言葉とは形を与えることなんじゃないか
この形にならない感情をどうすればいいのか、ずっとわからなかった。
この感情は一体なんなんだろう…。
noteを書き始めて一年半が経つ。
最初の頃は無我夢中で書いた。
何本か記事を書きながら、かしこまった自分を出したり、ちょけたフリをして様子をうかがったり。
頭を出したり引っ込めてみたり、まるでヤドカリにでもなったようだった。
過去の自分を掘り下げて未来へ繋げる。それは展望として?いや、希望としての方がしっくりくるような気がする。
書くことがありすぎて毛穴という毛穴が開き、自分を止められないくらいだった時期を過ぎると、書くことが全くなくなった。
その頃は
「ネタさえくれればかけるのに」
家族の会話からワードチャンスを狙って、耳をそばだてた。
ワードは揃ったのに何も書けない。
思った以上に簡単なものではなくて、寝ることにした。
眠りにつけば、100パーセント夢を見るので夢の中の話からまで書くことを捻出しようとしたのだ。
こういう生活を、幸せって呼ぶんだと思う。幸せの真ん中にいるから、わたしは気がつかない。
書くことが何もないと、探しものをするように、たくさんの方々の記事を読んで歩くようになった。
そうすると、普段何気なく使っていた言葉の意味を深く知ることになる。
間違った解釈をしていた言葉はやまのようにあった。
人によって言葉の使い方や選び方が異なる。
企画などで言葉遊びをしているのを見かけた。小さな世界の結び目が解けていくような感覚を覚えた。
ノンフィクションを読んで、病気の理解をしたり人の苦しみを知る。
自分とは違う人生の 心のゆらぎを感じて、 締め付けられるような想いを心の中で整えた。
整えようはなくとも、考えてみた。
それが成長なんだと現在は思う。
自分の過去の話や辛い記憶に触れようともがいていたら、時間が巻き戻るような錯覚を起こすことがある。
まだ脱皮はできていない。
一生そうなのかもしれないが、書くことで一歩とは言わず半歩だけでも前に進んでいる気がする。
書き続けてきた。いまもそれは続く。
何をおもう?言葉ってなに?
と自分に問うてみる。
言葉とは形を与えることなんじゃないか。
人には想いがあるんだけど、自分の中にあるだけで、表に出さない想いはいずれ消えていく。
儚いものなのだ。
だけどあえて、そういう想いに形を与えてあげる。
人の考えや気持ちに形を与えることが言葉を紡ぐということだ。
言葉を与えたら人に伝えることができるようになる。
言葉にすれば人に伝わる。
伝わった言葉たちが、辛い思いをしている人の心を一瞬和やかにしたり、時に人生を変えたりする。
それが世の中に受け入れられれば世界を変えていくこともできるかもしれない。
想いは言葉という形を与えた瞬間に、相手のものになる。
わたしは自分の中にある感情に言葉という形を与えることで、ようやくその正体を理解できた。
これはきっと、"愛"だ。
もっともっと言葉を紡いでいきたい。
愛情溢れるものを書きたい。
私が紡いだ言葉を使って私の中にある愛を形にして届けたい。
ことばとさんのモノカキングダム2025に参加致します。
