファーに腰をかけた。足をブラブラさせている。
いつもなら、お風呂に入れだのテストの勉強はどうなっているのかなど聞くところだがそんな気分にはなれなかった。
壁にかかっている日めくりカレンダーの日付けが昨日のままだ。明日の朝2日分捲ればいいかなと思った時にあかりがコーラをグイっと飲んだ。
「聞いてよ。今日すっごく大変だったの。」
「うん。」
「放課後、いつもの5人でね、ライブはきっと来年の春じゃない?って盛り上がってたらさ。スマホを見てたりーちゃんがギャーって大声だして、私達もビックリしてなになに?って。ジュニちゃん結婚したーって言うんだもん。まじで心臓に悪かった。」
あかりとりーちゃんはリーダーのジュニちゃんを推していて、一緒にライブにも行っていた。
他の3人はひとりずつ違うメンバーを推していたようだ。
「それでさ、他の3人ももらい泣き状態で。泣いてないのは私だけ。よかったよ、うちのクラスが女クラで。隣の男クラのヤツが泣き声にビックリして見に来たんだよ。だから前と後ろのドアを閉めて。」
あかりの高校は共学だが2年生から男子と女子が別々のクラスに分かれていた。
「そしたら今度は数学の小坂が突然教室に入ってきて、まだ帰らないの?とか言うわけ。私思わずスマホの画面を見せてさ、ジェスチャーで、りーちゃんのこと指さして」
「大変だ」
私は苦笑いしてしまった。
「小坂がど真面目な顔してさ、」
そう言ってあかりはソファーから腰を上げるとテーブルに置いてあった私の老眼鏡をかけて両手を前に組んだ。どうやら小坂という教師の物真似らしい。
声を少し高めにして
「先生にも推しがいるから、あなた達の気持ちはわかります。今日は早く帰って温かいお風呂に入って寝なさい。明日、学校にも来なさいね。だってー。なんだよそれ。小坂の推しって誰よ?」
眼鏡を外して元の位置に戻してから、小坂って独身なのかなぁ?と首を傾げていた。
それから、あかりは興奮ぎみに話した。
りーちゃんは、死んじゃいたいくらいショックで、もうライブも行きたくないと言っていること。
他の3人は、次は誰が結婚するんだろう?と丸くなって話が止まらなくなっていたこと。
ライブはいく?行くけど萎えるわ~。
でも、自分の推しだったらさ耐えられないよね!りーちゃんの気持ちわかるよ!
なんで今なんだろうね?
次のライブの後でよくない?
妊娠してるんじゃない?まじで?
今までみたいに応援できるかわかんなーい。
そのあとはお通夜のような状態で誰もファミレスに寄ろうとか、そんな話も出ずに解散となったらしい。
「そんなわけで。りーちゃんは明日は学校お休み。私は行くけどね、アイスたべよっと。」
制服のない高校だから、あかりはいつも私服だ。黄色のTシャツに爽やかなデニムを合わせてスタイルも良い。
「お母さんも食べる?」
一昨日スーパーで買ってきた箱のアイスがあった。イチゴの果肉が入った棒のアイス。5本入りで昨日夫と子供達が食べたから残りは2本。ハルが塾から戻ってきたら、食べたいって言うかもしれない。
「お母さん!アイス!今食べたい?食べたくない?どっち?」
「食べたい」
フッとあかりは笑って私のところまで持ってきてくれた。
「ありがと」
「お父さんとハルの分なんていいんだよ!2人で食べちゃおう!早い者勝ち」
アイスを食べるのなんて、久しぶりだ。
毎日のように買ってきてはいたけれど、それはいつも家族の分で自分はその中に入れていなかった。
それで良かった。家族が幸せなら、それで。
「あー、りーちゃん大丈夫かなぁ。失恋状態だから。ラインもこないし。」
昔、学生の頃友達が失恋をしてみんなでカラオケに行ったっけ。
誰かが竹内まりやの元気を出してを入れて、みんなで歌ったな。
もらい泣きしちゃって。青春だ!男を忘れるには次の男!なんて騒いでいたな。
ポタッとアイスが左手の甲に垂れた。
早く食べないと溶けてしまう。ちょっと上を向いてあと少しで食べ終わるイチゴアイスの最後の部分を口に入れた。
棒をゴミ箱に捨てて向き直るとあかりがクッションを抱き締めながら、私の隣に座った。
「本当はね、すごく悲しいし泣きたかったんだ。」
「あかりちゃん」
あかりの目はたちまち濡れて大粒の涙が両目から零れる。頭を撫でた。サラサラのストレート。トリートメントの良い香が漂う。
「でも、私は推す。推しの大切な人は私の大切な人。なーんて言い切れないけどさ。
今はね、まだね」
私はあかりの背中を擦った。それに合わせるように泣きじゃくっている。
今頃になって私の左手の甲に垂れたイチゴアイスが完全に溶けたような気がした。
あかりは今傷ついているんだね。真っ直ぐ傷ついてる。
あかりはすごいよ。
本当にわたしの娘?
「コウくんのこと。」
「え?」
「お母さんが傷ついてることわかってたよ。それなのにひどいこと言っちゃった。ごめんね。」
心臓の鼓動が早くなった。
違う。
私は傷ついてなんかいなかった。
傷ついたふりをしていた。自分が一番不幸だと思って、原因を推しのせいにした。これだけ恋をしていた責任をとってと言わんばかりに。
それにね、私は推しの大切な人を傷つけた。傷つけに行った。
「…もし、コウくんが結婚とかしたら。
ごめん、やだよねこんな話。」
「大丈夫だよ。結婚とかしたら、なに?」
「どう思うのかなって。」
「あかりみたいには、思えない、かな。りーちゃんと同じ。悲しいって思うと思う。でも言いたいよね、いつかは。おめでとうって。うーん言えるかな?」
「それ、お母さんの本音だよね?。いいと思う。それで。」
うぅっと声が出てしまった。ハラハラとなんだかわからない涙がとめどめもなく溢れ、止められなかった。
ティッシュティッシュとあかりが箱ティッシュを持ってきて、2人で涙を拭く。
「ねえ、もうすぐお父さんとハルが帰ってくるんじゃない?2人で泣いてたらおかしいって。冷静になろう。」
ソファーから立ち上がった私とあかりは、めっちゃ泣いてるじゃん!と言い合ってそれぞれの事を始めた。
一回ひび割れた空気が元に戻っていくような感覚を覚えた。
そのあとすぐに帰宅したハルがアイスがないと大騒ぎしたが、
「うるさい!そういうこともある!」
という姉の一言で何も言えなくなってしまっていた。
翌朝、いつも通りの朝。
夫はすでに家を出て、ハルは寝坊で夢の中。鏡の前で最後の髪の毛のセットと洋服の乱れを直していたあかりが、玄関から私に声をかけた。
「ねえ、今度のこっちのライブお母さんも行こうよ。りーちゃんは、やっぱり行かないって言うからさ。どう?」
あかりが グリーンのスニーカーを履きながら探るように私の目をみている。
「行く!」
「やったぁー!発表あったら言うからね!
じゃ。いってきまーす。」
またあのトリートメントの香を残して飛び出していった。
さあてハルも起こさなきゃ。今日は可燃ゴミの日だ。あの紫陽花はまだ咲いているだろうか。私は邪魔だなと言いながら髪をゴムで縛った。
完
